塗るな!
「……ねえ、レモネ」
旅の途中、街道沿いの町にある宿屋にて。
クロワが真剣な顔でテーブルを囲んでいた。
「魔王城の図書室で読んだ古い文献によると……」
「うん」
「ジャムなどの塗る系のものを塗られたブレッド様は、暴食の魔獣化して周囲のあらゆるものを食らい尽くすそうです」
「……」
レモネとクロワの視線が、テーブルの上でぽつんと佇む俺に注がれた。
「でも、それって……」
レモネがごくりと唾を飲み込む。
「もし本当にヤバい敵が出たとき、最終兵器として使えるってこと?」
やめろ。
絶対にやめろ。
俺はテーブルの上で必死に浮遊し、体を左右に激しく振った。
『意思』スキルを獲得した俺の、命がけの拒絶表現だ。
「ダメですよ、レモネ!」
クロワが慌てて手を振る。
「理性を失うんですよ!? 一度解き放ったら、私たちまで食べられちゃいます!」
「そ、そうよね……冗談よ」
レモネが苦笑いする。
冗談に聞こえないんだよ。
そのときだった。
――ズドォォォンッ!
激しい衝撃とともに、宿屋の天井が吹き飛んだ。
「きゃああっ!?」
悲鳴と悲鳴が交差する。
煙の向こうから姿を現したのは、全身が黒い鋼鉄で覆われた巨大な鎧の魔物――魔王軍の刺客『鋼鉄の処刑人』だった。
「見つけたぞ、予言のパン……そして勇者」
「くっ……魔物!」
レモネが瞬時に剣を抜き、クロワが杖を構える。
俺も宙に浮き上がり、威嚇の態勢をとった。
「ハハハ! 無駄だ!」
鋼鉄の魔物が巨腕を振り下ろす。
――ガギィィンッ!
レモネが剣で受け止めるが、相手の圧倒的な質量に押し込まれる。
「重っ……!? 刃が通らない!」
クロワの魔法攻撃も、魔物の硬い装甲に弾かれてしまう。
レベル5の俺の攻撃『飛翔』で突進してみるが――
――ドゴッ!
「グッ……!?」
まるで巨大な金床に激突したような衝撃。
俺の体が弾き飛ばされ、壁に激突した。
固い。固すぎる。
『硬化』を使った俺の体をもってしても、傷一つつけられない。
「ハーッハッハ! 貴様らの攻撃など蚊ほども効かん!」
魔物がじわじわと詰め寄ってくる。
レモネとクロワは息を乱し、完全に追い詰められていた。
このままでは全滅する。
どうする……俺に何ができる!?
そのとき、倒壊した宿屋の厨房から、何かが転がり出てきた。
――コロン。
壺だ。
衝撃で割れた壺から、とろりとした黄色い液体が溢れ出している。
濃厚な香ばしい匂い。
そう。
【バター】だ。
「あっ……」
レモネがそれを見た。
クロワもそれを見た。
そして、二人同時に俺を見た。
俺は青ざめた。パンだから顔色なんて変わらないはずだが、魂が真っ青になった。
「ブレッド……」
レモネが震える手でバターの壺に手を伸ばす。
「や、やめてレモネ! 世界が終わっちゃう!」
クロワが叫ぶ。
「でも、このままじゃ私たち、殺されちゃうよ!」
「ダメです! 暴食の魔獣になっちゃったら、ブレッド様じゃなくなっちゃいます!」
「頼むから二人とも落ち着いてくれ!!」
俺は心の中で必死に叫びながら、宙で狂ったように上下運動をした。
魔物が怪訝そうに俺たちを見下ろす。
「何をゴチャゴチャと……死ねぇ!」
巨腕がレモネ目かけて振り下ろされる。
万事休すか――!
「ブレッド、ごめん!!」
レモネが背に腹は代えられないとばかりに、指にバターをすくい取り、俺に向かって跳んだ。
「やめろおおおおおお!」(声には出ない)
俺は全力で宙を逃げ回る。
レモネがバターのついた指を突き出しながら追いかけてくる。
敵から逃げるんじゃない。仲間が塗ろうとしてくるバターから逃げるのだ。
「待ちなさいブレッド! 塗らせて!」
「絶対に嫌だ!」
宙を飛び回る俺。追いかける勇者。悲鳴を上げる魔術師。そして、取り残される魔物。
「な……なんなんだお前たちはーっ!?」
魔物が痺れを切らし、空中を飛び回る俺に向かって腕を振り抜いた。
バシッ!
「ぶへッ!?」
魔物の拳が、逃走中だった俺の体にヒットする。
俺は弾丸のように弾き飛ばされた。
飛んで行った先は――
床に落ちていた、バターの溜まり場。
――べちゃっ。
静寂が訪れた。
俺の香ばしい生地の上に、黄色く濃厚なバターがたっぷりと付着する。
「あ……」
レモネが固まった。
「あわわわわ……!」
クロワが頭を抱えて座り込んだ。
魔物だけが「ハッ、自滅したか」と鼻で笑っている。
熱い。
体に塗られたバターが、俺の体温でじわじわと溶けて染み込んでいく。
頭の中で、今まで聞いたこともない重低音のシステムアナウンスが響き渡った。
《警告:『スプレッド系物質』の付着を確認》
《制限解除――『暴食の魔獣』モードへ移行します》
《理性の維持率:0%》
(やばい……意識が……飛ぶ……!)
俺の全身から、禍々しい漆黒と黄金のオーラが立ち上る。
ふっくらしていた丸いパンのシルエットが、ぬらぬらとした光沢を放ち、圧倒的なプレッシャーを撒き散らし始めた。
「グルルルル……」
俺の体から、パンとは思えない地響きのような唸り声が漏れ出す。
「ひっ……!」
クロワがレモネの背中に隠れる。
レモネは剣を構え直すが、その手は恐怖で激しく震えていた。
「ブレッド……なの……?」
暴食の化身と化した俺は、ゆっくりと宙に浮かび上がると、赤く光る目(のような概念)で、目の前の【獲物】を見つめた。
次回、世界崩壊(?)のカウントダウン。




