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第5章 母の乱行

 実里には弟がいた。というより、いるはずだったのほうが正しい。実里が3歳になる年に生まれた直之と名付けられた男児が1歳を待たずして死去していたのだ。原因は医学界でもいまだに原因が掴めていない乳児突然死(SIDS)だった。実里にはまったく記憶がないが、母恵子の乱行がそれに端を発していることを後になって聞かされて、実里自身にもいくつか腑に落ちることもあった。

 実里は幼稚園から大学まで、いわゆるエスカレータ式に進学できる私立の女子校に進学している。というのも幼稚園と小学校は、自宅付近の集合場所までバスで送迎してもらえることが、父がその学校を選んだ大きな理由だったらしい。少なくとも自身が仕事をしている日中は、学校という100%安心な場所へ預けることができるということだ。それに加えて、いまでいう学童保育のようなシステムを、その学校法人では〈放課後クラブ〉として、当時すでに校内で運営されており、最長午後7時迄使用することができたことが、幼い女の子を男ひとりで育てる条件としては最良だったに違いない。

 実里の母、恵子は直之を亡くしてから人が変わってしまった。毎日ボーッとするばかりで、何かの行動を起こすことも、起こそうとする意欲もなくなってしまったようだった。日が経つにつれて、目に生気がなくなり、気が振れたように茫然と、リビングのソファに座っているだけの生活になった。それだけならまだいいのだが、そのうちアルコールに手を出すようになり、近所の酒屋の自動販売機で日本酒を買ってくるようになった。実里が学校から戻ってくると、いつもリビングのソファに寝そべりながら、ガラスの器に入った、いわゆるカップ酒を手にして、テレビで古いドラマの再放送を見ていることが多くなった。

実里が小学校に進級して間もなくのある日、いつものように送迎バスで帰ってきたのだが、集合場所に恵子の姿が見えない。仕方なくバスの随行員が自宅まで付き添ってくれた。彼女が玄関のインターホンを鳴らすと、しばらくして応答があった。

「は~い。ど、ど、どなたです?かあ?」

恵子は酔っているようで、呂律が回っていないようだ。

「あのう…、学園の者ですが、お嬢さまをお連れしたのですが…」

「えっ?お嬢さまって?実里?ですか?」

「あ、はい」

「あれ?お迎え?あれえ?あたし行ってなかったの?ちょっと待って」

しばらくするとドアが開いた。恵子は実里の姿を見て、呆気に取られたような表情をしたが、形式的に随行員に頭を下げた。

「おかあさん、なんで来てくれへんかったん?」

実里が恵子の腰にしがみつくように手をやって、上目遣いで訊ねた。

「えっ?ああ、ご、ごめんなさい。あの、申し訳ありません…、で、でした。あたし何を?していたのかしら…」

恵子は酒の匂いを漂わせて、パジャマ代わりに着ているスエット姿で、玄関先に座り込んでしまった。

出迎えがなかったことが翌日担任教諭に報告され、実里自身がこの出来事を話す前に、巌の耳に入ってしまったらしい。直之が亡くなってから、様々な不都合な出来事が増えていたのだが、実里の送迎だけは欠かすことなく履行されていたので、巌は他のことにはある程度目を瞑っていた。しかしこの出来事を境にして、巌にも我慢の限界が近づきつつあった。

 実里が中学に進級する頃には、恵子は何もしないで食べては酒を飲むだけの生活を繰り返いし、体重はみるみる増え10キロ以上太ってしまっていた。そうなれば余計に動くことが少なくなり、また太るという悪循環を繰り返した。仕方なく家事全般を実里がこなすことになり、友達同士で遊びに行くことにも時間的な制限ができるし、友達から家庭内の話を聞いたりすると、羨ましいことばかりで、次第に実里にも不満が募ってきた。

「お母さん、またお酒飲んでるのん?お父さんに止めろって云われたやんか」

実里が昼間から酔っている恵子を咎める。

「恵子、ええかげんにせえよっ。俺のことはほったらかしでも、何でもええけどな、実里のことぐらい母親らしくしてくれ。俺ももう我慢できんでっ」

巌が語気を強めて非難しても、その頃の恵子はそんな言葉にもお構いなしで、一日中酔った状態になっていた。巌がリビングでコレクションしていた希少なスコッチウイスキーやコニャックブランディも片っ端から飲んでしまう始末で、家庭内では手が付けられない状態になってしまった。実里が中学に進級して学校の送迎がなくなり、放課後クラブにも参加できなくなって、仕方なく帰宅しても、相変わらず夕食の準備どころか、食べ物の包装紙などが散らかったままで、台所にはインスタント食品の食べ残しがそのまま放置されている。実里にとっても耐え難い日々が続くようになっていた。巌はアルコール依存症の施設が併設された病院を探して、離婚届と共に入院させることにした。

 ある日の夜、実里が寝たのを見計らって、巌は恵子に今まで溜まっていた憤怒の思いを爆発させた。

「そうやって朝から晩まで酒飲んで、しまいに肝臓いかれて死んでしまうぞ。おまえはいったい何考えてんねん?」

巌はリビングソファで向かい合った恵子に怒りをぶつけた。

「何?って?…えっと…。そうや、な~にも考えられへんわ」

恵子は一瞬何かを云い掛けたが、そのまま俯いてしまった。

「もう俺はこれ以上、お前の面倒は見切れんし、実里をこの環境に置いとくわけにもいかへん。そんなことぐらい、なんぼお前が泥酔しててもわかるやろ?もう俺の我慢も限界やから、とにかく別れてくれ。ここから出ていってほしいんやっ」

巌は大阪府下にある大学病院のパンフレットを離婚届と共にテーブルに置いた。

「それと、財産分与の代わりに、とりあえず病院費用全額を俺が持つから、ここへ入院してくれ。依存症が解消できた時点で、後々の生活のこともあるやろうから、もういっかい話し合うということでどうや?というより、とにかく別れてくれっ、ここから出ていってくれっ!」

巌はどんよりした恵子の目を見つめて懇願した。


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