第10話「反撃の火蓋」
石造りの廊下に鋭い軍靴の音が反響する。
ルシエルは半歩後ろを静かな足取りで付いていった。
指先の包帯がかすかに衣服の擦れる音を立てる。
アシュレイの背中は昨日までの痛々しさが嘘のように、鋼のような強靭さを取り戻していた。
だが、その周囲を漂う空気の味は極限まで張り詰めている。
それは嵐の直前の、湿り気を帯びた電気のような痺れる味だった。
向かっているのは王宮の深部、最高審議会が執り行われる真実の門だ。
重厚な扉が開くと、円卓を囲む高官たちと中心で尊大に踏ん反り返る内務大臣の姿があった。
部屋に入った瞬間、喉に焼けつくような脂の腐敗臭が襲いかかる。
大臣から放たれるのは自身の罪を塗り潰そうとする、どす黒い欲望の味だ。
「これは、騎士団長閣下。昨夜の騒ぎは、ただの体調不良だったと伺っておりますが……」
薄ら笑いを浮かべて口を開いた。
声は滑らかだが、錆びた鎖が擦れるような不快な響きとして届く。
アシュレイは視線を真っ向から受け止め、冷徹な笑みを浮かべた。
「ああ、おかげさまでな。……ただ、私の給仕が、昨夜のスープにおかしな隠し味が含まれていたと報告してくれてな」
円卓の空気が一気に凍りついた。
大臣の眉がわずかに跳ねる。
「ほう……。その給仕とは、そこの小僧のことか? 没落貴族の残党が言うことを、本気にされるとは」
「小僧、か。……ルシエル。お前の感じた味を、皆に教えてやれ」
肩にそっと手を置かれた。
伝わる熱が不安を溶かしていく。
一歩前へ踏み出し、大臣の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「昨夜のスープには、魔力を霧散させ、内臓を内側から焼き切る銀の腐敗の毒が含まれていました。……そして、その毒の出どころは、大臣の執務室にある隠し金庫の奥、古い香油の瓶の中にあります」
「な……っ!? 出鱈目を言うな! 証拠もなしに……!」
机を叩いて立ち上がった。
その拍子に、放たれる味が腐敗した生肉の刺激臭へと変わる。
恐怖と焦燥が彼を内側から食い破っているのが分かった。
「証拠なら、既に騎士団が押さえている。……お前が毒を調達したルート、そして王宮料理人に支払った金貨の動きも、すべてな」
束ねた書類を円卓の中央に叩きつけた。
バサリという音が審判の鐘のように重く響く。
大臣の顔から一気に血の気が引いていった。
青白い顔を痙攣させ、助けを求めるように周囲を見渡すが、皆が蜘蛛の子を散らすように視線を逸らした。
「……くそっ! こんな小僧の戯言で、私が……!」
「戯言ではない。……ルシエルの味覚は、帝国のどの魔道具よりも正確だ。……連れて行け」
冷徹な命令とともに、控えていた騎士たちが一斉になだれ込んできた。
悲鳴を上げながら連行されていく。
残ったのは勝利の余韻というよりも、長く重い呪縛から解き放たれたような静かな安堵の味だった。
◆ ◆ ◆
審議会を終え、夕陽に染まる回廊を歩いていた。
オレンジ色の光が石畳に二人の長い影を落としている。
「……怖かったか?」
不意に顔を覗き込まれた。
「……少しだけ。でも、アシュレイ様が側にいてくださったので」
「……お前を危険にさらした。そのことについては、謝っても謝りきれない」
誰もいない回廊の隅で立ち止まり、両手を包み込まれる。
包帯越しに伝わる微かな震え。
それは大切なものを失うことを極限まで恐れる、一人の男の震えだった。
「……ルシエル。事件は解決したが、王宮内にはまだ、大臣の息のかかった者たちが残っている可能性がある。……お前の安全を、ここでは保証しきれない」
「……それは、どういう意味ですか?」
胸に冷たい予感の苦みが走った。
アシュレイは苦渋に満ちた表情で視線を逸らした。
「……一度、この城を出ろ。私の別邸に、信頼できる護衛を付けて送る。……ほとぼりが冷めるまで、そこで休むんだ」
「嫌です……! 私は、お傍にいたいと言ったはずです!」
「……わがままを言うな! お前に、またあんな痛い思いをさせたくないんだ!」
怒鳴り声が回廊に虚しく響いた。
想うがゆえの拒絶。
蒼氷色の瞳の中に、深い慈しみとそれを上回るほどの恐怖を見た。
『……この人、私のために、自分を殺そうとしている』
舌が捉えたのは、心が流すしょっぱい涙の味。
目に見えない巨大な壁が、音を立てて聳え立ったような気がした。




