第1章 朝のサイフォン
「おはようございます。いらっしゃいませ」
ドアベルの音に続いて、朝の空気がわずかに揺れた。
「おはようさんっ」
入ってきたのは、ほぼ毎朝、開店と同時に顔を見せる染井啓介だ。ここから駅に向かって20メートルほどの場所でコンビニエンスストアを営む、いわゆるオーナー店長だ。
「ママ、今日も朝から別嬪やねぇ」
染井はいつものように、にこやかな表情でカウンター横のマガジンラックから朝刊を抜き取った。
「染井さん、毎日毎日、飽きもせんと、ようそんなことばっかり言えますねぇ」
「そらそうや、別嬪さんにはちゃんと言うとかんとあかんからな」
「何があかんのか、よう分からんけど、これでも一応、人妻なんやからね。んで、ご注文はいつも通りでよろしいですか?」
ここ、〈カフェ・なごみ〉のオーナーママである岸田実里は、笑顔を見せながらカウンター席の一番奥、いつの間にか染井の定位置になっている席にタンブラーを置いて、ドリップポットからミネラルウオーターを注いだ。
〈カフェ・なごみ〉は大阪有数の繁華街から、私鉄で2駅離れた駅前にある小さなコーヒーショップだ。繁華街の延長線上にありながら、取り立てて目立つものは何もない。訊けばこの辺りは、先の戦争でも被害にあっていないため、昭和さながらの街並みが所々に残ったままの古い住宅街だそうだ。店は五軒並びの一角にあるが、いわゆる長屋形態ではなく、それぞれが独立した戸建てで構成されていた。染井のコンビニと実里のカフェの間には花屋、ラーメン屋、本屋の3軒の店がある。何の計画性もなく建てられた統一感のないその配置は、かえってこの街の成り立ちを物語っているようでもある。
〈カフェ・なごみ〉はサイフォンコーヒーを売りにしている。これは先代オーナー岩本和の拘りだった。和自身がハワイ・コナコーヒ―をベースにブレンドしたオリジナルコーヒーを一杯およそ200㏄で600円。一般的なこの辺りの喫茶店と比べれば、倍近くの価格になるはずだ。しかも、食器はウエッジウッド製のカップ&ソーサーとクリストフル製のスプーン&フォークというから、こんな場末の住宅街ではとても採算が取れそうにない拘り方であったが、実里もそれを踏襲していた。
「はい、お待たせしました~。染井さんお気に入りの当店自慢のオリジナルブレンドで~す」
実里はフラスコ内に落ちたコーヒーをブルーのウエッジウッドカップにたっぷり注いで、カウンターで経済新聞を読んでいる染井の前に差し出した。
「あっ、ありがと。しまったっ。新聞読んでて、ロートからコーヒー落ちるの見てなかった」
染井は新聞から顔を上げて渋面を作った。
「そういえば、そうやね。いつもロートに上がるのじっと見て、フラスコに落ち切るまで見てはるもんね」
実里は使ったサイフォン器具をシンクで洗浄しながら、上目遣いで染井に笑い掛けた。
「ティン!」
トースターが焼き上がりを知らせる軽やかな音を立てる。厚切りの食パンを取り出し、半分に切ってからデザートディッシュに乗せて、染井の前に差し出した。
「カラン、カラン」
ドアベルが鳴った。
「あ、いらっしゃいませ。おはようございます」
男性二人が入ってきた。一人が右手を挙げて笑顔を向けた。
「おはよう、きしだ、あっと、ママ、こっちもコーヒー頼むわ。ブレンドで」
「は~い。ありがとうございます。カウンター?えっ?河合君、そっち座るのん?」
実里はテーブル席のひとつを指差した。
〈カフェ・なごみ〉はカウンター8席と二人掛けテーブルが3組、全部で14席のコーヒーショップである。
「ああ、うん。ちょっと図面広げんとあかんから」
河合と呼ばれた男性のひとりは、実里の小学校からの知り合い、いわば幼馴染で、ひと筋向こうの大通りで、工務店を営む二代目社長、河合翔太だ。
「了解。河合くん、お水ちょっと待ってね」
「ああ、あとでええよ」
河合は図面を広げながら相手の男性に何かしら指示し始めた。
実里は二杯分のコーヒー豆20gをミルで挽き、ロートに入れてセッティングする。ミネラルウオーターの入ったフラスコをアルコールランプで温め始めた。
「ふーん、それ、この近くっていうか、野口さんの古い住宅が並んでるとこやんか」
実里はカウンターから出て、水を入れたタンブラーをテーブルに置きながら問い掛けた。河合の広げた図面にここから3区画ほど向こうの住所が記載されてある。
「そうや、野口さんとこの一画や。野口さんのご主人な、あそこらの長屋、みんな潰して更地にしはったんやわ」
河合は顔も上げず、図面を見たまま応えた。実里はそれでもなお興味深そうにもう一度図面を見ながら続けた。
「へー、そうなんや。あ、そういえば野口さんって、えっと…、あの賢治やな?あの野口賢治。河合君、仲良かったんとちゃうのん?」
「そうや。あの賢治や。せやから、新築住宅の建設を依頼してくれたんや」
河合はやっと顔を上げて、面倒くさそうに応えた。
「そっか…。あっと!」
実里はフラスコの湯がロートに上がり始めているのに気が付いて、慌てて竹ベラを持って撹拌準備をしている。
このあたりの地元住民は、それなりの市街地であるにもかかわらず、地方の街のように相変わらず繋がって生きているのだなと考えながら、この店も元はといえば、同じような繋がりから始めたのだと思いを馳せた。そう、このサイフォンコーヒーの淹れかたも…。
〈カフェなごみ〉の先代オーナー、岩本和はこの街に縁もゆかりもない女性だったが、ただ実里の亡父、岸田巌がある程度の援助をしていたようだった。いわば巌の恋人状態なのだが、巌は妻恵子と離婚しているにもかかわらず、何故か再婚はしなかった。それは実里にとって、いまだに理解し難い巌と和の関係だ。加えて、実里自身と和の関係も、他人からは理解し辛いと云えばそうなのだが…。
アルコールランプの火を消して、フラスコに落ちた2カップ分のコーヒーを河合のテーブルへ運ぶ。
「はい、お待たせしました~。モーニングは?」
「パン?いらんわ。いらん?よな?」
河合は連れの男性に顔を向けた。
「ああ、はい、僕も大丈夫です」
少し遠慮したように、上目遣いで実里を見ながら頷いた。
実里はカウンター内に戻って、相変わらず新聞を読み耽っている染井の前で声を掛ける。
「コーヒーお替りは?」
今度はすぐに顔を上げて、そのまま左右に振った。
「そういえば、あれから何年になるんかなあ?んーと…」
染井は左右に振った首を傾げて、実里を見つめた。
「あれからって?」
実里は問い直した。
「ママ、あんたが引き継いでからや。3年ぐらいかな…。和ママは引退して、どっかのホームに自分で入ったんやろ?」
「ああ、そのこと…。うん、そう。そうやねえ…、あたしが勤めてたホテル辞めてから、この秋で丸3年になるから〈なごみ〉もおんなじやね。和さんは六甲の中腹にあるホームやよ。何回か行ったけど、周りはほんまに山のなかって感じ、せやけど窓から大阪湾の海が見えて、神戸の港とかも見えて、なかなかええとこやよ」
実里は思い出すような仕草で天井を見上げた。
「ふーん、そうか…。まだ60そこそこやろ?もうちょっとやったらよかったのになあ」
染井は見ていた新聞を丁寧に折り畳んで、カウンター脇に置いた。
「まあ、そうかも知れんけど、あ、いま聞き流しそうになったけど、それって、あたしやったら不満ってことなん?」
実里は眉根を寄せて睨んだ。
「えっ?あ、ちゃうちゃう、そんなこと言うてへんて」
染井は顔の前で大げさに掌を左右に振ったので、実里は思い直したように微笑みながら、口角を上げて続けた。
「和さんが自分で言うてたけど、親戚縁者もおらんし、天涯孤独やから、死に場所ぐらい自分で決めとかんとあかんって」
「そか…。ま、それも人生ってことやろな」
染井は両掌を顔の前で組んで、その上に顎を乗せて、何かを考えるように呟いた。
「店長、そろそろ、店行かんと、また奥さんに怒られるで」
実里は壁の飾り時計に目をやり、人差し指で示した。11時20分を少し回ったところだった。
「わっ、ほんまや。もう11時過ぎとるわ」
染井はポケットから何枚かの小銭を取り出して、その中から600円を数えてカウンターのうえに置いた。
「ごちそうさんっ」
「ありがとうございます」
ドアベルが鳴り、染井は右手を挙げて、子供がバイバイするような仕草で店を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、実里はいま話をしていた岩本和のことを考えていると、何故か自身が結婚した頃の記憶が甦ってきた。
実里には父、巌が残してくれた借家がある。それは4階建てのマンションで、1階は自身の車の他に3台分の駐車スペース、2階と3階はそれぞれに2LDKの部屋が2戸ずつ、計4戸を賃貸して、自身は5歳年上の夫信也とそのマンションの最上階で暮らしている。信也は中堅どころの広告代理店に勤めている。実里と信也は市内の百貨店で催されていた(デザート&スイーツ展)の催事場で、偶然知り合うことになり、2年ほどの交際期間を経て結婚している。
その催事は、年に一度だけ開催される国内外の有名コンフェクショナリ―が一堂に会する菓子業界の一大イベントだ。実里は元々パティシエールで、高校卒業の後、製菓専門学校へ進んで、大阪では老舗ホテルの厨房で、製菓職人として勤めている。従って、このイベントは何としても見ておきたかった。しかし、開催されているのが百貨店の催事場のため、その営業時間内にはなかなか時間がとれない。今日も来月予定されているホテル内の飲食イベントの打ち合わせがあったのだが、シェフに頼み込んで、それをキャンセルしてやって来た。
百貨店の7階催事場をほぼ全フロア使って催されていた。実里は2時間ほど掛けて全ブースを見て回り、以前より考えていたデコレーションやトッピングツールなども見るものがあり、無理やり時間を空けてやってきた甲斐があったと喜びながら、実里がそろそろ帰ろうかと考えながら、焼き菓子ばかり扱っているブースで、自分用に何か買おうと展示品を見ていると、実里の横で考えあぐねていた男性に声を掛けられた。
「すみません。少しお訊ねしてもよろしいですか?」
一瞬、こんな菓子屋のイベントでナンパ?と思ったが、いくらなんでもそれはないだろうと思い直して振り向いた。
「えっ?あ、はい」
「あのう…、お菓子のこと詳しいですか?」
「え?まあ、割と…」
「あ、よかった。このブース、店員さんとか誰もいないので困っていました」
その男性はホッとしたように笑顔を向ける。
「ああ、そういえば…。そうですね」
確かに生菓子のブースには、それなりの人員が配置されているようだが、焼き菓子のブースには誰もいいようだ。ショーケースの上にQRコードがプリントされた商品写真付きの注文カードが置いてある。それをレジへ持っていって支払いすると、その商品と交換できるシステムらしい。
「えっと、これって、見た目がいいんですけど、味的にはどうなんですか?」
その男性が指差したショーケースのなかには(サブレ・フロランタン)が展示してある。
「味的にって云われても、まあ、美味しいですよとしか云えないです」
実里は頷きながら続けた。
「どなたかに差し上げるんですか?それともご自分で?」
「え、ま、得意先への手土産みたいな感じです」
「得意先って、そこ、お若いかたばかりですか?」
「えっ?なんでそんなこと訊くんですか?」
「あ、これ、この菓子ね。歯に付くんですよ意外と。だから、年配の人とか、歯が悪い人とかには食べ辛いんですよね」
「へー、そうなんですね」
「ええ、前歯に差し歯してはった人が、差し歯ごと取れたの、あたし、見たことありますよ。ズボッて感じで」
実里は右手の3本の指で何かをつまむような形を作って、口元でそのまま下へ引き出すようなイメージを模しながら笑った。
「えっ?そんな危険なお菓子なんや、これ」
男性は驚きながらも、実里に合わせて声を出して笑った。
「危険ってことはないですけど、ま、会社で配りはるんやったら、そんなことより、ひとつずつ個包装されたもののほうがええと思いますよ」
「なるほど…。確かに…。うん、そうですね。じゃあ、これとかですね?」
男性は納得したように何度も頷きながら、その横にきれいに並べられたシェル型のマドレーヌを指差した。
「ああ、そうですね。マドレーヌは無難です」
実里は微笑みながら頷いた。
「いま少しぐらいお時間ありますか?」
「え?まあ、すこしぐらいなら…」
「じゃあ、ちょっと待っててください。これ先に支払ってきますので」
男性は実里を待たせたまま、会計ブースへ向かっていった。待つように云われた実里は、何故かそれに対して何の疑問も持たず、云われた通りそのあたりの焼き菓子を眺めていると、その男性は百貨店の紙製ショッピングバッグを2つ提げて、早足で戻ってきた。
「あ、お待たせしました。これ、ひとつ、荷物になりますけどお持ちください。今日のお礼です」
男性はショッピングバッグの片方を実里に渡しながら続けた。
「このフロアの奥にある喫茶室でお茶でもいかがですか?」
実里と信也はこの出会いがきっかけとなって交際が始まり、そのまま結婚することになった。しかも、信也は男ばかりの三兄弟の次男坊で、入り婿でも構わないという、一人娘の岸田家にとって、願ってもない条件まで受け入れてくれた。(カフェ・なごみ)は今日も朝から染井啓介をはじめとした常連客たちで賑わっている。実里はいまのような生活が何事もなく送れていることをほんとうに幸せだと思っている。
「カラン、カラン」
ドアベルの音で実里は現実へ引き戻された。染井と入れ替わりに入ってきたのは、筋向いの角地で美容室〈ヘア&ファッション茜〉を営んでいる大槻茜だ。
「おはようございま~す」
茜はいつものように右掌を顔の横へ立てて、敬礼するようなポーズで、元気な声と笑顔で入ってきた。
「いらっしゃいませっ」
実里も元気に迎える。
「ブレンドとマドレーヌっていうか、まだ残ってるよね?マドレーヌ?」
「はいっ、大丈夫。今日はまだ誰も…」
実里は背面の棚から今朝焼いたシェル型マドレーヌをバスケットトレイごと取り出してカウンターに置いた。
「あ、3個いただきます。あ、1個はいまここでいただきます。あとは持ち帰り。お店のおやつにするので」
茜は目の前に出されたバスケットを見ながら、口角を上げてカウンターに腰掛けた。
「は~い、ありがとうございます。でも茜ママ、これ絶対今日の内に食べてよ。前にも言うたと思うけど、成分表示もしてないし、賞味期限も書いてないから、ほんまは店頭販売したらあかんねんよ。店内消費限定やかね」
「うんうん、わかってるって。大丈夫よ。心配しないで。食中毒になったらこの店、訴えちゃうからっ」
茜は声を立てて笑いながら、バスケットからマドレーヌを3個取り出した。
「もおーっ、また、そんなことばっかし言うてぇ…」
実里はそんな茜を睨みながらも少し笑みを浮かべて、コーヒー豆をミルに掛けて、アルコールランプに着火した。
「で、茜ママだけ、さぼり?ですか?」
茜は実母が開いた美容室を継いだ二代目で、同じ美容師の夫と夫婦で経営している。
「まっ、ね。でもお買物のおつかいです」
茜はこの街の生れだが、高校を卒業してすぐに、東京の美容専門学校へ進んで、そのまま東京渋谷の表参道にある著名な美容室に就職したらしい。しかし、店を開いた実母が亡くなったため大阪へ戻り、この店を継ぐことになったらしい。茜は長い東京生活が染みついてしまったのか、言葉使いに大阪イメージが全く出てこない。
「やっぱりママんところのマドレーヌはどこよりもおいしい!ほんと間違いないよっ」
茜はコーヒーが出来上がるのを待ち切れないようで、マドレーヌを包んだ透明のPET袋を開いている。
「まあ、それは、それは、おおきに、ありがとさんですっ」
実里は微笑みながら、わざと大阪弁のお礼言葉で頭を下げた。
世界中で愛される焼き菓子マドレーヌの由来は、諸説あるなかでも、フランスロレーヌ地方の少女の名前というのが定説で、キリストの12人の使徒のなかで、弟ヨハネと共に側近を務めたヤコブが漁師の家に生まれたため、ホタテ貝のような貝殻の形が、その象徴とされて、巡礼者が身に着けていたのが起源というのが有力らしい。実里はキリスト教徒ではないが、通っていた高校がカトリック系の女子高だったので、キリスト12人の使徒の話もいくつか理解しており、この説には何となく親近感を持っていた。
〈カフェ・なごみ〉の朝はマドレーヌ作りから始まる。オーブン機能の付いた電子レンジの容量も限られているし、売れ残っても仕方がないので、1日 20個しか焼かない。店内販売限定で、1個 400円で売っているが、最近は 100円均一ショップでも売っているらしいので、高いと云えば高いのかもしれない。しかしこれでも採算は取れていないのが実情だ。これも趣味で営業していると云われる所以のひとつかもしれない。今日もいつものように 20個焼いて個包装をしたものを籐製のデザートバスケットに入れて棚に並べている。
「そや、茜ママ。今朝ね、ついでにフィナンシェも作ってみたんよ。同じ訴えられるんやったらこっちも毒見してくれへん?」
実里はフラスコに落ちたコーヒーをソーサーに乗せたカップに注ぎ、茜の前に差し出しながら茜を見て、棚からウエッジウッドのフェスティビティプレートに乗せた金塊のような形状の焼き菓子を取り出した。
「ほらね、これ食べてみて」
「うん、フィナンシェだね。これ」
「そう、ほんまに金が入ってるかもしれんで」
「うそだあ!」
「ま、ええから。ほら食べてみてっていうか、まさか、アーモンドアレルギーやないやろね?」
「あ、うん、旦那もあたしも大丈夫。優菜ちゃんも違うと思うわよ。そんなの聞いたことないから」
茜は目の前に出された花柄をあしらった上品なプレートに乗ったフィナンシェをひとつ手に取った。
「いただっきま~す」
茜はそのフィナンシェをひと口大にして口に入れる。
「どう?」
実里は少し不安げに訊ねた。
茜はコーヒーを一口飲んでから微笑みながら右手の親指を立てて、実里の顔の前に突き出した。
「OK!セ・ボン!んーと、こんなときはエクセラン!かな?」
「そう?うん、ありがと、よかった」
実里はホッとしたように微笑んだ。
「でもさあ、前から不思議に思ってたんだけど、フィナンシェもマドレーヌも同じようなものなのに、なんでわざわざ分けてあるの?」
茜がフィナンシェのもう半分を口に入れて、咀嚼しながら訊ねた。
「いちばんの違いはたまごを全卵使いするのと卵白だけしか使わないことやね。あ、それとこのアーモンドかな」
「ふーん、それで歯触りっていうか、触感が全然違うんだね」
「そうそう、このアーモンドの香ばしさとマドレーヌのふんわり感ね」
「それと、これ、英語だとファイナンシャルだもんね。金融って、お菓子のイメージと懸け離れてるよね?」
実里がそれに同意して、頷きながら成り立ちを説明しようとしたとき。ドアベルが鳴った。
「茜ママいますか?あ、いてはったわ。ママ、予約の斎藤さん来はったから戻ってきてくださいって」
入ってきたのは、美容室〈ヘア&ファッション茜〉でインターンをしている八木優菜だ。
「あ、もうそんな時間?」
茜は腕時計と壁のアンチック風の賭け時計を交互に見比べた。
「これ持って帰って。今日のおやつね」
茜はカウンターチェアから降りながら、優菜にマドレーヌを2個手渡しながら訊ねた。
「優菜ちゃん、アーモンドは大丈夫だよね?」
「えっ?なんで?ですか?あかん、あかんっ。あたし、アーモンドはダメです。アレルギーです。食べたら死んでしまうかもしれへん」
「えっ?そうなの?」
茜はほんとうに驚いたように優菜と実里を交互に見た。
「ほらあ、そやろう。そんなことあるんよ。せやから注意せなあかんて」
「ほんとだね、ママ、殺人犯にするところだったわ」
茜は笑いながら千円札を2枚出してカウンターに置いたから訊ねた。
「フィナンシェはいくら?マドレーヌと同じだったら、えーと、あと 200円だね?」
「あ、それはいいです。試作品やから」
実里は逆に 200円のお釣りを手渡そうとした。
「あら、そうなの?じゃあ、お釣りはいいわ。それ、殺人犯の保釈金ね」
「200円の保釈金って、やすっ!」
茜はふたりの話をきょとんとして聞いていた優菜の肩に手を置き、促すようにして、笑いながら店を出ていった。
河合は打ち合わせが終わったのか、二人共納得したような顔をしてコーヒーを飲みながら談笑している。
「岸田のコーヒー、ほんま、うまいわ」
「なに言うてのん。いまさらお世辞言うても何も出えへんよ。これから仕事やろ?はよ帰りっ」
「客やと思てへんなこいつ。あ、こいつって言うたらまた怒られるわ」
河合は千円札と百円玉を2枚出して、カウンター越しに実里の前に置いて、二人で何か話したあと、大笑いして出ていった。ドアベルの音が静かに余韻を残す。
店内に再び静けさが戻る。カウンターに残るコーヒーの香り。磨かれたコーヒーカップとソーサー。窓から差し込む午後を迎えようとしている陽光。実里はふと手を止めた。この日常は穏やかで満ち足りている。けれど、どこかで、何かが少しずつ動き始めているような気もしていた。しかし、その気配を言葉にすることはできなかった。ただ、サイフォンのガラスに映る自分の姿を、しばらく見つめていた。朝はいつものように終わっていく。




