第6章 父の人生
岸田巌は街の小さな電気工事店の長男として生を受けた。決して裕福な家庭ではなかったが、世間並み以上の生活はさせてもらっていた。区域の公立小学校と中学校に通い、高校も工科系では府内で1、2を争う難関の公立高校へ進んだ。近所に比較的大きな消防署があって、署員が消火活動や非常事態対応などの訓練を行う姿が、通学の生き返りに沿道から見ることができたことで、子供の頃はそれに憧れを持って、自分も消防隊員になりたいと思っていたらしい。しかし、父謹吾が創業した家業を継承するという、昔ながらの長男の宿命に抗うことは許されなかった。
巌は高校を卒業するとすぐに、第1種電気工事士を目指し、それをクリアすると、今度は1級電気工事施工管理技士に挑戦した。家業が電気工事業を営んでいることで、実務技能では有利な部分もあったが、元来小学校より優秀な成績を収めていた巌は最年少で合格することができた。
「わかっ!さすがですねっ。うんうん、よかった。よかった。これで岸田電建も安泰や」
国家試験合格を誰よりも喜んでくれたのは昔でいう大番頭の位置にある小林弥一郎だ。岸田電建の肩書としては営業部長だ。
「あ、ありがとうございます。小林部長、前から言うてますけど、その、わか、っていうの止めましょうよ」
巌は照れくさそうに苦笑した。
「ええやないですかあ。(わか)は(わか)やねんから。次期社長で頑張ってもらわんとねぇ」
小林は楽しそうに大声で笑った。
巌はそんな会社の2代目として、事業継承してから30年近くになり、社員も20名余りにまで成長させてきたが、最近になって体調が芳しくないことに気が付いていた。以前のように身体が思うように動かせないし、胃の奥というか、背中側というか、変な場所に痛みを感じたりする。本来医者嫌いで、健康診断など、高校時代を最後に受けたこともなかった。しかし、今回は何故かいつもと違うような気がしたので、ついでと云えば、ついでなのだが、以前、妻恵子のアルコール依存症について調べた際に、懇意になった得意先の契約医療機関に勤める医師大岡健司の紹介で検査することにした。
「娘さんはお越しにならないんですか?」
大岡医師は巌を前にして、モニターに映し出された画像のいちぶにカーソルポインターを移動させた。
「え?ま、あいつに見せてもしょうがないし、泣いたりしたら、ドクターも困るでしょ?」
巌は微笑みながら応えた。
「そうですけど…、でも、病気のことやから僕から伝えんと、信用しはれへんかっても困るし、そのほうがええかなって思うたんですけど…」
「ま、誰が言うても、信用せえへんのは、おんなじことやから」
巌は笑みを浮かべたまま大岡医師を見る。
「そう?ですか?でも、これ見てもろうたほうがええと思うんですけど…。これね、ここ癌なんです。周りも癌細胞が浸潤していますでしょ?これ、すでにステージ4と云っていいと思います」
大岡医師は画像のなかで、白く映っている部分をカーソルのポインターで差し示して、深刻そうな顔つきで巌を見る。
「ステージ4って、それ、もうあかんってことやないですかあ。俺、あと何日持つんですか?」
巌はポインターが指し示す白い部分を見ながら、他人事のように苦笑する。
「まことに言い辛いんですけど、そうですね…、何にもしなければ、3か月ぐらいですね。これは手術しても根治できないので…」
巌は何故か頷きながら、笑みを浮かべてその告知を聞くことができた。巌の人生に未練はなかった。依存症の妻恵子は入院させた。娘実里は自立しているし、上場企業に勤めている信也と結婚して、子供がいないのが少々残念だが、岸田の姓も名乗ってくれている。あとは父謹吾が起こしたこの会社を存続させるだけだ。幸い先代の大番頭、小林弥一郎の息子、直弥を常務取締役として役員に迎え入れている。直弥は思いのほか有能な人物で、この会社をさらに発展させてくれることだろう。等々と考えていくと、もうこれでいいのではないかと思う。俺は人生の役目を十分果たしたのではないかと…。1週間連絡がなければ、死んだと思えと伝えてある岩本和のことも含めて、自分勝手に満足できた。
巌は突然の死だった。ある日の朝、自室から出てこないので、実里が呼びにいった。
「お父さん、朝ごはんできてるよぉ」
実里はノックしながら声を掛けたが、応答がない。いつもと様子が違う。これまで実里が朝起こすようなことなどほとんどなかった。いつも実里が起きてくると、朝刊をほぼ読み終えて、自分で淹れたサイフォンコーヒーを飲んでいた。
「お父さん?開けるで?」
巌は部屋の奥に設えたダブルベッドで、こちらに背を向けたまま横たわっているのが分かった。
「お父さん?お父さんって?大丈夫?」
実里は部屋へ入って巌の肩に触れた。異様に冷たい。
「えっ?お父さん?」
実里は冷たい肩を掴んで揺すった。
巌は身体を実里のほうへ向けた…。というより、転がった感じだった。
「ああ、お父さんっ!」
実里は巌の肩に手をやって強く揺さぶったが、まったく反応がなかった。
すぐに救急車を呼んだが、すでに死亡しているとのことで、警察で死体検案するらしく、いったん最寄りの警察署で安置されることになった。夫信也は先週から工場研修のため、中国に出張している。夫以外に連絡しなければならない相手として、まず岩本和が思い浮かんだ。
時刻は午前10時30分を過ぎたところだ。すでに店を開けているだろう。
「はい、実里ちゃん?どうしたん?朝から」
「あ、和さん、たいへんっ、お父さん、亡くなってしもたっ」
「なに言うてんのん、朝から」
和はちょっと笑いながら応えた。
「笑うてる場合やないねん。ほんまやねん」
「えっ?それ?どないしたん?」
実里は今日の朝からの出来事を説明した。
「それやったら、大岡先生に言うたほうがええわ。警察行ったら解剖とかされるかもしれんし」
「大岡先生って?」
実里は初めて聞く名前だった。
「詳しいことは後で話すから、いま、そこに警察居るんやろ?ちょっと代わって」
実里は半信半疑で、巌の部屋を検証していた警官のひとりに声を掛け、スマホをスピーカーにして渡した。和は巌が膵臓癌で大学病院の大岡ドクターに診てもらっていることを説明して、その病院へ移送するよう依頼してくれた。実里はそのとき巌が重篤な病に侵されていることを初めて知ることになった。
1時間ほどして、和は店を閉めて実里のもとへ来てくれた。
「実里ちゃん、たいへんやったなあ…。いわさんの病気のことはね、あたし前から聞いててん。いわさんから実里ちゃんには黙っとけって云われてたんよ…。ごめんね…」
和は申し訳なそうに実里を見つめた。
「うん、ええよ。どうせお父さんのことやから…。うんうん、そやね、わかるわ。和さんが謝ることやないから」
「実里ちゃん、今日は時間あるの?何やったら今から病院行って、大岡先生に説明してもらおうか?」
「ううん、もうええわ。お父さんが自分で決めたことやし、今更あたしがなに言うてもしょうがないわ」
「ま、そうやけど…」
ふたりはリビングのソファで向かい合ったまま、涙を流すこともなく、茫然とお互いを見つめ合っていた。




