第3章 変わる街
「おはようございます。いらっしゃいませ」
「おはようさんっ、別嬪ママ!」
ドアを開けて入ってきたのは、いつものように開店早々に来店してくれる染井啓介だ。染井は何も言わずに、いつものカウンター席へ経済新聞をマガジンラックから取り出して座る。
「今日もお天気ええみたいですね」
実里はコーヒー豆をミルに入れてスイッチを入れた。
「そうみたいやねえ。そういえば、ここのところ雨降ってへんなあ」
染井は新聞を開きながら、どうでもいいように応えた。
「そうやね…」
挽いた豆をロートに入れながら応えた。
「カランカラン」
ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「おはようございまず」
筋向いの美容師夫婦、大槻茜と拓哉だ。
「あら?今日はお休みでしょ?二人そろって朝からデート?やな」
「ま、たまにはね。デートって云うか、買物に行くだけやけどね」
茜が笑いながらカウンター席に座る。拓哉も微笑みながら無言でその横に座った。拓哉は元々口数が少ない。そんな話下手で美容師が務まるのかと、実里でも心配するぐらいだ。
「お二人ともコーヒーでいいですか?」
実里はコーヒーミルに豆をセットしながら訊ねた。
「うん、それと、マドレーヌ。拓哉は?」
「いらないよ。そんなもの」
「あーっ、『そんなもの』で悪かったわねっ」
実里は眉根を寄せて拓哉を睨んだ。
「あ、すいません。そういう意味じゃ…」
「ほんなら、どんな意味やのん?」
実里は拓哉の言葉を途中で遮ってまた睨んだ。
「あ、別に深い意味はないんです。なっ?」
拓哉は助けを求めるように困った顔を茜に向けた。茜はマドレーヌの包装紙を剥がしながら笑っている。
「どうせ、『こんな店』の『そんなもん』やからね」
実里はまだ言葉で追い込みを掛けながら、フラスコとロートをセットして竹ベラの準備をした。
「もう許してあげてよぉ、ママ」
茜はマドレーヌをひと口食べて、残りを両手で挟んで持って、拝むようにして微笑んだ。
「うんうん、わかったよ。今回は特赦にてご赦免っ。そんで、今日はどこ行くの?朝から」
「ほら、ウメキタって 云うんでしょ?梅田のあの辺り、すっごく変わってるって、このあいだお客さんから聞いてね。久しぶりに見に行ってみようかって」
「うん、そうらしいね。あたしも長いこと行ってへんわ。むかし、貨物の駅やったとこやんなあ?」
「そうそう、学生のとき、あたしが東京行く前ね、夜なんかさあ、真っ暗で、女の子だけだと歩けない場所だったんだよ」
「うん、確かに。そうやったね。梅田北地区再開発とか云うて、何かいっぱいできてるみたいやね」
実里は二人分のコーヒーがロートに上がって、竹ベラで撹拌している。
「再開発で思い出したけど、この駅前あたりも再開発の話が出てること知ってる?」
「え?この駅?」
「そう、ママんところの並びと、うちの店から一区画、ほら、いま建売り住宅みたいなのいくつか建ててるじゃない。あれもそうだと思うよ」
「へー、あっ、そういえば、このあいだ河合君、あ、河合工務店の社長ね、彼が言うてたわ。あのあたりの地主さんが全部売ってしもたって」
実里はアルコールランプの火を消してフラスコに落ちていくコーヒーを眺めている。
「あ、それな、うちにも話、しにきよったで。ほら、駅の西口にできた大手の不動産屋」
一番奥のカウンター席で、いつものように黙って新聞を読んでいた染井が話に入ってきた。
「え?あの電鉄系列の不動産屋?」
実里は染井に振り返って訊ねた。
「そうそう、そこの所長云うのが名刺提げて来よったで」
「へえー、何だって?その人、何て云ってきたの?」
今度は茜が興味深そうに訊ねる。
「ここら一帯が、前から市の再開発地域に指定されてるんはみんな知ってるやろ?それ、いよいよ始まるようなこと言うてたわ」
「それって、本当にやるんだ。そんなのまた計画倒れに終わるんじゃないのって思ってた」
「そうなんやけど、今回はやるみたいやわ」
「でも、市からは何にも云ってきてないでしょ?だって、一筋向こうの道路なんか、国道に繋げるバイパス道路にするんだって、お母さんから聞いたことあるよ。あれから何年経つのよ?」
茜は唇を尖らせて不満そうにみんなを見た。
「はい、どうぞ。お待たせしました」
実里はコーヒーカップをソーサーに載せて大槻夫妻の前に差し出した。
「そうやね、確か、そんな話もあったね。あの道沿いの人なんか、そうそう、溶接工場の伊藤さんなんか、雨漏りするから屋根ごと交換するか、いっそのこと建て替えるかって言うてはったんやけど、結局、立て替えても補償できないとか云われて、何度も部分補修して余計に高くついたらしいわ。挙句の果てに計画自体が破綻して中止になったって、詐欺で市を訴えたろかって、本気で考えたって言うってはったわ」
実里が父巌から聞いた話だと前置きして、そのときの逸話を披露した。
「へー、そうなの?それ初めて聞いたかも」
茜は大げさに驚いてみせた。
「ま、そんなこともあったような、なかったような。でも野口さんとこの長屋は再開発してるな」
染井は読んでいた新聞を丁寧に折りたたんで立ち上がり五百円硬貨と百円硬貨を1枚ずつカウンターに置いた。
「ごちそうさん。また明日。再開発のことは隣の今井花壇の奥さんにでも訊いてみるわ」
染井は掌をヒラヒラさせて出ていった。
大槻拓哉が財布から千円札を1枚抜いて、ポケットから百円玉を2枚出して茜にふり向いた。
「茜、早く行こうぜ。いつまでもこんな店にいたら、遅くなっちゃうよ」
「あっ!また(こんな店)って言う」
「あ、あっ、ほんとだ。すみません」
ふたりは頭を下げつつも笑いながら出ていった。
今朝は通常通りの客足で、可もなく不可もなくというところだった。客が途切れたところで、昨夜の外食、と云っても、近所の居酒屋なのだが、その店で持ち帰りにしてもらった鶏の唐揚げをそぎ切りにしてレタスとミニトマトを食パンに挟んで、クラブハウスサンドイッチ風にして昼食を取っていると、ドアベルが鳴ったので慌ててカウンター下に隠しながら、口のなかを咀嚼した。
「い、んぐ、いらっしゃいませ」
「なんやそれ?」
不穏な顔をしてカウンターに腰掛けたのは河合翔太だった。
「河合君、いらっしゃい。まいどっ」
実里は気を取り直してから、改めて話し掛けた。
「今頃、昼飯かいな?」
河合は不思議そうに訊ねた。
「うん、っていうか、見てたんや?食べてたのん」
実里はグラスに入れたミネラルウオーターを一口飲んで訊ねた。
「そう云う俺も、今日は忙しゅうて、まともな昼飯食うてないわ」
河合も実里を見て苦笑した。
「あ、そうなん。ほんなら、これ、あたしのサンドイッチ半分あげるから、食べる?」
「え?うん。ええの?」
「うん、これ作っては見たものの、なんか、ようけできてしもたから。うん、そや、食べて、食べて。いま、もういっかいきれいに作り直すから」
実里は笑顔を見せて頷いた。
「そしたら飲みもんはコーヒーでえええね?」実里は河合が頷くのを見て、アルコールランランプに着火した。
「あ、そうや、河合君来たら訊こうって思てたことあるねん」
「ん?なに?俺に告白か?それやったらお断りやでっ」
「そんなんちゃうわっ、あほかいなっ」
実里はミルの音を聞きながら、渋面を作って睨み付けた。
河合は楽しそうな表情で、グラスの水をひと口飲んだ。
「ほら、このあいだ、図面広げて、野口さんとこの建売住宅の話、してたやんか」
実里はサイフォンをセッティングしながら続ける。
「あれって、噂になってる、ここら辺りの再開発計画と関係あるの?」
河合はちょっと驚いたように片方の眉を上げて実里をみた。
「ん?それ?どっから聞いたん?」
「どこからって、コンビニの染井店長とか、美容院茜のママとか、まあまあ確かな筋から出てるわ」
「ふーん、そか。まあ、それやったらアタリって言わなしゃあないな」
「アタリって、ほんまにやるのん?」
「うん、市のプロジェクトチームは長いことくすぶったままのこの計画を完成させるって、息巻いとるのは確かや」
「ふーん、そうなんや…。はい、お待たせ」
実里はウエッジウッドのデザート皿に、クラブハウスサンドイッチ風に盛り付けて河合の前に出した。
「コーヒー、もうちょっと待って」
「うん…。そんで、どうするん?ここは?」
河合は何も考えずにそのまま訊ねてきた。
「どうするもなにも…」
この店は自分の名義じゃないと云いそうになったが、それは吞み込んで逆に訊ねた。
「ここの並びは全部分譲やから、これみな買い取ってくれるってことなん?」
「うん、たぶん。まずは不動産屋が、あ、そうや、西口に電鉄系のその不動産屋の店できてるのん知ってるやろ?あれや」
河合はまた水をひと口飲んで、出されたサンドイッチをひとつ口に入れた。
「ふーん。隣の池田さん、どうするんやろ?本屋さんなんか、すぐに移転するなんて無理やろ?」
実里はフラスコからコーヒーをカップに注そいでソーサーに載せて河合の前に置いた。
「たぶんそうやろなあ。知らんけど」
河合は待っていたようにコーヒーに口を付けた。
「あちっ!」
「あほっ、子供みたいやな。気ぃ、付けやぁ」
実里は笑いながら河合を見ている。
「せやけどな、河合君。あんたとこかて再開発事業に1枚も2枚も噛んでるんやろ?」
「うん、まあな…。新築物件は一応地元業者を優先してくれるらしいわ」
「そうなんや。河合君とこ、儲かってええやんか」
「せやけど、野口さんとこみたいに、地主さんがきちんと処理してくれてはって、その後で工事するんやったらええねんけど、そうやない場合は難儀すんねんで」
河合はサンドイッチをもうひと切れ口に入れてから、今度はコーヒーの香りを鼻で味わうようにしながら、今度はゆっくりと飲んだ。
「ま、いろんなものができて、便利になるんやったら、それはそれでええのかもしれんな」
河合は諦めたような口調で実里に問いかけた」
その日は閉店間際に客の姿はなかったので、6時にまだ15分あったたが、店を閉めることにした。店内の清掃をすべて終えて、表に出てシャッターを閉める準備を始めながら、ふと、筋向かいの空き店舗に目が留まった。実里はあの店が近所の子供たちのたまり場になっていたのを思い出した。ゲーム関連のキャラクターをメインにしたいろいろなグッズを販売していた。ゲーム仲間ではレアものも取り扱っていたようで、わざわざ電車に乗ってかなり遠方からやってくる客もいたらしい。一大ブームを起こしていた老舗ゲームメーカーのRPGの熱が冷め始めると、雲行きがおかしくなってきて、半年ほど前に店をたたんでしまった。それから店舗自体に借り手がないのか、いまも空室のままだ。実里はしばらくシャッターを下ろす手を止めて、西陽が差したその空き店舗をボーッと見ていた。
*
翌日の朝も染井がいつものように笑顔を見せて入ってきた。
「おはようさん!今朝も相変わらず別嬪さんやねぇ」
「もおーっ…、ええ加減にせんと、ほんま怒りますよ。染井さん、ほかに言うことないんかいな」
実里も微笑みながらアルコールランプに火を着けた。
「まあまあ、ええやんかこれぐらい。それよりな、昨日言うて再開発の話やけどな、今井さんに訊いてきた。いろいろと」
染井はいつもように新聞を持って、奥の指定席に座った。
「そうなん?何かええ情報でもあったん?」
実里はロートをセットしながら訊ねた。
「うん、ええか、どうかは知らんけどな」
新聞を広げながら首を傾げた。
「やっぱり。野口さんとこの土地はほとんど処分していってるみたいやわ。云うても、この街の大地主やからな、野口さんは。そこそこの広さになると思うで」
「そうなん?」
実里はロートに上がってきたお湯を竹ベラで混ぜながら染井を見た。
「まあ、ここの並びも、うちとか、こことかも元はというたら、野口さんとこの土地やからな」
サイフォンのロートの中で湯が膨らんで、コポッと音を立てた。染井はいつもようにサイフォン内を上下する様子を眺めている。
「へーっ、そうなんや」
実里は竹ベラで撹拌しながら驚いた様子を染井に見せる。
「そうそう、昔は借地にして、そこに上物建てたもんが借地料を支払うてたそうやわ」
実里はカップを温めるために入れたお湯をシンクに流して、そのコーヒーカップをソーサーに載せた。
〈カラン、カラン〉
ドアベルが鳴って、背の高い笑顔の女性が入ってきた。今井花壇の今井菜穂子だ。
「いらっしゃ、あ、今井さん。おはようございます」
実里はカウンター奥でドアの方向へ向き直って頭を下げた。
「おはようございます。長いこと顔も出さんとすんません」
「あ、いえ、こちらこそ。どうぞ、こちらへ」
実里は染井のコーヒーを奥の席へ出してから、正面に移動し、カウンター真ん中の席を掌で差し示した。いつもは髪をポニーテールにして、スリムジーンズにエプロン姿がよく似合っているのだが、今日の菜穂子は髪を結わずに肩から背中に流して、薄いベージュで膝丈のワンピース身に着けている。
「あ、そか、今日はお休みですね。コーヒーでよろしいですか?」
実里はいつもと違う菜穂子の姿を見て、ミネラルウオーターを注いだグラスを前に置いた。
「はい、それでお願いします」
菜穂子はひとつ頷いて、示された席に着いた。
「ひょっとしたら再開発のこと?お話ししてました?」
菜穂子は微笑みながら実里に訊ねた。
「ええ、まあ…」
実里はアルコールランプに着火して、ミルにいつもの定量を入れてスイッチを入れた。
「今井さんも聞いてはるんですか?この5軒並びも開発エリアに入ってるってこと?」実里はロートに挽いたコーヒー豆を入れながら訊ねた。
「ええ、このあいだ、あたしのところにも西口の不動産屋さんが売却の条件なんかを説明しにきました」
菜穂子は少し投げやりな様子で応えた。
「そうなんや…」
「ママとこはきてへんのんかいな?」
奥のいつものカウンター席で、染井が不思議そうに訊ねてきた。実里は名義が先代の岩本和のままなので、おそらく自分にはアクションが起こされていないのだと説明した。そう云われてみると、先日和に面談した際には、そのような話は出ていなかったので、実里は逆に心配になってきた。そんなことを考えながらサイフォンに目を向けると、ロートの中のコーヒーが、静かにフラスコへ戻っていくところだった。実里は温めたカップにフラスコへ戻りきったコーヒーを注いで菜穂子の前に出した。
「はい、お待たせです」
「ありがとう、いただきます」
菜穂子は笑みを浮かながら、目の前に出されたコーヒーカップに口を付けて一口飲んだ。
「うん、おいしいっ。やっぱりママんところのコーヒーは最高やね。和ママから味は変わってないし。コナコーヒーやったね?これ」
「そうです、そうです。ハワイのコーヒー、あたしもこれ、和さんから引き継いでよかったって思うてます」
実里は菜穂子の言葉に思わず破顔した。
「そういえば、和ママは元気なん?」
菜穂子はコーヒーカップを右手で持ったまま訊ねた。実里は先日会ってきて、変わりなく元気に過ごせていると伝えたが、認知症のことを話すのは、あえて避けてしまった。店内はしばらく和の話題で盛り上がった。窓の外には駅前通り。お隣の本屋は色あせた看板、その隣にはラーメン屋の暖簾。それに菜穂子の花壇。その通りの向かい側には、茜の美容室。そのお隣から二軒は普通の住居。その横は空き店舗。またその隣には無人のATMがあって、主要銀行と郵便局の預貯金に適応している。それは和も毎日見てきた景色なのだが、いま、実里がひとしきり和の話題を訊いていると、やはり、この店は、和と父、巌の店だったんだと思い知らされることになった。そう思った瞬間、実里は少しだけ首を傾げた。あたしは父のことをどれだけ知っているんだろう。和のこともほとんど知らない。
考え込むような実里の様子を気に掛けたのか、染井が思い直したように再開発の話題に戻して、みんなの顔を見渡した。
「云うても、まだ先のことやからな。5年先かもしれんし、10年先かもしれん」
菜穂子がそれに乗って訊ねる。
「また役所の気まぐれかもしれんしね?」
「うんうん、そうかもしれんな」
染井は肩をすくめた。
実里は黙ったままアルコールランプに消火キャップを被せて火を止めた。コーヒー滓をそのままにされたロートが、早く洗えと云わんばかりにほんのり曇っていた。




