第1話「硝子の心と銀のトレイ」
登場人物紹介
◇ルシエル
本作の主人公。
没落した名門貴族の息子。
銀色の髪にアメジストのような瞳を持つ。
控えめで真面目な性格だが、芯は強い。
生まれつき食べた物や人の感情に付随する味を感じ取る能力があり、それをお菓子作りに応用する天才的な技術を持つ。
現在は身分を隠し、宮廷の給仕係として働いている。
◇アシュレイ
帝国の剣と称される若き騎士団長。
黒髪に冷徹なまでの蒼氷色の瞳を持つ。
戦場での魔力酷使が原因で、あらゆる食事が砂のように感じられる呪いにかかっている。
常に無表情で何を考えているか分からず恐れられているが、ルシエルの作る菓子にだけは執着を見せる。
実は極度の独占欲を秘めている。
◇シュガー
ルシエルの菓子の魔力に引き寄せられて現れた、真っ白でふわふわした毛並みを持つ精霊獣。
見た目は大きな子犬のようだが、非常に高い知性を持ち、ルシエルとアシュレイの仲を取り持つような動きを見せる。
甘い物には目がない。
銀磨きの布が、鈍い音を立ててトレイを滑る。
指先に伝わる金属の冷たさは、かつてルシエルがまとっていた絹の滑らかさとは対極にあるものだ。
磨き上げられた銀器の表面が、青白い己の顔を歪めて映し出している。
王宮の厨房は、常に騒がしい。
沸き立つ鍋から立ち上る蒸気と、荒々しく肉を叩き潰す音。
そして使用人たちが交わす、焦燥に満ちたささやき声。
ルシエルは静かに、その空気に溶け込む味を感じ取っていた。
今日の厨房は、ひどく酸っぱい。
見えない不安が腐りかけの果実のような刺激臭を放ち、鼻の奥を執拗に突いてくる。
彼の舌は物理的な食べ物だけでなく、人の感情が放つ微細な魔力の揺らぎさえも捉えてしまうのだ。
それは祝福などではなく、彼を縛り付ける呪いであった。
「ルシエル、手を休めるな」
厳しい声とともに、背中に鋭い痛みが走る。
年配の給仕長が、木製の指示棒で彼の肩を打ち据えたのだ。
「……申し訳ありません」
深く頭を下げ、ルシエルは再び銀器へと視線を落とした。
没落貴族の生き残り。
その肩書きは、ここでは格好の標的でしかない。
泥をすするようなこの二年間、彼は自らの感情を殺し、ただの透明な存在として息を潜める術を身につけていた。
「お前に新しい仕事だ。今日から、騎士団長閣下の専属給仕に加わってもらう」
その言葉が落ちた瞬間、厨房の空気が凍りついた。
騎士団長アシュレイ。
戦場では一騎当千の英雄と称えられながら、その冷酷な振る舞いから氷の処刑人と恐れられる男だ。
彼に仕えた給仕は、一週間と持たずに精神をすり減らして去っていくという。
「閣下は非常に潔癖でいらっしゃる。お前のような、元貴族の無駄に丁寧な所作だけは、辛うじて目に留まったようだ」
給仕長の言葉には、死地へ向かう者への同情など微塵もない。
ただ、厄介払いができたという安堵の苦みが、吐息に混じっている。
「謹んで、お受けいたします」
ルシエルは静かに答えた。
拒む権利など、最初から与えられていない。
◆ ◆ ◆
騎士団長室へと続く長い回廊は、静寂に支配されていた。
重厚な石造りの壁からは、冷ややかな湿気がにじみ出ている。
ルシエルは銀のトレイに載せた茶器が音を立てぬよう、細心の注意を払って歩を進めた。
扉の前に立つ二人の衛兵が、憐れむような視線を投げかけてくる。
ルシエルは小さく呼吸を整え、重い黒檀の扉をノックした。
「入れ」
地を這うような低い声。
鋭利な刃物が空気を切り裂くような、硬質な響きだった。
一歩踏み入れた瞬間、全身の産毛が逆立つ。
部屋の空気は、これまで経験したことがないほど乾ききっていた。
広大な砂漠の真ん中で喉を焼かれるような、圧倒的な渇き。
そして、その中心で執務机に向かう男から放たれているのは、鉄錆と冷えた灰の味だった。
「新しい給仕か」
アシュレイは書類から目を上げることなく、冷たく言い放った。
黒い軍服に身を包んだその姿は、彫刻のように整っていながら、生き物としての温もりを一切感じさせない。
蒼氷色の瞳が、不意にルシエルを射抜いた。
「……っ」
心臓が跳ねる。
服の上から内臓まで解剖されているかのような錯覚を覚えた。
「ルシエルと申します。本日より、閣下のお世話をさせていただきます」
震える声を抑え込み、ルシエルは完璧な角度で一礼した。
アシュレイは返事もせず、机の上の紅茶に手を伸ばした。
一口すすり、すぐにカップをソーサーに戻す。
硬い陶器の音が、静かな部屋に不吉な余韻を残した。
「……お前、甘い匂いがするな」
背もたれに体重を預けながら、アシュレイが低くつぶやいた。
「……はい?」
「香水か。不快だ。次からは落としてこい」
「いいえ、香水などは使用しておりませんが……」
「口答えをするな」
威圧的な言葉が、物理的な重圧となって肩にのしかかる。
だが、ルシエルの瞳は別のものを捉えていた。
アシュレイの瞳の奥に張り付く、底なしの絶望と飢え。
舌が感じ取った彼の感情の味は、ただの冷たさではない。
どれだけ水を飲んでも癒えない、焼けつくような孤独の苦みだった。
『この人、死にそうな味がする』
反射的に、自身の懐に忍ばせていた小さな包みを思い出す。
余った材料で密かに作った、試作の砂糖菓子だ。
無機質な声とは裏腹に、彼の周囲に漂う魔力の味は、救いを求めて泣き叫んでいるように感じられた。
「……閣下、もしよろしければ、こちらの菓子を」
無礼を承知で、ルシエルはトレイの端に包みを置いた。
死を覚悟した行動だった。
アシュレイの眉間に、深いしわが寄る。
「毒見もしていない物を、私に食えと言うのか」
「私が今、ここで一口食べます。それでお信じいただけますか」
包みを開け、真っ白な粉糖がまぶされた小さなクッキーを口にした。
サクリとした軽い食感。
口の中でほどける優しい蜂蜜の甘みと、微かなレモンの香り。
他者の痛みを和らげたいという願いを込めた味だった。
アシュレイは不審げな表情のまま、細長い指で菓子をつまみ上げた。
「……ふん、下らぬ」
吐き捨てるように言い、それを口に放り込む。
そしゃくした瞬間、アシュレイの動きが完全に止まった。
蒼氷色の瞳が大きく見開かれ、細い喉がかすかに震える。
「…………」
沈黙。
自身の心臓の鼓動だけが、耳の奥でうるさく鳴り響く。
やがて、アシュレイは掠れた声でつぶやいた。
「……味が、する」
その声に滲んでいたのは、怒りではなく、震えるほどの驚愕だった。
アシュレイは己の掌を見つめ、再びルシエルへと視線を向ける。
「お前、名はと言ったか」
「……ルシエル、でございます」
「ルシエルか。……悪くない」
アシュレイの言葉に、ルシエルの視界がふわりと揺れた。
冷たい灰の味が、ほんの一瞬だけ春の陽だまりのような微かな甘みへと変化したのを、舌は絶対に見逃さなかった。




