第2話「孤独な騎士団長と甘い誘惑」
深夜の厨房の片隅。
静寂の中に、泡立て器がボウルを叩くリズムだけが響いている。
ルシエルは薄暗いランプの明かりの下で、生地の硬さを慎重に見極めていた。
専属給仕になってから三日が経過した。
あの日、アシュレイが口にした「味がする」という言葉。
それが何を意味するのか、痛いほど理解できた。
『閣下は、ずっと無味の世界にいたんだ』
魔力を酷使する高位騎士は、その代償として感覚に異常をきたすことがあるという。
アシュレイの場合は、それが味覚の喪失だった。
何を口にしても砂を噛むようで、ただ生存のために栄養を摂取するだけの苦行。
そんな彼の絶望を、自身の作った菓子が一時的にでも融かしたのだ。
ふるいにかけた小麦粉に、常温に戻した発酵バターを混ぜ込んでいく。
指先に伝わる生地の粘りと、立ち上がる芳醇な乳製品の香り。
全神経を集中させ、アシュレイの心の渇きを癒やすための配合を模索していた。
「もう少し、芯を温めるような熱が必要だ」
すり潰したナッツと、少量のスパイスを加える。
焼成が始まると、オーブンからは香ばしく、幸福を形にしたような匂いが漂い始めた。
焼き上がったのは、表面に繊細なアイシングを施した黄金色の焼き菓子。
それを丁寧に包み、朝の執務室へと向かった。
◆ ◆ ◆
「失礼いたします、閣下。お茶をお持ちしました」
扉を開けると、そこには既に山積みの書類と格闘するアシュレイの姿があった。
目の下に薄い隈を作り、ペンを走らせるその指先はどこか痛々しい。
近づくと、アシュレイは顔を上げず鼻を小さく動かした。
「……また、あの匂いか」
「今朝は、ナッツ入りのサブレを焼いてまいりました」
「……置いておけ」
そっけない返事。
だが、その声のトーンは初対面の時のような鋭い棘が取れている。
手際よく紅茶を淹れ、サブレを添えて脇に置いた。
アシュレイは視線を書類に留めたまま、無造作にサブレを手に取る。
一口、噛みしめる。
「…………」
アシュレイの動きが止まる。
ゆっくりとペンを置き、サブレの断面をじっと見つめた。
「……お前、この菓子に何を混ぜた」
「特別なものは何も。ただ、閣下の冷えた指先が温まればと、祈りを込めただけです」
静かに告げると、アシュレイは不意に顔を上げ、こちらの瞳を真っ直ぐに見つめた。
蒼氷色の瞳に動揺が走っている。
「……馬鹿げている。食べ物に祈りなど、何の影響もあるはずがない」
言いながらも、アシュレイは二枚目のサブレを口に運んだ。
彼の周囲を漂う味が、少しずつ解けていく。
凍りついた湖の表面に春の雨が降り注いだような、微かな湿り気を帯びた安らぎ。
「閣下、顔色が少しよくなりました」
「……黙れ。余計な世話だ」
顔を背けたが、その耳たぶが僅かに赤らんでいるのを見逃さなかった。
冷酷無比な騎士団長の意外な一面。
それを知っているのが自分一人だけだという事実に、胸が小さく高鳴る。
だが、同時に自戒した。
自分はただの使用人であり、彼は帝国を守る高貴な身。
この甘い時間は、一時的な仕事に過ぎない。
「お前、今日はもう下がっていい。……ただし、明日の朝も同じものを用意しろ」
「かしこまりました。……あ、もう一つ、よろしいでしょうか」
持参した別の包みを取り出した。
「これは、崩れた端切れです。もしお口に合えば……」
「いらん。自分で食べろ」
「そうですか。では、庭の小鳥にでも……」
「待て」
アシュレイが急に声を荒らげ、手から包みを奪い取った。
「……小鳥などにやるのは無駄だ。私が、処分してやる」
そう言って、奪った包みを乱暴に引き出しに放り込んだ。
その動作の端々に滲む、子供のような独占欲。
ルシエルは思わず、くすりと笑みをこぼしてしまった。
「……何が可笑しい」
「いえ。閣下は、案外わがままな方なのだと思いまして」
「…………!」
アシュレイは絶句し、それから顔を真っ赤にしてルシエルを部屋から追い出した。
閉ざされた扉の向こうで、ドサリと椅子に座り直す音が聞こえる。
廊下に出て、指先に残るサブレのバターの甘い香りをそっと嗅いだ。
それは、アシュレイの孤独な心に触れた証のような、切なくて温かい残り香だった。




