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第4章 父の恋人

 元々(カフェなごみ)を和から引き継ぐことになったのは、和が店でコーヒーに合う菓子を出したいと云い出したのが始まりで、交際していた巌の娘が老舗ホテルの菓子職人だと聞いていたので声を掛けたのがきっかけだった。おそらく、それはただの言い訳みたいなもので、和は巌の娘と正式に会いたかったのだろう。10 年以上も前に離婚しているとは云え、実父の恋人となると、娘としては、かなりデリケートな意識があったはずだ。和にしてみれば、巌にある程度援助してもらっている立場から、負い目もあるだろうし、それなりに遠慮もあったはずだ。そんな立場を解消とまではいかなくても、お互い理解し合える付き合いにしたかったのだろう。

 一方、実里にしてみれば、父の恋人からそのような依頼があれば、無下に断る必要もなかった。実里は母恵子がアルコール依存症に陥り、子育てはもちろん、家事すら満足にできなくなってしまった結果、離婚という、悲劇を思春期真っ只中の中学生で経験している。実里はいわば、母の愛情というものを理解できないまま育っているのだ。そのような環境のなかで、男手ひとつで実里を育てくれた父のことが大好きだった。そんな父が自身の娘と面談させようと考えた女性に興味を持たないはずはなかった。

 店の定休日が日曜日ということで、実里は和が経営する(カフェなごみ)で会うことにした。駅前通りの商店がいくつか並ぶ一角にその店はある。入店したことはなかったが、その店の存在は以前より知っていた。まさか父と関係している人物が経営しているとは夢にも思わなかった。実里が父と二人で住むマンションから駅に向かって500メートルほどの距離だ。カウンター8席、4人掛けのテーブル席が3組だけの小さな店だった。実里と和はテーブル席のひとつに向かい合って座った。和は実里が思い浮かべていた通りの女性だった。ショートボブのヘアスタイルで、ファンデーションとルージュぐらいで、ほとんど化粧はしていないようだ。二重瞼の切れ長の目で鼻筋が通っているので、若い頃は相当な美人の部類に入る容貌だった。

「はじめまして。岩本和と云います。かずは平和の和一文字で(かず)です。歳はね、えっと…、訊きたい?」

和はゆっくり首を傾げて、微笑みながら実里を見つめた。

「あ、お歳?いえ、どっちでもいいです。あたし、みのりって云います。実る里って書いて実里です。歳は今年とうとう四十路を迎えます」

実里も改まったように説明しながら微笑んだ。

「あたしは実里ちゃんのお父さんよりは4つ5つ下やよ」

和はちょっと照れたような笑みを見せて、初対面からざっくばらんに話し始めた。訊きたいことがあれば、何でも正直に話すから遠慮なく訊いてほしいとのことで、父と知り合ったきっかけや、その時期、(カフェ・なごみ)を開店するときに援助してもらったことなども教えてくれた。父と和は店舗名を訊けば誰もが知っている居酒屋チェーンのフランチャイズ本部が主催するゴルフコンペで知り合ったそうだ。フランチャイズで店舗展開する際、父が関西エリア店舗の電気工事を《岸田電建》として、ほとんど任されていたとのことだった。和はその本部会社のなかで、店舗企画の担当課長として他部署から異動してきたばかりで、たまたま同組で一緒にラウンドしたのがきっかけだったと、和がその頃を思い出すように楽しそうに話している。実里は父が母と離婚してから一年以上経った後で、知り合っていることを訊いて、何故か安心した気分になった。

「じゃあ、コーヒー飲んでくれる?あたしのオリジナルブレンド。っていうか、これしか置いてないんやけどね」

和は笑いながらカウンターのなかへ移動した。

実里もコーヒーの淹れかたは、職場のホテル厨房で何度も見ているし、賄で実際に淹れたこともあるので、黙って和の作業を見ていた。フラスコのなかの湯がロートへ上がりきったところで、竹ベラで撹拌しながら和が口を開いた。

「ホテルでお菓子作ってるんやったら、コーヒーもいつも飲んでるんやろね?あ、そっか、ケーキやったら紅茶か?」

「いえ、ひとりひとり紅茶は面倒やから、大体はコーヒーメーカーです。ほら、業務用のでかいやつあるでしょ?アレです」

「あ、そうか、そうやね。なんぼ賄や言うても、それなりの人数になるもんね。自分とごろと一緒にしたらあかんね」

和は笑いながら温めた二つのカップにコーヒーを注いでカウンターに置くと、自分の前のカウンターチェアを指差した。

「こっちへおいでよ。どうもテーブルで向かい合うのん、好きになれへんから」

「あ、はい。わかりました」

実里は促されて移動する。

「実里ちゃん、もう、そんな敬語はなしにしようよ。あたしとフツーに友達になってほしいんやから」

実里は微笑みながら、カウンターに置いた二つのカップのうち、ひとつだけソーサーに乗せて実里の前に押し出した。

「はい、どうぞ」

和の顔は何となく嬉しそうに見える。

「はい、わかり…、あ、わかった。いただきます。あ、いただきます…はええんやね?」

実里はひとつ頷いて、少し笑ってカップを持ち上げた。コーヒー豆を挽いてからずっといい匂いが漂っていたが、いまそれを口元に持ってきて、湯気と共に鼻先に入ってくる香りは何ともいえない。そのままひと口飲むと、堪らなく痺れるような気分になった。

「どう?」

和は自信たっぷりだが、一抹の不安を見せるように実里の顔を見つめた。

「うん、おいしいっ!さっきオリジナルブレンドとか言うてたけど、これ、どこの豆?」

「ハワイのコナやねん。ちょっと高いんやけど、あたしね、ずっと前からハワイ好きやねん。せやからコーヒーもハワイにしたんやわ」

「へー、そうなんや。ほんならお父さんと一緒にハワイ行ったことあるのん?」

実里はコーヒーをちょっと多い目に飲んで、意地悪っぽい目で睨みながら訊ねてみた。

「えっ?あ、うん、まね。一回だけ…。だいぶ前やけどね」

和は少し照れくさそうに応えた。

「そっか…。ま、そうやろね。そういえば、うんうん、確か出張や言うて長いこと帰ってけえへんことあったわ」

実里は頭を上下に動かして大げさに笑って見せた。

「で、今日は何で、いわさんは来ないわけ?」

和は右掌を口元に当てて、思わず普段巌のことを呼んでいる呼称を出してしまったという表情を実里に見せた。

「へー、いわさんって言うんや。お父さんのこと」

実里はにっこり微笑んで、和の顔を覗き込むように見てから続けた。

「うん、そうなんやけど…。おまえら女同士で勝手に話しせえって言うねん」

「ああ、それ、いわさんらしいわあ」

和はカウンターを指先揃えて叩きながら大声で笑った。

「いわさん、あれで意外と照れ屋さんやもんね」

「そうやね」

ふたりは頷きあって微笑んだ。実里は和が父巌のことを ”いわさん“ と呼んでいることをそのとき初めて知った。

父のプライベートな行動や会社経営の一端を少しずつ聞いた気がして、実里はこれまで、そんなことを何も考えず、何の不自由もなく、やりたいように生きてきた自分を恥じるとともに、この歳になって改めて思い直すことになった。あたしは父母の離婚という、ひとつのことを除いて、他の人とは比べ物にならないほど、自由で幸せな人生を歩んできたのだと。


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