(新)第8話 射抜いた視線と、射抜かれた視線~第二節~
今日の授業はあっという間だった。考えごとをしていると、すぐに時間は過ぎる。放課後、私は教材を作るために少しだけ残業していた。教師というのは、基本となる給与の中に見込み残業代が入っているので、定時に帰るというのは、けっこう抵抗があったりする。
それとは別の悩みもある。今朝のことで気になったので、その話をまたしようと思い、九里村先生の方を向こうとした。
「「九里……」」
声がかぶる。橘田先生も、九里村に話があるようだった。
「すいません、橘田先生、お先にどうぞ」
「あら、別に遠慮しなくてもいいのよ。歳、一緒じゃない。今年二十八でしょ?」
「え、でも橘田先生、教師暦六年目じゃ……」
最後に口を開いたのは九里村だった。
端的に言うと、私は大学を留年しているので、教師暦は現役に比べれば一年遅い。ちなみに留年の理由は、まだ社会人になりたくなかったからである。家に余裕があるのは分かっているので、大学でもう一年モラトリアムを満喫しようとした。
九里村は、ようやく事情を察したようで、申し訳なさそうに縮こまる。ふと、その肩甲骨の辺りに橘田先生が手を置いた、正対はしていない。九里村の背後から声を発する。
「今朝はごめんね、気が立ってて。色々と嫌なことがあってね」
有給の理由は、婚活パーティで間違いなさそうだ。多分、カップル不成立的なことがあったのだろう。イライラする理由もわかる。
「いいんです、橘田先生。乾先生が親しみやすいからって、わたしが甘えていたんです」
橘田先生も、九里村も、互いに正対していない。回転椅子に腰掛ける九里村と、その後ろに立つ橘田先生の図である。
女性同士のことは分からないが、きっと、これでも大丈夫なのだろうと思った。それから二人は、二言三言、冗談めいた会話を交わし、やがて橘田は自分の席へと帰っていった。
尖った点がけっこうある橘田先生なのだが、やはり社会人としては適性をもっている、と私は感心していた。目下の人間に自分から謝りにいくというのは、人によっては相当に難しいものがある。
それから約三十分。残業も終わった、職員室には他の教師もまばらである。机上を整頓し終えた私は、大きく伸びをする。その目線は、自分の鞄にある。
そろそろ帰るか。踵を返すようにステップを踏んで、椅子を机に入れながらの方向転換。
「乾先生?」
九里村だった。
「はい、今日は何か御用でも?」
九里村の表情は一瞬で歪んだ。
「ばか。もうしらない……乾先生のばか……」
そのまま泣き出してしまった。あれ、何か悪いこと言ったかな。
「……」
私は思い出した。今朝、夕ご飯に九里村先生を誘ったのだった。
まずい! 誰かに見られるのも時間の問題だ。
九里村の手を引く。同時に、ハンカチを強引に手渡す。職員室の扉を乱暴に開けようとした。
ガーー、……ガッ! ガッ!
動かない。仕方なく、最低限の隙間に身体を捩じ込んで、ようやく脱出できた。廊下は無人。教職員用下駄箱まで数メートルだ。
ささっと玄関を抜け、そこからダッシュで校門付近まで駆け抜けた。そこには九里村先生の自動車が止めてある。女性が好きそうなデザインの車……とかではなく、カムリというオッサン向けの車である。私(元)の記憶によれば、二十年くらい前は、クラウンの次に高級な自動車だったらしい。
「九里村先生、店は決めてあるんです。私、自動車を使えないんですよ。乗せていってくれませんか?」
店が決めてあるというのは嘘だった。あとは自動車を使えない、というのも嘘。メゾン滝口の、すぐ近くにある実家から借りることができる。ついでに、乗せていって欲しいと言ったのも嘘である。私が紹介できるであろう店は、すべて鴨町内の近辺にある。自転車で十分だ。
「うそつき、何も考えてなかったんでしょ? 乾先生は!」
「そんな……ことないです……」
困り顔に、目線は斜め下。さながら私は、飼い主に、その悪事を咎められようとする犬のようであった。
「もういい。乾先生となんか、もう話したくないです!」
どうしよう。今度こそ本当に困ったぞ。これで今日の打ち止めだ、とばかりに頭をフル回転させる。時間はない、今はそれが秒単位で大切なんだ!
九里村は、また職員室に戻ろうとしていた。九里村の鞄はここにある。ということは、まだ何か持って帰るものがあるのだろう。そういえば、スポーツバッグらしきものを、今は持ってないな。
おもむろに、彼女の進路を塞ごうとする。九里村はそれを避けようとして、私の右側を通り抜けた。このまま通すまいと、左手首を掴む。九里村の身体を、カムリの車体に押し付けるように追いやった。
「やっと、仲直りしたんだろ?」
九里村の視線は、足元のコンクリートにある。
「俺が一緒に行きたいから、言ってるんだよ……」
九里村は、恐る恐るといった様子で、私の表情に目線を送る。
「忘れてたとか、そんなんじゃないんだよ。九里村先生が俺を信じないのが残念だ。そんな同僚なら要らないよな。今後は話さなくっていいよ」
私の視線に突き刺された九里村の、頬の辺りのひずみが気になった。彼女が口に出して言った内容と、その本音が異なることを示唆しているのだ、と信じたい。
「もういいよ。こんなことも信じてくれないなら、初めから仲間じゃなかったんだ。これまでだな、じゃあさよなら」
言うや否や、私はさっと身を翻し、歩き始める。余裕などない。私には目一杯の演技だった。
なにせ今の演技は、私のクオリアが強烈にそれを行うよう訴えてきた結果だ。いや、違う。特別な症状は何もない。切羽詰まった私が、自分でそれを選んだのである。具体的な方法についての記憶は曖昧だったが、危機が迫った人間ならば大抵のことはできるものだ。
こんなやり方を選んだ私は、なんて卑しい人間なのだろう。もう本当に、私という人間を見捨てて欲しかった。
「……ぃませんでした」
えっ? と心の中で呟く。
「すぃま……えん……でしたっ……うぅっ」
えぇ? 普通は切れるんじゃないか? 理不尽なのは私の方だろう。みっともなく怒鳴ってしまったのだから。もし誰かに見られていたら、非常にまずいことになる。
辺りを見渡していると、九里村が何かを喋ろうとしている。あわてて、そちらの方に視線を移す。
「本当は、分かってるんです。わたし、わがままな人間なんだって。水曜日だって勝手に誘って、断られたら、また勝手に怒って……」
この光景を見られてしまうのは良くない。また私は、九里村の手を引っ張り、校舎裏へと連れ込むために歩き出す。これは、リスクもリターンも高い行為だといえた。
というのも、校舎裏の貯水タンクは、確かに見つかりにくい場所である。だから生徒には告白場所として使われている。しかしながら、声を上げれば容易に発見される。なにしろ、壁を挟んで向こうは廊下なのだから。
見つかりにくくなるのはありがたい。が、もし誰かに発見されれば、性犯罪者として通報されても文句はいえない。私の風体はそれほどに怪しかった。なんかもう、とにかくオッサンなのである。風貌の方は、初日と比べれば、だいぶ引き締まってきた。背筋も伸ばしているし、何より表情の変化が大きい。
まともな社会人ならば、たとえ不細工であっても、話していて不快な感じを与えない。それは、人生の深みとも言うべき要素が、その顔の皺一本に至るまで表れているからである。
無事、校舎裏まで辿り着いた。貯水タンクの裏側。誰かに見つからないことを祈る。
「九里村先生。今回は私が悪いんですよ。九里村先生の誘いを断らなければ、こんなことにはならなかった」
誘いを断った理由は、なんとなくだった。九里村律子は、平均よりはずっと可愛い部類のルックスだと思うし、生徒からも人気がある。だが私は、はっきりいって、この女性に対しては反応しないのである。精神的にも、肉体的にも。
「乾先生がわたしの誘いを受けなきゃいけない理由なんてないです、でもわたし、勝手に期待して……水曜日は、わたしからご飯に誘う予定だったんです。必ずOKしてくれるって、期待してて……」
その期待は、一般的には正しい。恋人のいない成人男性ならば、その殆どがOKするに違いない。おそらく彼女は、大学でもけっこうモテたろう。
「分かりました、今回はつれない返事をした乾賢太朗も、期待が大きすぎた九里村律子も、両方悪かったんです。じゃあ、こうしましょう。明日です、明日行きましょう。本当は今日、予約してあったんですけど……延期します」
もちろん嘘だ。こんなときも私は、あざとく保身に走っている。ともかく、対応としてはこれでなんとかなるだ……。
「ふざけないでっ!!」
本当にびっくりした、とにかく怒るタイミングが読めない。
「乾先生は、わたしに興味もないのにっ!!」
まずい。運が悪ければ、もうすでに誰か聞いているだろう。
「男って、みんなそうよ。相手の心よりも、身体にばっかり興味を示して! それが叶いそうにないって分かれば、そうやってすぐ逃げる」
「いや、明日必ず……」
「それなのに男の人って、相手の望みを満たそうともせずに、ありのままの自分を見て欲しいって言って。そのくせ、セックスだけはしたがるんだから」
もう何がなんだか分からない。
「乾先生。わたしの身体には、興味あるんでしょ? いいですよ、今なら。わたしの心は認めてくれなくても、身体は認めてくれるんでしょ?」
お前は何を言ってるんだ?
九里村はわたしの眼を、ぐっと見つめてくる。自動的に上目遣いである。彼女は一六三センチメートルで、女性としては普通に高身長なのだが、私の身長だと大抵の女性はそうなってしまう。
九里村の方から見詰められるのは、珍しい。
気が付くと、彼女の唇の横あたりに水滴の粒を確かめることができた。九里村は何も言わない。代わりに、その両手を開いて私を受け入れるような体勢を取った。
「九里村先生。あなたは、いま何を期待してるんですか? さっきから私を煽るようなことばかり言って……」
九里村は何も言おうとしなかった。切なそうな表情で、おずおずと私を見上げるばかりの彼女。
やがて、おそるおそるといった調子で、その口を開いた。
「身体には……興味があるんでしょう? いいんですよ、どうせわたしなんか……乾先生だったら、別にいいですし……」
彼女の近くまで寄っていった。九里村は、その表情を緩ませてカタカタ震えながら、自分よりも頭一つ分は大きいであろう人間を見上げている。
その瞳を射抜くように視線を浴びせるとともに、私は、彼女の方へと顔を近付けようとする。それに合わせるように目の前の女は瞳を閉じる。
「九里村先生……」
パァンッ!! という小高い音が響いた。少しだけ、鈍い音が混じっていた気がする。
「目を覚ませ! 九里村律子っ!!」
平手打ちは九里村の左頬にクリーンヒットした。
彼女はしばらく何も言わなかったが、やがて私の顔を見上げると、すぐに切なそうな面持になり、そのまま自分の車へと歩き出す。
それからしばらくの間、私はそこで立ち尽くしていた。
(第8話、終)
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