(新)第7話 静かなるもの、事件の直前~第三節~
昼休憩は、あっという間にやってきた。福祉業者が売りに来るパンをひとつだけ買っていこうと思っていた私は、学校玄関を出てから右へと曲がり、業者トラックまで一直線に走り出した。お目当てのスイート・チーズブールの購入には間に合うと思っていたが、どうやら、それは甘い考えであった。すでに一〇人は並んでいるから、私がそれを買うことが出来る可能性は無いに等しい。
諦めて振り返ろうとした時、駐輪場で誰かが自転車を弄くろうと、奮闘している様子が目に掛かった。遠目で見れば、男子のようであったが、少々歩いて近付いてみると、紺色の冬セーラーでうずくまる短髪少女であることを把握する。髪の短さという一点のみで、それは音恋さんだと判断可能であった。無意識に近付きたくなる。それは元々の性分なのか、それとも担任として当然の配慮なのか。心の判断を付けることは難しい。
「音恋さん、どうした?」
「……」
喋らない。思春期だからな、まあ色々あるのだろう。ぐいっと覗き込むと、どうやら、チェーンが外れている上に、パンクまでさせられそうになっていた。どうして過去形なのかといえば、タイヤに画鋲が突き刺さっていたからだ。今時、その程度でパンクするようなタイヤなど返品されて然るべきだ。
彼女の方に近付くも、イタズラを隠すかのようにガードされる。気持ちは理解できる。中学生にとって、いじめを受けている証拠なんて、恥ずかしくって隠したくもなるだろう。何度やっても、巧みにそれをガードされる。まるで私、いや乾賢太朗の動き方が分かっているかのようだ。ふいに私は、業者のトラックを振り返る。客裁きが早いな、もう行列が掃けている。スイート・チーズブール以外は、てんで人気がないからな。今日も、九里村がそれを三つは買っていったのだろうな。
「なあ、自転車見せてくれないか」
「……ダメです」
反応があった。
「ダメですからね。帰ってください、乾先生。一応、わたし男子より強いですから。相撲対決でも勝つんですよ」
私は、何も聞かなかったように、音恋さんの脇の下に両手を差し込む。
「ひぃっ!」
「よいしょっと」
グイと力を入れると、彼女の身体は、真っ直ぐ上に持ち上がった。いきなり数十センチメートルは高くなった身長だったが、音恋さんは何も言わず、ただ黙っている。その五〇キログラム程度の物体は、クレーンで吊るされる貨物のように、自転車の横側に降ろされるのだった。
そうして私は、自転車を数十度ばかり浮かせて傾ける。手が油塗れにはなるが、非常時だから我慢しよう。
チェーンを触る。リングに対し、一部分だけでも噛み合うよう、斜め方向にそれを引っ掛ける。普通に正面からチェーンを掛けようとしても引っかからないからな。掴んでいた右手を離し、ペダルへ。それを進行方向へと回転させる。ガチャリという音をともない、チェーンリングの回転が始まる。そのタイヤもまた運動を始めていた。
肩に感触があったと思う。振り返ると、抜き手でわき腹を突き刺している音恋さんと向き合った。
「ありがとうございますっ! 機械弱いんですよ、わたし。いいなあ、機械強くて」
「どういたしまして。まあ、男だったら誰でも出来る」
「お礼します」
笑顔に圧倒され、危うく心が居抜かれるところだった。正直、中学生の見た目じゃないんだよな。
それにしても、ようやく素の人格が出てきた。中学一年生の時は、こんな感じの朗らかさの生徒だったと思う。「いや、いいよ」と断り、職員室に戻ろうとするものの、音恋さんの引き止め攻撃は、幾度となく私を遮った。
「お礼しますっ! 母が、こういうときは譲っちゃダメだって! お願いします、お礼します! 何でもしますからっ!」
「ああ、確か近くにポスター貼ってあるよな。市会議員の、音恋朋子さんだっけ」
「ええと……」
黙ってしまった。地雷だったか?
「じゃあ今度、機会があるときにジュース奢ってくれ。それでいい」
「分かりました、覚えておきます!」
振り返って私は、歩き出す。うっ! 私はさっきの自転車のように体勢を斜めにしながら、マズイところのズレを直しつつ、職員室へと帰っていく。
小児偏愛の血が沸騰しそうな程に、可愛らしい少女とのひと時を過ごしていたのだなあ。タキに言わせれば違うのだろうが、体の性向と心の性向が異なる、とでも言えばいいのか? いまの私というのは、とにかく不安定な人間である。
職員室に戻ると、九里村が先に食事を始めていた。確か昨日までは待ってくれて、一緒に雑談しながら弁当を食べていたはずなのだが。微妙な気分で、マグカップに玉露茶を汲んできてから、九里村の隣にある私の席へと腰掛ける。
「九里村先生、朝はすいませんでした。私の責任です」
まだ噂は広まっていないようだった。九里村はこちらを少し振り向いて、お茶を飲んだ。から揚げがまだ口内に残っていたのだろう。数秒してから、完全に私の方を向いた。
「もう、しない?」
「ええ、もうしません」
九里村は心配そうな表情になった。私とは二十センチメートルの身長差があるので、自然と上目遣いのようになる。
「うそ。信じないんだから……」
ビキビキ、という漫画みたいな擬音が脳内で響いた。
「本当ですって、九里村先生。許して下さいって」
どうして私が、ここまで平身低頭になっているかといえば、一つ目はもちろん、彼女に対して悪いことをしたから。二つ目は、数少ない私の味方になり得る人物だからである。職場においては、人との繋がりは本当に重要なのだ。経済的にも、思想的にも。
そして私は、朝のように、九里村に視線を遣った。いけない、九里村の瞳を睨みつけてしまっている。視線を逸らそうと思った、そのとき。
「ごめんなさい」
意外だった。あっけなさ過ぎる。
「私のこと、考えてくれたの分かってます。ごめんなさい」
なんだ、そこまで深刻ではなかったみたいだ。このまま話を続けていると、涙を流されそうだった。泣きたいのはこっちである(真剣な意味で)。職員室で泣かれても困る。私は会話をやめて弁当に集中していった。
昼休憩終了まで、残りはちょうど三十分。私は校舎裏に来ていた。今から三日前、技術教室の近くにあるトイレ。ここの窓から、私はここに着地した。そこで出会ったのは、私に驚愕の運命を告げる黒髪の少女であった。
「お~い、タキ! ……うっ!!」
わき腹を突かれる。空手なんかで言うところの、抜手というやつだ。気が付けば、私の胸元にはタキの姿がある。
両者の身体はほぼ、いや完全に正対的密着をしていた。彼女の瞳は私を突き刺している。一体この召喚は、どういう仕組みなのだろう。いけない、すぐに離れないと。この身体は反応してしまう。
「なんだ、つれないな」
「前は普通に出てきたよな? からかってんのか、ん?」
少し、声が大きかったかもしれない。他人にタキを見られるわけにもいかないから、今回も透明になってもらおう。
「ん、消えるんだな? 賢よ、本当にそれでいいんだな」
昨日、タキは透明になって周りの視線をごまかすことにしていたのだが、その足先で転がしていた小枝が女生徒に見つかってしまった。ところで今日、その噂を聞いたところによれば、校舎裏には黒いワンピースの美少女が現れたということになっているらしい。
ということは、私と見つけた女生徒には、異なった光景が見えていたことになる。私には透明に映る一方で、その女生徒にはタキプレウスが映っていたのだ。ならば、この透明化能力には範囲があるということになる。
「タキ。私の言いたいことは分かるな?」
「わかってるよ。能力の範囲をもっと拡げる、誰にも見つからないように」
タキの姿が消えた。これでよし、とばかりに私は深呼吸した。
「質問がある。クオリアの正体についてだ」
(第7話、終)
毎週、金曜日から更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




