(新)第9話 溶け合うクオリア~第一節~
他人を支配せんと欲する者は、まず自らの主人であらねばならぬ。
四月二十二日(金)
それから私は、まっすぐ家に帰った。九里村の行動の意味については、冷凍食品で弁当のおかず側を作り終えるまでには分かるだろうと思っていたが、それは甘い考えだった。実際には、風呂の中でも、夕飯の後でも、トイレの中でも、寝る前でも。そして早朝の通勤時においても、彼女の行動の意味は、ついぞ分からず終いだった。
気が付くと、学校に着いている。職員室の入り口付近から中の様子を伺う。九里村がいた。彼女は、いつも早めに来て自分のエリアを清掃している。
こういう行動は、客観的に評価が高い行為である。彼女のことだから、ポイントを稼ぎたいとか、そういう動機はないだろうと私は勝手に思っている。
「おはようございま~す……」
小さな声で私は挨拶をしつつ、職員室へと足を踏み入れようとした。時刻は朝七時五十五分だった。
今日も嫌な音がするであろう職員室のスライド扉を開けようとしたが、扉は開きっぱなしで動かない。どうやら修理が必要のようである。これは昨日、私が九里村を引っ張っていく際に、スライドの途中で引っかけてしまったものだ。どうやら、あれから誰もこれを直さなかったようだ。
私は、真新しいシューズの音を響かせながら、自分の席へと近づいていく。当然、その隣には九里村が座っている。
「九里村先生、おはようございます」
九里村は、いつもより元気がなさそうだったが、それでもこちらを向いて朝の挨拶を返してきた。
昨日あんなことがあったわけだが、それでも私は九里村との関係を絶ちたくなかった。数少ない味方というのもあるし、彼女に対しての特別な感情はないものの、昨日の異常な態度が個人的には心配だった。同僚として、出来ることなら何でもしてやりたいと思った。たとえ、それが話を聞くだけであったとしても。
机でノートパソコンを開いて私は、今日する予定の授業の指導案を確認していく。三限目は二-一だった。自分が担任のクラスとはいえ、毎日顔を合わせるのも嫌な連中がそこにはいる。気が滅入ってしまう。
実をいうと、クラスを落ち着かせる算段というのは、すでに出来上がっている。問題は、それをいつやるかだ。できれば佐野がもっともっと調子に乗って、クラス中の怒りの許容量が限界に達してからがふさわしいだろうと思っていた。だが、その限界というのが難しい。そのピークを完全に越えてしまうと、クラスには諦観が広がり切ってしまい、もう佐野のやりたい放題を止めることはできなくなる。
キーボード上に、ある書類を置いた。進路希望、というか生徒の現時点での志望校をまとめた表である。まだ中二ではあるが、進路調査というものは一応ある。志望校のレベルが分かれば、教師としても、生徒別の指導方法というのを取ることができる。また昔の学校とは違い、今はその到達度に合わせて授業時のクラスを別々に編成することもできるので、進路調査や家庭訪問といったイベントは重要なのである。
佐野のグループは、その全員が鴨中学校からそう遠くはない、ある高校を志望している。そこは偏差値でいうならば、中の上ぐらい。かといって、そこまで難しいわけでもなく、平均的な内申点の生徒ならば、真面目に定期テストの勉強をしていれば、近隣の中学校であることを前提に、ほぼ確実に入学が可能である。おそらく余裕ではないが、佐野達については、合格するだろうと思われる。
私は、ため息をついて九里村の方に視線を遣った。こちらも大変そうだが、今は二-一の方が難易度も優先順位も高い。このままでは、あのクラス全体の評価に影響するかもしれない。
内申点というのは、学年単位で総枠が決まっているのだ。ついつい、あの子は頑張ってるから……とかやってしまうと、問答無用で逮捕される。
佐野の影響なんて微々たるものかもしれないが、まともな学校の入試というのは、ボーダーライン付近に数十人が並ぶようにできている。入学試験というのは、一点を笑う者が一点に泣くようにできているのだ。
そんなことをまったりと考えながら、パソコンをつついていた。ああ、もう朝礼の時間だ。金曜日は、少し長目の朝礼が行われる。司会はいつも田奴がやっていたと思う。この大役を任されるのは大抵、若手の中で最もデキる教師である。
朝礼は淡々と進んでいく。いつもは教師間の出欠確認や連絡事項などをやって一瞬で終了する。ところで、金曜日はたいてい校長と教頭が出席する。というのも、体育祭などの特別行事の状況や、生徒に関する懸念事項といった重要事項が発表されるからである。また正式な人事の発表もこの場で行われる。二-一については、まだ朝礼の議題で取り上げられたことはないが、このままでは時間の問題だろう。
校長については、貫禄があるというよりは、落ち着きがあるといった表現の方が似合っている。細身の身体に、ほどほどの量の頭髪。白髪染めがよく似合う、くっきりとした顔立ちである。
対する教頭は、出世を目指しています! と常に宣言しているかのような脂切った肌の感触が、一〇数メートル離れても把握できるほどだった。教師としての腕はそこそこに、出世しそうな人を見抜く能力に長けているとかなんとか、橘田先生が宴会の席で零していたような気がする。
だが実際、出世している人というのは、少なくとも一点以上は大した能力といえるものを有しているのだ。事実、この私が教頭に勝てそうな要素といえば頭髪の量くらいしかない(十年後には互角となっているだろう)。
今日の朝礼では、特に重要な議題などはなかった。
「それでは、今日も頑張りましょう」
田奴が号令を掛けると、皆それぞれ担当のクラスへと散っていった。
時間はあっという間に過ぎる。二限目は三年生の授業だったのだが、皆これでもかというぐらい熱心に授業を受けていた。
というのも、ここは習熟度別クラスでは一番上のグループなのだ(建前上は、生徒が自己申告でクラスを選ぶという仕組みを採用している)。
どの高校を選択するかによって人生が変化するわけだから、そりゃあいい高校を目指している者ならば、当然二年生、いや一年生のうちからガンガン勉強していることだろう。
そうした性質を表すかのように、このクラスでは生徒から質問が飛んでくる。答えられないと相当に恥ずかしいので、このクラスに来る時は、いつもの倍くらい時間を掛けて用意したりする。
先日のグループワークについても、「入試で出るぞ!」と宣言してから、やらせてみたのだが、誰も彼もが餌に群がる鯉のように激論を交わし合っていた。
鴨中学校は岡山県ハッピーマウンテン市の北部に位置する市立中学である。一応は中核市というだけあって、県内でも名門と呼ばれる高校の数は三つある。さらに、ここ十年あたりでは、県境を挟んで西側の隣市に存在する国府高校というところが一番人気である。
どこもこんなクラスだったらなあ、と言われればイエスと答えたくもなるが、教えなくても勝手に育つなら、教師という職業は必要ないのである。
毎週、金曜日から更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




