【記録 No.027】剣を降ろす門
「頼んだぞ、リリア……!」
拓海の額に触れたフェルガの手が、硬く強張っていた。
寝台の拓海は応答を示さず、胸の微かな上下だけが生きていることを示している。
「……必ず、答えを持ち帰るから」
「……それまで……拓海をお願い!」
リリアは携えた剣を確かめると、一度だけ拓海の顔を見つめ、意を決して部屋を後にした。
◇
相談所の外には、先ほどの島詠み族の老人が静かに立っていた。
その左右を固めるのは、顔に白い紋様を描き、毛皮と獣骨の装束を纏った二人の男。
「……お前ら、もしリリアに何かしてみろ。私が許さないからな」
フェルガが敷居を跨ぎ、鋭い視線で睨みつける。
老人は突いた杖へゆっくりと重心を移すと、低く太い声を落とした。
「ふむ、そうじゃな。わしとした事が、まだ名乗っておらんかった」
「改めて名乗っておこう。我が名はナグラ……」
老人は杖を静かに地へ突いた。
乾いた音がひとつ、森の静寂に響き渡る。
「御環島に刻まれた古き記憶を受け継ぎ、島詠み族を導く者じゃ」
拓海たちの知らない時代からこの島に根を張り、果てしない年月と記憶を背負ってきた民——その中心に立つ者の重圧が、その一言に凝縮されていた。
フェルガもその眼光と立ち姿に気圧され、喉の奥で低く唸る。
「……なるほどな。どうやら、後ろの二人も単なる護衛という訳ではなさそうだ」
「では、案内するとしよう。この島に眠る……打ち消すものの元へ」
フェルガは二人を交互に見据え、やがて拓海の待つ部屋へと視線を戻すと、深く、重い息を吐き出した。
「すまんな……リリア。私も一緒に行けたらいいのだが……」
「……大丈夫。フェルガはそこで、皆をみててあげて。」
「……今度は、私たちが拓海を助ける番だから」
獣骨の装束が擦れる乾いた音を伴い、三人が静かに森の奥へ踏み出す。
リリアはその背中を追った。
◇
鬱蒼と茂る樹々を掻き分けながら、薄暗い森を進む。
「……ナグラ族長」
足元を確かめながら、リリアは静かに問いかけた。
「どうして……あなたたちは今まで、私たちの前に姿を見せなかったの? この島の外へは出ないの?」
ナグラは杖を突き、苔むした地面を踏みしめながら応える。
「我らは、この地を『御環島』と呼び、記憶を紡いできた」
「島の外のことなど知らんし、関わる必要もなかった。我らは記録される民ではなく、記憶を残す民。拓海という若者が紡ぎ始めた『灯り島』も、ただ遠くから見守るのが我らの理であった」
「御環島……」
「そうじゃ。人が何と呼ぼうと、この島の本質は変わらん」
ふと、ナグラが足を止め、振り返ってリリアを見つめた。
その眼光の深さに、リリアの足がピタリと止まる。
「……しかし、その赤き髪。よく似ておる」
「……私の、ご先祖様にですか?」
「いや」
ナグラは愛おしむように目を細めた。
「……若き日の、あの方にな」
リリアはそっと、自分の髪を指先でつまんだ。
物心ついた時から共にあった赤色。
それを特別だと思ったことなど、一度もなかった。
けれど今、初めて疑問が浮かぶ。
なぜ自分は、この色を持って生まれたのか──。
◇
やがて、唐突に森が途切れた。
「ここは……」
鳥の鳴き声はない。虫の音も。
皮膚を撫でていた風さえ、止まっていた。
開けた広場の中央には、見覚えのある造りの建物がぽつんと佇んでいる。
木組みの歪みも、玄関の広さも。どこか、拓海が最初に作ったあの相談所に酷似していた。
そしてその奥に、一本の白い木の門が立っている。
門柱には、風もないのに微かに揺れる古い木札が、何百枚と吊り下げられていた。
リリアがそのまま門をくぐろうと、一歩を踏み出したその時。
「……それは、置いてゆけ」
ナグラの静かな声が引き止めた。
リリアは立ち止まる。
無意識に、剣の柄へ手を添えていた。
「どうして……?」
「この先は、武器を持たずに入れというの?」
ナグラは答えぬまま、しばらくリリアを見つめたあと、静かに尋ねた。
「怖いか?」
「その剣を、手放すのが」
リリアの肩がわずかに揺れる。
「違っ……」
否定の言葉が出るより早く、ナグラは続けた。
「では、なぜ今も握っておる?」
自分でも気づかぬうちに、リリアの指は柄を強く掴んでいた。
関節が白くなるほどに。
「その剣がなければ」
「……お主は、お主ではないとでも言うのか?」
「っ……!」
その問いが、リリアの胸を深く刺し貫く。
「それを置いてしまえば、お主はもう『勇者リリア』ではなくなる」
ナグラは静かに、しかし逃げ場のない声を重ねた。
「怖いか? 何者でもない自分で、立つことが」
「……私は……!」
言い返そうとしたが、何も出てこなかった。
握っていた。しっかりと、固く。
拓海を助けるには自分が勇者でなければ、と。
無意識のうちに「勇者」という肩書きにしがみついていたのは、自分自身だった。
「捨てろとは言わん。逃げろとも言わん。……ただ、この門をくぐる間だけは」
ナグラは静かにリリアを見つめ返した。
「その剣より、お主自身を信じてみよ」
リリアは深く息を吐き出すと、柄からゆっくりと手を離した。
身につけていた剣を外し、静かに預けた。
剣を離した瞬間。肩は軽くなった。
それなのに、胸の奥はかえって重く沈んだ気がした──。
◇
「……この先で、何が待っているの?」
剣から手を離したリリアが問うと、ナグラは門の木札を見上げた。
「祠は人を試さぬ。ただ……島がお主を受け入れるかを確かめるだけじゃ」
ナグラは白木の門を指す。
「五枚の木札。五つの申請じゃ」
「申請……?」
「一枚通れば、次の一枚。……却下されれば最初へ戻る。三度却下されれば祠はその日門を閉じ、五度却下されれば──祠はお主を拒む。二度とここへ辿り着くことはできん」
命を奪う罠ではない。
だが、失敗すれば拓海を永遠に救えなくなるという、重く冷酷な条件。
「答えを探すな……お主自身を書けばいい」
ナグラはそう言い残すと、ザグやミハルと共に少し離れた場所へ引き下がった。
門の前に残されたリリア。
そこには、墨と筆、そして一枚の真っ白な木札が置かれていた。
木札には、たった一行だけ、刻まれていた。
『何者として、この島へ来た』
リリアの指先が、小さく震える。
拓海を救うための答えを書こうとしていた。
けれど、その答えはまだ『勇者としての答え』だった。
リリア自身の言葉が、どこにも見つからなかった──。




