(新)第8話 射抜いた視線と、射抜かれた視線~第一節~
人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼らを判断するのに決して急がないことだ。
四月二十一日(木)
校舎裏。その静かな空間で、これから始まろうとしているのは、間違いなく私にとっては理解困難であろう問答。
その時間は約三十分。その間に理解するのは難しいだろうが、これから毎日の会話の中で、少しでも理解を深めてやる。
「クオリアとは、どういうものなんだ? 人間にも分かっていない精神的な作用なのか? それについて、私はまだ知らない」
「いいだろう、理解できるまで教える。別に乾賢太朗の脳味噌でなくとも、これはけっこう、ややこしい話なんだ」
大丈夫。昼飯を食べたばかりではあるが、胃袋の消化活動は、まだ始まったばかりだ。思考を阻害されるほどではない。
「では説明する。結論から言おう、クオリアとは人間があるものに向かって、その力を働かせようとしているところの、意志の源泉たるもの。今の世界にある語彙でいえば、もっとも近いのは霊魂だ」
大丈夫、まだ理解できる。なにしろこの乾賢太朗という男、エクセルで表を作るときに外側からそれをやり始めてしまうタイプである。内側から作り始める手順を書き出すだけでも、十分以上はかかる。
「人間が大なり小なり、何かを為そうとするにあたって、その心的過程を機械に擬えて説明する。まずは大海に浮かぶ船を想像して欲しい。これは現代の船とは違う。超高性能な、まあ何でもいいよ? 円盤みたいな未来的な船を想定してほしい。これはプログラムによって航海を続けている」
イメージを反芻した。大丈夫だ、まだなんとかなる。
「海は穏やかな時もあれば、嵐のときもある。海賊が襲ってくるかもしれない。その船は様々な情報を感知して、理解し、その判断を行っていく」
……あやしいところもあるが、まだ問題ない。
「プログラムだから、そこに霊魂は存在しない。だが人間のように、それが存在するものとみなせば、どのように動くのだろうか?」
私は考え込もうとしたが、パッと閃いて、すぐに返答したのだった。
「プログラムならば、あらかじめ決められた通りに動くよな。でも、人間はそうじゃない。意志というものがある。しっかり考えて判断しても、厳密に、そう動いているわけじゃない。いや、そうすると決めていても、勝手に別のことをしたがる時すらある。それに行動だけじゃない。思考そのものについても、それがいえる」
タキはうんうん、と頷いて続けるのだった。いま、タキの姿は透明になっているから見えないのだが、なんだかそんな気がした。
「そうだ。いまの場合、プログラムはその霊魂、ここでは意志と言い換えようか。それを作ったプログラマーとプログラムは、少なくとも論理的には、その意志を等しくしている。そのプログラム自体が勝手に進化することはないし、その内部機構での結論と、実行された結果との間で歪みは生じない。もし仮に、そのプログラムの正体が、電極で繋がれたプログラマーの脳みそだとすれば、時々は気まぐれな行動を起こすのだろうな」
分からない。何が言いたいんだ? 今はとにかく、話を聞こう。
「この船の例を、人間の一般的な行動様式に当てはめてみよう。まず大海というのは、人間にとってのあらゆる環境条件の例えだな。これは外部から勝手にやってくる変数だ。次にプログラム。これはすなわち、素質とか、他には潜在能力とか呼ばれるものだ。ここでは外部からやってきた情報に対し、それを受け止め、処理する機構を指している。それが物理的な情報でも、精神的な情報でも、外部要素という意味では同じだ。痛かったり、熱かったり、心が躍ったり。結局はそういう認識へと、化学物質の反応において処理されていくわけだから。そして人間の有する感性、悟性、理性が、その外部要素を処理するための、大元の力となっているのだ。つまり、いま挙げた脳の三つの主要機能が、素質の核みたいなものだ。これは人それぞれに、先天的に定まっている定数だといえる。ああ、誤解のないように言っておくが、運動能力やコミュニケーション能力、リーダーシップなどについても、知能に分類されるからな。これは二〇一一年時点での教育学や脳科学でも明らかになっている」
「ぜんぜん、意味が分からないんだが……」
私は、そう心で呟いたつもりだったが、それは声にも出ていた。タキにも聞こえているはずだ。
「しょうがないだろう、もともと難しいんだから。できれば文書で渡したいが、それはできない決まりなんだ。もう少しで終わるから、もうちょっとの辛抱だ。それでは、最後に航海という行為を挙げよう。これはもう分かるだろう、すなわち努力というやつだ。どんなに良い環境、素質を有していようと、これがゼロならば結果もまたゼロだ。お前たち人間は、能力を鍛えるべく生活しているはずだ」
今のは、なんとなく分かったぞ。
「この努力を行うための大元が、霊魂という存在だ。別に意志でも、神霊でも、呼び方はなんでもいい。これは日々の繰り返しによってのみ変化する。すなわち、合目的なものから、生きるための日課となっている活動まで、ありとあらゆる意味での努力に擬えることができる。怠惰な人間というのは、どこまでもそうなっていくし、勤勉な人間もまた然りだ。そして、この霊魂そのものを人間が認識している、まさにそれ。それをクオリアというのだ」
「つまり、思考や行動なんかの意志の作用は、霊魂というものが基本になっているんだな? 理性とか色々な脳機能は、霊魂が働いていくための機械的な存在に過ぎないんだな?」
タキは、その姿を急に現した。私に近づいてくる。ここからは特に重要な話に違いない。腕組みをしながら、私と視線を合わせようとする。それをさっと避けて私は、話の続きを聴く姿勢に入った。
「つれないな。相手の目を見て話すのは社会人の基本というやつではないのか?」
「勘弁してくれ。今の私は小児偏愛者なんだぞ」
「なぜ、ダメなんだ? 我慢もできないのか?」
私は恥ずかしい気分になった。その感情を認めたいという思いもあるが、私(元)のクオリアというやつは、それを拒んでいるようだった。
「タキ。その……欲情するんだ。身体が勝手に。だから、やめてほしい」
タキは呆れ顔をしているだろうと思っていたが、意外にも笑っているような表情だった。右手の甲の面、爪先を使い、その側頭部を何度も繰り返すように掻いている。まるで犬みたいだな。
「ふふ、分かったよ。控えてやる、出来るだけな。それはさておき、答えについてだが」
ぐっと、上半身に力が篭る。
「その通りだ。脳味噌というのは超高性能機械だからな、物質世界において霊魂が働いていくための機構に過ぎない。感性も、悟性も、理性さえも、その機械を通して現世に映し出された認識に過ぎないんだよ。実際に働いているのは、あくまで霊魂だ」
うーん……。とにかく霊魂が大事ということは分かった。私はタキに「待て」を申し込んでから、じっと考える。効果的な質問をするためだ。まあ、私の理解が追いつかないという事態は想定していたからな。
あっという間に時間は過ぎる。ちょっと考えこんでいたら、もう一五分が経過していた。残り時間も少ない、いま考えた質問を早くぶつけようと思った。
「これまでの話からすると、元の私の霊魂が乾賢太朗に入ってるんだよな? すると、これからはずっと、このままで過ごしていくことになるのか? 私の霊魂というのは、つまり……これまでと同様に、成長していくのか?」
タキは少なくとも一分は考え込んでから、その口を開いた。残り時間はすでに五分を切っている。
「いい質問だ。では、このように隠喩しよう。霊魂は液体なり固体なり、何らかの物体ということにする。人生経験を得る度に、それは素質という器にストックされていく。その体積は、どんどん大きくなっていくわけだ。その器は始めこそ空っぽだが、生を重ねるにつれて段々とその中味が詰まっていく。まあ、あれだ。若い頃にしょうもない経験ばかりしていると、大人になってからは、そのゴミが詰まった器で生きていかないといけない。他に大事なものがあっても、入らなくなっていくわけだ」
「おい待て、残り時間があやしいんだが……」
「今現在の賢は、元の自分とは異なる環境に居る。それに他人の内部機構、すなわち素質の器で生きている。つまり、これまでお前が積み重ねてきた人生とは異なる霊魂が、綺麗なものも、汚いものも。どんどん器に溜まっていくというわけだ」
ややこしい言い方だな、と思った。と同時に唾を飲んだ。嫌な予感が的中しないで欲しいと願う。
「元のお前が、その器に溜めてきたものは少しずつ薄まっていく。本当に大切なものは残るだろうが、最後には元の自分でもない、かといって乾賢太朗でもない人間が完成するというわけだ。つまり、賢。残念だが記憶をすべて思い返しても、元の自分に戻るわけではないんだ。それを取り戻すには、早く感涙するしかないんだよ」
頭が真っ白になった、冷たい感じがする。墓の中って、こんな感じなんだろうか。うっすら描いていた望みを絶たれた瞬間だった。
全ての記憶を思い出せば、身体だけが異なる私(元)が完成すると思い込んでいた。字際には、人格とかいうものまで含めて、乾賢太朗と融合することになるのだ。
刹那、タキが消えた。時間切れである。また同時に、それは午後を告げる予鈴が鳴り始める瞬間でもあった。
毎週、金曜日から更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




