【記録 No.001】リリア/元勇者(申告:無職)
潮風が冷たく頬を撫でた。
リリアは砂に体を沈めたまま、ゆっくりと目を開けた。薄暗い空は夕焼けの名残をわずかに抱え、海は赤と藍の境目を揺らしている。
森の向こうで、細い煙が静かに立ち上っている。
立ち上がると、足元に木の看板と目の前に小屋が立っていた。
「ようこそ、灯り島へ」
「ここでは、昨日までの肩書きは必要ありません」
「ただし、これまで生きてきた経験まで捨てる必要はありません」
「今日から、どんな暮らしをしたいかだけ教えてください」
リリアは看板をじっと見つめ、指先で木の表面をそっと撫でた。
背後から声がした。
「こんにちは。長旅、お疲れさまでした」
振り返ると、革鞄と分厚いバインダーを抱えた男が立っていた。三十前後。武器は持っていない。穏やかな笑みを浮かべている。
「佐藤 拓海といいます。この島で移住促進・生活支援を担当しています」
リリアは無意識に一歩下がり、剣の柄に指をかけたまま相手を観察した。
「……いじゅうそくしん?」
その言葉は、彼女の知るどの戦場用語とも違った。敵でも味方でもない。命令でも報告でもない。意味が掴めないまま、警戒だけが残る。
拓海はその距離を受け入れたまま、落ち着いた声で言った。
「この島へ“移り住みたい方”を、私はサポートしております」
「まずは小屋の中へどうぞ。長旅で疲れているでしょう」
相談所に入り、拓海は椅子を引きリリアを座らせると、棚から器を取り出した。
「漂着者用の備蓄が役に立ちました」
「……最初から用意していたの?」
「はい」
「私が今日、ここに来ると分かっていたの?」
「いいえ、分からないから準備していました」
鉄鍋から湯気を立てるスープを器によそい、照れくさそうに置いた。
「すいません。今はこんなものしかありませんが、どうぞ」
リリアはスプーンを手に取り、一口飲んだ。熱い。体に染み渡る温かさ。
ただの塩味ではない。根菜の甘みと、干した魚か何かで丁寧に取られた出汁の深いコクが、疲弊した身体の奥底まで染み渡っていく。
戦場で何度も耐えたはずの自分が、たった一杯の温かいスープで喉が詰まる。自分でも理由が分からず、器を持つ手がわずかに震えた。一粒の涙が、静かに落ちた。
「……もし、少しでもこの島で住むことに興味があるのなら、どんな暮らしが落ち着きますか?」
リリアは剣から指を離さないまま、ほんのわずか視線を揺らした。
(移り住む?)
(自分が?)
(ここへ?)
(また、"◯◯"として?)
その疑問は言葉にならず、胸の奥で渦を巻く。
拓海はゆっくりと頷いた。
「安心してください。移り住む・住まないに関係なく、当面の休む場所と食事の準備もできていますから」
“安心してください”
安心とは自分が人々に与えるもので、自分に与えられるものではない。リリアはそんな生活を送っていた。
その一言は、胸の奥を少しだけ撫で、剣の柄を握る手に力が入らなくなるのを感じた。
「……準備?」
拓海は地図を広げ、指先で境界をなぞった。紙の上を淡い光がゆっくりと走る。
「見てください」
リリアは地図を見つめた。光が輪郭をなぞるたび、胸のざわつきが少しずつ静まっていく。知らず知らず、剣の柄を握る手に力が入っていない。呼吸が、いつの間にか深くなっていた。
戦場で常に張りつめていた体が、ここでは警戒を解こうとする。理由は分からない。だが確かに、何かが場を和らげている。
「ここが今いる場所です。畑と井戸は使えます。薪は森で取れます」
相談所の裏にある森を抜けると、小さな広場に木造の平屋、井戸、畑が並んでいて、生活の匂いがする。鉄鍋から湯気が立ち上り、誰かの手仕事の跡が残っている。そんなイメージがリリアの頭の中に思い浮かんだ。
リリアはしばらくその光景を想像し、剣の柄から指をゆっくり離した。
警戒はまだ解けていない。けれど、胸の奥に小さな違和感が芽生えていた。
戦うでも、逃げるでもない。そんな選択肢を、自分は一度も考えたことがなかった。
「……住む、っていう選択も……あるんだ」
「各種支援の他に、生活相談にも対応しております」
リリアは首を傾げた。
「相談?」
「はい。住む場所を決める前に、まずは何を大切にしたいか確認します。大事なことですから」
すると淡い光が広がった。
+
【定住支援 発動】
<< 情報不足 >>
<< 適性判定不可 >>
+
拓海は穏やかな声で聞いた。
「海と森なら、どちらが落ち着きますか?」
「……海かな」
光が更新された。
+
<< 希望:静かな生活 >>
<< 海辺適性:高 >>
+
「一人の時間は必要ですか?」
「……必要」
+
<< 共同生活適性:低 >>
<< 個室推奨 >>
+
「すぐ働きたいですか?」
リリアは器を置いた。長い沈黙のあと、小さな声で言った。
「…………休みたい」
光がまとまった。
+
【定住支援計画 】
<< リリア >>
希望住居:海沿い
優先事項:休養
就労:保留
+
拓海は静かに微笑んだ。
「ありがとうございました」
光が消えた。
最後に一行だけ浮かんだ。
+
<< 本人未申告事項:勇者 >>
+
拓海は視界の端に浮かんだ文字を静かに閉じた。
(……なるほど)
それ以上は考えず、彼はいつも通りファイルを開き、ペンを走らせた。
「当面は休養を優先。住まいは海沿いの仮住居。仕事の紹介は体調が落ち着いてから──、っと」
書き終えると、ファイルを閉じて顔を上げた。
「なお、この島では過去の経歴は必要ありません。必要なのは、これからどう暮らしたいか。それだけです」
リリアは小さく眉を寄せた。波の音だけが、二人の間をゆっくりと流れていく。
やがて彼女は、自分の膝の上へ視線を落とした。
「……もし」
声は、風に紛れそうなほど小さい。
「何者でなくても……」
「本当に……ここにいてもいいの?」
拓海は少しだけ考え、それから穏やかに頷いた。
「だから、この島があります。居場所がなくなった人に、次の暮らしを見つけてもらうための島です」
リリアは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……それなら」
その息は、張り詰めていた何かを手放すようにも見えた。
「……もう、勇者をしなくてもいいんだ」
「何者でもない……ただのリリアに戻れるんだ」
拓海は何も言わず、受入ファイルの最後の欄へ静かに書き込んだ。
+
【受入判定:可】
+
◇
朝、相談所は湯気と紙の匂いで満ちていた。
拓海が声をかけた。
「今日は仮住まいの準備をします。海沿いの小屋と、高台ですが窓から海が見える小屋があります。どちらがいいでしょうか?」
リリアは波を見つめたまま、ためらった。
「……海沿いの方かな」
拓海は地図をなぞり、光で確認しながら頷いた。
「波の音は聞こえますが、静けさが保たれやすく、視界も開けています。剣をお持ちなら安心できる場所だと思います。薪と井戸への動線も良いです。こちらにしましょう」
道すがら、拓海は井戸の使い方や夜の灯りの置き方を淡々と伝えた。
「困ったことがあれば、まず相談所へ来てください。相談が増えれば記録も増え、次に来る人のために役立ちますので」
午後、拓海が仮設桟橋の補修をしていると、作業の合間、低い唸り声が聞こえた。
拓海が地図を確かめ、静かに言った。
「来るみたいですね」
夕方、次の漂着者が現れた。黒い巨体が砂浜に倒れ込み、小さな影を必死に守っている。
拓海はファイルを開き、「定住支援」を再び発動させた。
+
<< 情報不足 >>
<< 会話不可 >>
<< 適性判定不可 >>
光が一度、停止した。
<< 移住相談:判定不能 >>
+
拓海は首を傾げた。
「……これは、移住の相談ではなさそうですね」
彼は巨体の傷、幼い影を抱く腕の強さ、荒い息遣いを静かに確認した。
+
(更新)
<< 家族構成:推定3名(幼体2名含む) >>
<< 生活課題:栄養不足・保護疲労 >>
<< 緊急保護:推奨 >>
+
リリアは剣の柄に手を伸ばしかけたが、拓海の落ち着いた背中を見て止めた。
「戦わないの?」
「違います。まずは状況を確認します」
「……どうして、助けるの?」
「住所が無いと、心から休めませんから」
その言葉に、リリアは胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
ここでは、戦いは必要のないのかもしれない。




