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第2章 六甲からの知らせ

 昼食後を過ごす12時過ぎから1時間ほどの時間帯は(カフェ・なごみ)にとって、最も忙しい。しかし、そのあとはぽっかり空いたような時間になることが多い。あの日も例に漏れず、誰もいなくなった静かな店で、食器とサイフォン器具の洗い物をしながら、カウンターの入り口に置いたままのスマホが振動しているのに気が付いた。営業中のスマホは無音でバイブのみにしている。ディスプレイ表示は六甲グリーンヒルホーム。実里は慌てて濡れた手を白いエプロンで拭いてスワイプした。

「もしもし?」

「わたくし、六甲グリーンヒルホームの高坂と申します。岸田実里さまの携帯でお間違いないでしょうか?」

それはホームで和を訪問するたびに面談していた和の担当介護士、高坂弘美だった。

「あ、はい。岸田です」

「こんにちは。岩本さまの介護担当です。高坂でございます。しばらくでした」

「あ、はい、こんにちは。何かありましたでしょうか?」

「はい、少々お伝えしたいことがございまして…。電話でお話ししても構わないのですが、できれば岩本さまもご同席のうえ、お伝えしたほうがよろしいかと存じます。岸田さまのご都合はいかがでしょうか?」

「和さんに何か深刻な問題ですか?」

「え、ま。ご多忙中、誠に恐縮でございますが、お会いできればと存じます」

実里は次の日曜日の午前中に訪問することを約束して通話を終えた。

 今日も1日が終わろうとしている。

「ありがとうございました。またお越しください」

壁の飾り時計は6時10分を指していた。実里は先ほど最後の客二人を送り出したところだ。カウンターのうえに使ったコーヒーカップとケーキプレートを重ねずに並べてから、シンクのなかへ丁寧に置いた。水道の蛇口をミスト洗浄口にして洗い始めながら、今日午後からの電話のことを考えていた。担当の高坂は、はっきりものを言う人だったと記憶している。にもかかわらず、今日の電話は違和感があった。和はまだまだ元気なはずだ。いろいろ考えながら洗い物などするものではない。

「ガシャーン」

手が滑ってシンク外へカップを落としてしまった。

「あっ!しまった。あーあ、がっかりやな」

実里は独り言を呟きながらカウンター下から箒と塵取りを取り出す。これで今日の利益が吹き飛んでしまった。

 割れたコーヒーカップの残骸を掃除した後、カウンター外へ出て、椅子をきれいに並べ直す。テーブルとカウンターのうえをアルコールでスプレイして、ダスターでもう一度拭き直す。サイフォンのフラスコを5つ、カウンターのうえに並べた。これが閉店時のルーティンワークだ。今日も何事もなく閉店と云いたいところだが、頭をかすめる六甲からの知らせと、そのせいなのか、自身の不注意なのか、大事な食器のひとつを破損してしまった。店内にわずかに残るコーヒーの香りが不安感を綯交ぜにして実里の鼻をくすぐった。

 その日の夜、夫信也がベッドのなかでいつもと違う実里に訊ねた。

「何かあったんか?」

「ん?なんで?」

実里は天井を見つめたまま応えた。

「いや、今日、晩飯食うてるときから、あんまりしゃべらへんし、何か変やなって思てたんや」

「そうやった?ちょっと気になることがあったから…」

「ん?何や?何があったんや?」

「うん、ほら、なごみのママのことやねん」

「どうしたん?まだまだ元気にしてはるって、前に言うてたやんか」

「うん、せやねんけどな、今日、ホームから電話あってな、あたしと会うて話したいって言うてるって」

実里はまだ天井を見たまま続けた。

「今度の日曜日に行ってくるわ」

「僕も一緒に行こか?」

「ううん、今回はええよ。お父さんと関わってる何か込み入った話になるかもしれんし、信也さんがおったら、和さんが話し辛うなっても悪いし…」

「そうか、それやったら遠慮しとくわ。車、気付けんとあかんで。それより、六甲ドライブウエイ、ちゃんと走れるんかいな」

信也は身体を横向きにして、肘を起こして実里の顔を覗き込んだ。

「大丈夫、やと思う…」

実里はやっと横を向いて、信也に微笑み掛けた。

「久しぶりにどう?」

「うん、そうやね。ええよ」

実里は信也の首に腕を回し、唇を合わせてから、その胸に顔をうずめた。

 ドライブ日和の快晴の日曜日だった。和本人はもちろん、介護士や看護師にも行き渡るよう、昨日の夜にフィナンシェを10個焼いてパッケージングした。信也が心配そうな目で見送ってくれる。

「ゆっくり走りや。クラクション鳴らされても無視してな」

「この車に乗り換えてから、後ろからプープー云われんようなったよ」

今年になって岸田家は新車に乗り換えた。信也のたっての希望で、いわゆるスポーツカーのカテゴリーに入るレクサスの2ドアクーペだ。

「ま、そうやろうけど、こんな車やからわざと煽ってくるのもおるから、気い付けてな」

阪神高速道路をおりて、国道43号線から芦有道路へ入る。この辺りは芦屋の六麓荘とまでいかなくとも、六甲山の麓で静かな高級住宅街と云っていいだろう。しばらくヘアピンカーブが連続するが、上り坂のためあまりスピードが出ていないのが幸いして、実里のドライビングテクニックでも何とか走り抜けることができた。料金所を超えて六甲山頂手前にあるその施設は、元々大手企業の研修所兼保養所みたいな建物を神戸の医療法人が買い取って運営しているとのことだ。そのせいか、建物自体は相当年季が入っていて、お世辞にもきれいとは云えないが、有料老人ホームとしての入居費は比較的安価なほうだと聞いている。

 受付カウンターで来訪者の氏名を記載して来訪意思を告げると、このホームでは入所者本人に面談可能か事前確認するそうで、毎々のことではあるが、その場で一旦待たされる。しばらくすると、担当介護士の高坂弘美が笑顔を見せながら姿を現した。

「こんにちは。遠いところをご足労いただきありがとうございます。どうぞこちらへ」

弘美はエントランスロビーを抜けて、奥のエレベータホールを示した。ふたりでエレベータに乗ったが、なぜかずっと無言のままで、何となく重苦しさを覚えながら、案内されたのは屋上のレセプションスペースだった。この施設の屋上はちょっとした展望台になっていて、六甲山麓の山々はもちろん、今日は天気が良いので、大阪湾の海や神戸港の荷揚げ桟橋まできれいに望むことができた。

「このレセプションスペースは夏季限定で、冬季は閉鎖しておりますが、ご入居者さまとご訪問者さまの専用面談スペースにしております」

「へー、そうなんですか。あたし初めてです、ここ。すごくきれいですね。周りの木の匂いもして、すてきですね」

実里は先ほどまでの重苦しさを吹き飛ばすように目を閉じ、大きく息を吸って深呼吸するような仕草をする。頭を上向きにしてから閉じた目を開けると、先ほど出てきたエレベータホールから出てくる二人の人影が見えた。

「あ、岩本さまがいらっしゃいました」

弘美は右掌をわずかに上げて指し示した。

「実里ちゃん、ごぶさた~。元気してた?」

和は両手を広げて掌だけ左右に振りながら笑顔を向けた。

「あー、こんにちは。和さんも元気そう。何よりです」

実里も同じように両手を振って応えた。

「はいっ、それではお二人ともこちらへどうぞ」

弘美は和と同行してきた看護師と思われる女性と一言二言、言葉を交わした後、海の家のようなサンシェードで囲われた空間に、丸テーブルと肘掛けチェア4脚が設置され場所へ案内してくれた。

「いま、何かお飲みものをお持ちしますね。コーヒーはお二人ともプロでいらっしゃるから、こんな山のなかのコーヒーなんかより…、うんそうですね。お煎茶にしますね」

弘美は自分勝手に納得したように二度頷いて、その場から出ていった。

向かい合って座った二人はしばらく何も言わず、黙ってそこから見える海が、太陽で煌めいているのを眩しそうに見ていた。

「元気そうやね」

先に和が話し掛けた。

「まあ、何とかね。和さんも前と変わらんようやけど…」

実里は和に目を向けて続けた。

「話があるって高坂さんが言うからあわててきたんやけど、どうかしたん?」

和は目を伏せて呟いた。

「うん、どうもね、あたし…。まだ信じられへんねんけど、自分でも…」

「は~い、お待たせしました。今日はそれほど暑くないですから、普通に温かいお煎茶にしました」

弘美がエレベータホールから飛び出るようにワゴンを押して出てきた。

「まずは、お茶をお飲みください。淹れ方は下手ですけど、茶葉自体は悪くないですから」

弘美は微笑みながら、それぞれの湯飲み茶わんへ急須に入れたお茶を注いだ。湯気が立ち、上質煎茶のいい香りがテントのなかに立ち込めた。

「岩本さま、病気のこと、もうお話しされましたか?」

弘美は自分の湯飲みにも同じお茶を注ぎながら和の顔を横目で見上げた。

「あ、いえ、いま話し始めたところやから、まだです」

「あ、そうなんですね。よろしければ、わたくしからお伝えしますけど」

「いえ、大丈夫ですよ。あたしから言いますので…」

和は淹れてもらったお茶を一口飲んで、実里に向き直った。

「あのね、実里ちゃん。あたしね、認知症なんやって。若年性の認知症」

「えっ?認知症って、和さんが?」

「うん、そうみたい…」

「うっ、うっそーっ!うそやん!」

「でも、そうらしいんやわ。あたしも自分で信じられへんけどね」

「えっ?ほんまに?あたしのこと、騙してへん?」

「うん、嘘ちゃうよ」

「えーっ!ほんまにそうなん?でも、いまフツーやんか」

実里は和と弘美を交互に見た。弘美は微かに頷き、和からの次の言葉を待った。

「うん、フツーやよ。ずっとフツー。でもね2~3日したら実里ちゃん来たこと忘れてるかもしれんわ」

「えっ?それ、覚えてられへんてこと?」

実里は和の目をまっすぐ見つめて訊ねた

「うん、ま、覚えてられへんって言うより、元からなかったことみたいな…、そんな感じやね」

和は同意を求めるように弘美へふり向いた。

実里は弘美が何度か頷くのを見てから、和に向き直ったが、とても信じられることではなかった。久しぶりに会った和は自分の知っている和と何も変わったところがないし、話し方も表情も、何ひとつ変わったところはない。ふたりとも見つめ合って、次の言葉を探しているところへ、弘美がその暗然な沈黙を破って話し掛けた。

「よろしいでしょうか?わたくしがその病状についてお話しさせていただきますが…」

ふたりとも弘美に向き直って同時に頷いた。

「認知症という病気は、物忘れがみられ、数日前の出来事が思い出せない場合や、大事な予定や約束を忘れてしまうことがあります。忘れた事を指摘されても、予定を組んだこと自体を忘れてしまうため、〈あっ忘れていた〉と思い出せません。症状が進行すると、今日の日付や、いま自分がいる場所がわからなくなる〈見当識障害〉が起こります。そのため、書類などに日付を書こうとしても書けなかったり、よく出かける場所で迷子になるといったことも度重なり、おかしいと気付くことになります」

弘美はここまで一気に説明して、二人を交互に見た。和は俯き加減で、テーブルのうえの湯飲み茶わんを見つめている。実里は「はい」と、ひとこと呟き、こくりと頷いた。

「わたくしが岩本さまの異変を感じたのは半年ほど前になります。岩本さまはお料理がお得意だったので、当ホームの厨房で新しい献立などを試みるときに、火傷などのお怪我をなさらない程度にお手伝いいただいていたのです。例えば、傍で試食いただいて、調味料を追加するとか、変更するとかのアドバイスをしていただくとかですね」

弘美は微笑みながら続けた。

「そんなある日です。いつものように厨房へお越しになる時間になってもお見えにならず、心配になって、お部屋にお伺いしたところ、普通に編み物をなさっていました。今日はお料理のお手伝いをいただく日だと、お伝えしてもそんな約束はしていないとおっしゃいました。それから同じようなことが何度かあり、お部屋のなかも、物をどこに片付けたらよいかわからなくなっているようで、お部屋が散らかってしまうことがありました。仕方なく当ホームの専属ドクターである井川俊先生にお願いして、神経内科で認知症専門のドクターに診断していただくことにしました」

弘美の説明を黙って聞いていた和は、いたたまれなくなった様子で、実里の横の席に移動すると、そのまま実里を抱きしめてきた。

「ごめんね。こんなことになって…。ほんま、ごめん」

「ううん。大丈夫やよ」

実里は何度も首を横へ振って和の背中に腕を回して応えた。弘美は二人の様子を見て、しばらく時間を取ってから続けた。

「CTとMRIも両方撮って、確認してみましたが、やはり脳委縮が認められて、MRAでも小さな脳梗塞も見つかりました。残念ながらスクリーニングテストでも20点に届きませんでした。申し訳ございません」

弘美はほんとうに残念そうに頭を下げた。

「いえ、高坂さんが謝ることやないでしょ。誰も悪くないんやからしょうがないですよ」

実里は笑みを浮かべながら、ずっと俯いたままでいる和の肩を抱いた。

「はい、これから当ホームでしっかりケアさせていただきますので、どうぞご安心ください」

弘美は立ち上がって、和と実里の双方に頭を下げた。

「どうぞ、よろしくお願いいたします」

和も実里も立ち上がって頭を下げた。

「えっと、それからプライベートなことで岩本さまから岸田さまにお伝えしたいことがお有りだとお聞きしております。ちょうど昼食の時刻になります。岸田さまのお食事もご用意しておりますので、ご一緒いただいて、そのお話などをお伝えいただければ幸いに存じます」

立ち上がったままの弘美は掌でエレベータホールの方向を示した。

 弘美に案内されたレストランは元より研修所のレストランとして使われていたらしく、それなりの設えと体裁は維持されていた。

「どうぞ、こちらで。いま係りの者がお伺いしますのでしばらくお待ちください」

弘美は一礼してその場を離れていった。実里は珍しそうに周りをグルっと見回すと、先ほど屋上で見た同じ景色が窓際に見えるので、ここはおそらくあの場所の真下に位置しているのだろう。

「割とええ感じやね」

実里は微笑みながら和に話し掛ける。

「うん、そうやね」

和はさきほどから口数が少なくなっている。

「ねえ、和さん。さっきの話、ほんとなんやね?」

「うん、自分でわからへんねんけど…。そうらしいわ」

和は俯き加減で続けた。

「せやから、これ、ずっと持ってるんよ」

和は今日会った時からずっと離さず持っていたダイアリーノートを見せた。

「え?あ、それね。うん、さっきから気にはなってたんやけど…」

「日付やお天気はもちろん、今日出会った人とか、出掛けた場所とか、何かしたこととか、とにかく経験したことをすべて書いてるんやわ。ま、細かい日記帳見たいな、そんな感じやね」

「ふーん、そうなんや」

ちらっと見せてもらったそのページには、和のきれいな文字がびっしりと書き込まれていた。

「これやらないと、約束は覚えてないし、何にもできなくなるからね」

和は肩を落として実里の目を見た。

「お待たせしました。今日のお昼は、ムール貝と小エビのパエリアです。それにチキンのささみサラダとジャガイモのポタージュスープです」

レストランの担当者らしい中年女性がワゴンに乗せて料理を運んできた。

「岩本さま、明日はマドレーヌの焼き方をご指導いただけると聞いております。よろしくお願いいたします」

料理をすべて二人に配膳し終えると、微笑みながら和に頭を下げた。

「あ、はい。えっと、明日の2時でしたね。こちらこそ、よろしくお願いします」

和はダイアリーノートを開いて、その約束事を確認しながら頷いた。

「へー、お昼でも意外とお洒落なものが出るんやね」

実里は感心したような顔をして、スープスプーンを手に取った。

「うん、まあね」

「それで、あたしのマドレーヌもパクってデザートにしたろうかって?」

「そうそう、それで、ここの費用の足しにしよかって?なんでやねんっ!」

ふたりは手を叩きながら大笑いして、周囲が二人を見ているのに気が付き、思わず首を竦めた。

「そんで、プライベートなことって?何なん?」

実里が思い直したように訊ねた。

「うん、お店のこと。なごみの権利のこと」

「あ、うん。なに?どうしたん?」

「実里ちゃんの名義に変更したいんよ。あたし、こんな状態やし、あたしの名義にしとっても意味ないし、固定資産税も払わなあかんやろ。それもあるねん」

「ま、そう云われればそうやけど…。でも、お父さんとの思い出もあるやろうし、大丈夫なん?」

「いわさん?そんなもん何もあれへんよ。あそこで一緒に暮らしてたわけでもないからね」

和は両手を少し広げて、今度は小さな声を上げて笑った。

「そのうち、計算もできんようになるらしいし、お金のことで、ややこしい話になっても困るから、完全にボケてしまうまえに名義変更しとこうって思うたんよ」

 その日、実里は午後3時を過ぎてから六甲グリーンヒルホームを辞去した。帰りの六甲ドライブウエイはほぼ下り坂で、オートマチックミッションのエンジンブレーキの掛けかたを、以前信也に教えてもらったのだが、うまく作動できず、信也が心配した通り、ひたすらフットブレーキのお世話になるしかなかった。

何とか国道43号線に出て、赤信号で停車してから、やっと和のことに考えが及んだ。名義変更のことはとりあえず了承して、近いうちに印鑑証明など必要書類をそろえることも承知してきた。しかし認知症とは思いもよらない告白だった。実里にはどうすることもできない。和が現時点で希望することで、実里が実現可能なことを全うするしかない。実里は二度頷き、青信号に変わると同時にアクセルを踏み込んだ。


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