第3話「指先に残る微熱」
宮廷の裏庭にある古びた東屋。
ここは密かに見つけた、束の間の休息場所だった。
朝の光が木漏れ日となって地面を斑に染め、濡れた芝生から土の匂いが立ち上がっている。
「……今日は、少しだけ甘すぎるかな」
自分で作った試作のメレンゲ菓子を掌に載せてつぶやいた。
アシュレイに供する菓子を考える日々は、没落後の暗い日々に予期せぬ彩りを与えていた。
彼の好みが少しずつ分かってくる。
重厚なナッツよりも、口の中で儚く溶けるような軽やかな甘み。
それは彼の内側に眠る、脆い硝子細工のような繊細さを物語っているようだった。
その時、足元の茂みが不自然に揺れた。
「……?」
カサリという音とともに姿を現したのは、信じられないほど真っ白で丸々とした塊だった。
子犬のようでもあり、子熊のようでもある不思議な生き物。
全身を覆う長く柔らかな毛は、銀色に輝く朝露をまとっている。
「うわあ……」
思わず感嘆の声を上げた。
大きな黒い瞳でじっと見つめると、鼻先をひくひくさせて近寄ってきた。
手にあるメレンゲ菓子を狙っているのは明白だった。
「君、これがお目当てなの?」
おずおずと差し出すと、白い塊は指先まで一緒に食べそうな勢いで菓子を頬張った。
サクサクという小気味よい音が響く。
『……甘い。幸せな味がする』
「えっ」
今、頭の中に直接声が響いた気がした。
驚いて目を見開く足元で、白い生き物は満足げに尻尾を振り、体を擦り寄せてきた。
まるで上質な真綿に包まれているかのようで、得も言われぬ幸福感が全身に広がる。
「お前、こんなところで何を遊んでいる」
頭上から降ってきた鋭い声に肩を跳ねさせた。
振り返ると、不機嫌そうに腕を組んだアシュレイが立っていた。
「か、閣下! 申し訳ありません、休憩の最中で……」
「休憩だと? 仕事もせずに、そんな獣と戯れている暇があるのか」
アシュレイの視線が、足元でくつろぐ白い塊に向けられる。
すると、それまで大人しくしていた生き物が、突然アシュレイに向かって低く唸り声を上げた。
「な……なんだ、その態度は」
「閣下、いけません! この子は、ただお菓子を食べていただけで……」
アシュレイが手を伸ばそうとすると、生き物は素早く身を翻し、彼の軍靴に勢いよく飛びかかった。
「……っ!? この、離せ!」
精強な騎士団長が、小さな白い塊に翻弄されている。
ルシエルは必死に笑いを堪えながら、慌てて二人の間に割って入った。
「シュガー! ダメだよ、その方は偉い人なんだから」
咄嗟に名付けると、シュガーはぴたりと動きを止めて見上げた。
そして馬鹿にしたようにアシュレイに背を向け、腕の中へと飛び込んでくる。
「……ぐふっ」
意外な重みにたじろぐ。
腕の中に収まったシュガーは誇らしげに鼻を鳴らし、アシュレイを蒼氷色の瞳で見据えた。
「……ルシエル。そいつを今すぐ、どこかへ捨ててこい」
「そんな、可哀想です! 見てください、こんなに可愛いのに」
「可愛くなどない。凶暴な魔獣だ。……第一、私以外のものに触れさせるな」
「えっ」
最後の一言は、聞き逃してしまいそうなほど小さかった。
アシュレイは不自然に視線を逸らし、乱暴に髪を掻き乱す。
その時感じた味に息を呑んだ。
彼から放たれていたのは焦燥と、子供のような強い独占欲の味。
『この人、私に使われていることに、妬いているの……?』
突飛な推測に顔が火照り始める。
アシュレイは腕の中でぬくぬくとしているシュガーを睨みつけると、大股で歩み寄ってきた。
「貸せ」
「ひゃいっ」
大きな手が、腕ごとシュガーを抱え上げた。
密着した体温。
胸板の厚さと、軍服越しに伝わる心臓の鼓動。
あまりの近さに呼吸を忘れた。
アシュレイの瞳が至近距離で捉えてくる。
「……菓子は、もうないのか」
「あ、はい……この子が全部食べてしまって……」
「……明日からは、倍、作ってこい。一つはこの獣用。もう一つは……私の分だ」
鼻先を指で軽く弾くと、シュガーを抱えたまま足早に東屋を去っていった。
ルシエルは弾かれた鼻先を抑えながら、呆然と立ち尽くした。
「……わがまま、どころじゃないですよ」
つぶやいた声は春の風に溶けて消えた。
だが、弾かれた場所に残る熱と、去り際に残していったどこか誇らしげな甘い余韻。
それがいつまでも胸を熱く焦がし続けていた。




