第5話「迫りくる黒い影」
穏やかな時間は、唐突な違和感によって破られた。
廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから不自然な味が流れてきたのだ。
それは腐敗した生肉に大量の香辛料をまぶしたような、吐き気を催すほどの悪意。
ルシエルは反射的に壁に身を隠し、呼吸を殺した。
「……騎士団長の様子はどうだ?」
低く、ねっとりとした声が聞こえる。
「はっ。最近、専属の給仕を置いているようで、以前よりも顔色が優れているように見受けられます。食事の際、我々が混入させている抑制剤の効果が薄れている可能性も……」
「おのれ……。あの帝国の剣が錆びついてもらわねば、我々の計画に支障が出る」
指先が怒りと恐怖で小刻みに震えた。
アシュレイの味覚が失われていたのは、単なる魔力の代償だけではなかったのだ。
何者かが、彼の食事に毒を盛り続けていた。
『許せない』
静かな炎が燃え上がる。
彼が一人で戦い、一人で耐えてきた苦しみの正体が卑劣な陰謀であったことに、激しい憤りを感じた。
◆ ◆ ◆
その日の夕刻、強い香りを放つスパイスをふんだんに使ったクッキーを焼き上げた。
見た目はごく普通の焼き菓子だが、内側には毒を中和し魔力の循環を正常化させる癒やしが込められている。
執務室に足を踏み入れると、アシュレイは珍しく机に突っ伏して眠っていた。
寝顔は普段の厳格さが嘘のように幼く脆かった。
ルシエルは起こさないようにそっとクッキーの皿を置こうとした。
「……ル、シエル……」
夢の中で名を呼んだ。
その声に含まれていたのは、震えるほどの寂しさの味。
「……ここにいます、閣下」
吸い寄せられるように頬に手を伸ばした。
冷たい肌が指先の体温を貪るように求めてくる。
睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれた。
「…………お前、何をしている」
寝起きの掠れた声が耳元を震わせる。
慌てて手を引こうとしたが、それよりも早く大きな手が首筋を捕らえた。
「……逃げるなと言ったはずだ」
「閣下、あの、お菓子を……」
「菓子など、後でいい」
引き寄せられる。
鼻先が触れ合うほどの距離。
蒼氷色の瞳の中に熱い情動が渦巻いているのが見えた。
その瞬間、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「失礼いたします! 閣下、緊急の報告が……っ!?」
飛び込んできた副官の騎士が、目を見開いて硬直する。
眉ひとつ動かさず、抱き寄せたまま冷徹な視線を副官へと向けた。
「……下がれ。今は、取り込み中だ」
副官は顔を真っ赤にして脱兎のごとく退室していった。
心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けながら、ルシエルは、自身を抱きしめる腕の強さに逃れられない運命を感じていた。
アシュレイから放たれる味はもはや灰などではない。
それは焦がしたキャラメルのような、苦くも狂おしいほどの執着の味だった。




