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「敵襲!」
その声が響き渡ったのは、令嬢が湖でピクニックに興じている時。遠巻きに警護していた男の叫びの直後、まず動いたのは公子。ピクニックの荷物の中から引っ張り出したのは、くろがねの長い武器──マスケット銃だった。
無言で投げられるそれを、グロリアはしかと受け取った。
「お嬢様をお願いします」
公子と位置を交替し、グロリアは令嬢を任せて少し距離を取る。湖の周囲は林になっている。弾と火薬を込め、準備をしてグロリアは静かに待った。
銃声は、林の中の鳥をバタバタと飛び立たせた。グロリアはただ視線を落とし、次の弾と火薬を込める。
三発繰り返したところで、違う方向から二人の男が飛び出してきた。周囲の護衛とグロリアの銃弾をくぐり抜けた生き残り。最初に何人いたのかは分からないが、ほぼ壊滅的な数と言っていいだろう。しかし、残る二人は確かに令嬢めがけて向かってきている。
もはや、銃では間に合わない。グロリアは銃を置き剣を抜いた。しかし、それは公子の方が早かった。グロリアの方に宰相令嬢をぐいと押し出すや、二人めがけて駆け出してゆく。その背の何と頼もしいことか。
湖の側で令嬢がへなへなと腰砕けになる前に立ちふさがったグロリアは、公子の戦う姿を見つめることと、令嬢から血なまぐさい光景を隠すことの両方を同時にこなしていた。
「大丈夫でございます、お嬢様」
グロリアは言った。
「もう終わりました」
返り血を浴びて戻ってくる公子の姿を、どこまで見せて良いものかグロリアは悩みながらも、己はわずかも目をそらさぬまま見つめていた。
その後、うっかり公子の凄惨な姿を見てしまった宰相令嬢は「きゃあ!」と叫んで気を失ってしまうこととなる。
返り血にまみれた公子のために湯桶を借りて自室に持ち込むと、グロリアは彼の世話をした。とても勇気のある侍女が、世話をしようと近づいてくるのをはばむためだ。
世話と言っても、公子が湯桶で身を拭き清める姿を、決して誰にも見られぬように小さなついたての反対側で番人のように立ちはだかっているだけなのだが。
着替えとタオルを腕に抱え、彼女は何とも気恥ずかしい気持ちを持て余していた。後ろは、誰にも見せてはならない。同時に、自分も見てはならないことを重々理解していた。
「グロリア……終わったよ」
後方から聞こえていた水音がやんだ後、そう小声で囁かれ「はっ、はいっ!」と緊張しながら後ろ手でまずタオルを差し出す。
まだ抱えている着替えを、いつ渡せばよいのかどぎまぎしながら必死で考えていた。自分の後ろにあるついたてが、どれほど物をかけるのにちょうどいい家具であるか、この時のグロリアではとても思いつけなかった。
「さすがの銃の腕だね」
「ひっ、久しぶりでしたので……緊張しました」
いままさに緊張した状態で声を裏返らせながら、グロリアは湖での出来事を思い出していた。グロリアは、非常に目がいい。この目が、彼女の正確な射撃を助けてくれた。
「そうかい? とても冷静に見えたよ」
「身体が覚えておりましたので……っ!」
返事をしようとした瞬間、グロリアは口から心臓が飛び出しそうになった。自分の横から素肌の腕がにゅっと伸ばされたからだ。
「着替え……くれる?」
ついたてを越えて、真後ろに立って囁く公子の声。
グロリアはとても慌ててしまって、着替えを彼の手に押し付けるや、そのまま駆け出してしまった。部屋を飛び出して扉を閉め、その扉に背中を押し付けて、猛ダッシュをした後のようにぜいぜいはあはあと荒い呼吸を繰り返した。
そのままグロリアは、結果的に部屋の扉を守ったのだった。
※
あんな襲撃があっては、別邸での令嬢の楽しい時間もおしまいとなる。応援を呼ばれ屋敷が固められた状態で、明日には本邸に帰ることが決まった。
「お前たちには、世話になったわ」
ふてくされながらも、さすがにあきらめたような令嬢は、グロリアの方を見て礼を言った。
おそらく公子の方を見ると、あの凄惨な姿が生々しく甦ってしまうのだろう。不自然な令嬢の視線に、公子から少し楽しそうな気配が漂ってきてグロリアは困った。
彼女からの別れの言葉は「守ってくれて感謝していてよ」という、これはグロリアからもあらぬ方に視線を外した言葉だった。
もはや護衛の仕事も必要なくなり、明日までゆっくりして帰れると思っていたグロリアだが、部屋に戻るや公子が「僕は今日帰るよ、ちょっと用事があるから」と言い出す。
それなら私もとグロリアも混じろうとするが、「借りられる馬は、一頭しか空いてなくてね」と、つれなく出て行ってしまう。
これまで短い期間とはいえずっと一緒にいただけに、突然の公子の不在はグロリアをとても寂しくさせた。安全だと分かっている屋敷の中で、彼女は視界に彼がいない寂しさを存分に思い知らされていた。
ただ、夜はいつも公子は部屋の外だったせいか、困ったことにぐっすり眠れてしまった。
翌朝は、令嬢とは別に、兄が手配した馬車が来ることになっていた。先に現れた立派な馬車。宰相令嬢の迎えだろう。脇に立っていたグロリアは、しかし令嬢が怪訝な表情を浮かべているのにつられるように首を傾げた。
その馬車から降りてきたのは──
「グロリア、迎えに来たよ」
公子、だった。
勿論、貴族の男性らしい立派な身なりである。
「!?」
まさか昨日まで女装してウロついていた場所に、本来の姿で現れるなんて思ってもみなかったグロリアは、慌てて周囲を見回した。令嬢以下使用人から護衛まで、ぽかんとして公子が驚いているグロリアの手を取るところを見ている。
とにかく、疑われる前に急いで去らなければ。
退去の挨拶もほどほどに、グロリアは逃げるように馬車に飛び乗った。
「公子さま!」
「言っただろ、用事があるって」
馬車が走り出すや、グロリアは向かいの公子に自分の驚きのままに名を呼ぶが、彼はニヤっと笑いながらそううそぶく。
「ずっと女装して頑張ったんだから、これくらいの役目は果たさせてよ。お前はすぐ、どっちの僕でもいいみたいに言い出すから」
更なるグロリアの言葉を片手で制して、公子は身を乗り出してくる。「そ、そういうわけでは……」とグロリアは過去の自分の発言を思い出して小さくなった。
「さあ、帰って君の兄上に報告したら、さっさと結婚の話を進めよう。でなきゃ、僕はまた女の格好をさせられる羽目になる」
揺れる馬車の中、本当にもうそれだけはごめんだという口ぶりで公子が天井を見上げる。
女装の時とは違い、隠されていない喉仏が見えて、グロリアはどきりとした。
「あ、あの、公子様。公子様はとても男らしい方だと、その、思います。頼もしい方だと」
そんな自分の胸の鼓動を隠すべく、彼女は言葉を尽くした。視線を天井からグロリアに戻した公子は、嬉しそうに目を細めてグロリアを見た。目をちょっとそらすと、そちらに顔が追いかけてくる。
「もっと男の僕をほめてよ。お前にほめられるのが一番幸せなんだから」
公子はとても上機嫌になって、グロリアの次の言葉を要求する。突然そんなことを言われても、彼女の中はまだ混乱していて正しい言葉を見つけられそうになかった。
ほら、ほらとせっつかれてグロリアは、顔を赤くしてすっかり黙り込んでしまったのだった。
その後、公子はとても熱心に結婚話を進めきり、当初の予定より二ヶ月も早く式を挙げることに成功した。
その熱意が通じたのだろう。公子が式を挙げるまで女装させられることはなかったのだった。
『終』