第29話 非日常の速度~第一節~
「インセンシティブ・センシブル」では柔道描写が出てきます。分からない点は、こちらをご覧下さい。
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青春は若いやつらには勿体ない。
8/6日(土)午前
どのように云えば良いのだろう。ああ、そうか。と思いはためいた言葉は、咽喉に絡んでしまって、弾けて消えた。
蒸し暑い。8月の体育館は、とかく汗を噴き出させる熱気に溢れていて、元気な中学生の運動する様子は、さらなる熱気に拍車をかけるのだった。
それでも午前だから良かった。まだ、涼しさを意識することが出来る。ブロウニッシュ・イエローの体育館内の色調は、単純きわまりなかったが、その上で動き回る人間は、白、黒、青、赤と様々なカラーリングを帯びており、練習にはもってこいの初夏の日差しを受け、館内にはつらつとした空気を送り込んでいる。
「いてっ」
「いぬ、なにやっとるん!?」
私の膝に、苹樹に投げられた調歌の頭がぶつかったところである。他にどこか、ぶつけたのだろうか。右手をブンブン振り回しながら、小さな身体はゆらりと佇立する。
「痛いのはこっちのほうじゃっ、ボサっとすんな!」
まったく、その通りだ。さっきから暑さに耐えかね、自分の率いる柔道部の練習から目を逸らし、目の保養とばかりバレー部の午前練習を眺めていたのだ。
「どーせ、橘田先生でもみとったんじゃろ!」
「……」
いいや、違う。女子中学生を見ていたのだ。
乾賢太朗。その中に眠る小児偏愛の精神は、いつになく高揚している最中だった。さっき調歌が膝にぶつかるまでは。
「ちょっと、調歌」
「はいはい、苹樹!」
調歌は、自分より頭ひとつ分は高い相手と乱取りをしている。その身長差は、調歌を後ろから見ることで、より鮮明となった。頭の上には、苹樹の好奇心旺盛な表情が覗いている。
凛々しい短髪に、大人っぽい面持。中学2年生にしては高めの身長を存分に活かし、調歌を攻め立てる。
苹樹の右足、その爪先が調歌の膝裏を捉える。片足立ちとなった調歌、ケンケンで後ろに後退していく。幸いにも、苹樹の釣り手はそこまで効いていなかった。調歌は、後ろに跳んだ。引っ掛けられている爪先をはずし、思い切り姿勢を前傾させる。
一瞬の間のあと、体勢を起こしかける調歌。彼女の目線では見えなかったろうが、苹樹はすでに次なる技の用意を終え――その体は、半回転している。
回り込みつつ、ひかがみをぐにゃりと曲げて下半身を落とす。今の苹樹は、調歌よりも背が低い。調歌の前に置かれた、苹樹の長い、長い右足。為す術もなく調歌の身体は浮いて、もんどり打つようにに畳に落ちた。それは、音恋苹樹の得意とする――体落としであった。
「ああ、もうっ! 足長すぎ!」
同感である。とても長い彼女の足は、体落としを食らう相手に回避を許し難い。転がりながら体勢を起こし、再び調歌は向かっていく。
「ああ、もうっ! 組めない!」
「おーい、苹樹! 練習だから組み手はそこまで気にしなくていい! いいか、そういう練習だからな!」
「はいっ!」
うん。苹樹は、才能があるうえに素直なんだよな。そこもいいところだ。
ところで調歌の場合、あれで繊細な性格だから言い方には注意せねばならない。いつも彼女のメンツを立てるよう配慮しているつもりだ。
ところで、今の組み手についての手心を除いても、苹樹は強い。知能の高さもあるが、何より運動神経である。特に練習したわけでもないのに、新体操選手並みのバク転を軽く決めてみせる。今から約4ヶ月前、柔道を始めた頃は3人とも互角だったが、今では苹樹が頭ひとつ抜けている。
だが、これまでの試合内容から考えるに、なんだかんだで調歌も彩季も柔道の才がある。もしかすると私は、途轍もない才媛たちをスカウトしてしまったのかもしれない。
「ほら、そこで! 振って!」
「せいやああっ!」
「ほらあ~、立って立って!」
あちらを見れば、彩季は律子に振り回されたまま、畳をゴロゴロと転がっていた。
「ほら、内股を身に付けるんでしょ!」
「うう、はい……」
律子は、自分よりも一回りは(横に)大きい彩季を翻弄しながら、彼女が技に入るタイミングを狙わせている。当然、大学まで柔道をやっていた律子が、女性陣の中では最も柔道が強い。
彼女と乱取りをしたことがある。はしっこい動きにより、組み手を持つことが出来なかった。乱暴に技に入っても、柔軟な身体でふにゃりと往なしてみせる。余談ではあるが、幸原道場の女子で最も強いとされるのは、久間野優子か九里村律子だとされている。
律子は組んだまま、彩季をぐいっと引っ張り起こす。教師が生徒と乱取りする場合、生徒に対して自由に組み手を与えることになっている。右組みの彩季は、利き手である右手で釣り手(相手の左前襟)を掴み、左手で引き手(相手の右袖)を掴む。対して、律子は左組みなので、その逆位置となる。
今、組み合っている両者の姿勢は、ケンカ四つと呼ばれる形だ。非対称に体を開き合っている。彩季は右足をより一歩出し、反対に律子は、左足をより一歩出している。
彩季が、内股を仕掛ける。その右脚は、きりの良い角度で律子の骨盤にヒット――したものの、律子は微動だにしない。
「ほらあ、丘野のあの選手は、わたしより30キロは重たいぞ!」
「ぐ、うう……やああーーっ!!」
叫びながら、股下に脚を突っ込んだまま、律子を振り回して投げようとするものの、上級者のかわし方は意外であった。
律子の全身がゴムのようにしなったかと思えば、そのまま跳躍、今まさに投げようとしている彩季の体に乗っかっていった。その体重を支える余裕などあるはずもなく、べしゃりと畳上に倒れ伏す彩季。
「声だけじゃだめっ」
「う~ん、分からないです……」
どうして彩季だけハードな練習をしているかといえば、先日の県予選で無様な敗北を喫したことによる。80キログラムはあろうかという巨体の女子に手も足も出ず、弄ばれて負けた。
まあ、苹樹も調歌もひどい負け方だったが。とにかく後日、彩季は律子に特別訓練を申し出たのだった。
ゆっくりと立ち上がる彩季。眸は諦めていない。あのときの様子そっくりの覇気を湛えている。体育館内の気温は、室温計で33℃を上回るところであった。
「頭で考えるだけじゃなくて! なんでも挑戦してみるのよ」
「は……はいっ」
「まあまあ、ちょっと」
ここで割って入る、私。
「なあ律子、彩季はどうしても考えが先に立ってしまうタイプなんだ。本人は、律子の言ってることが分かると思うよ。熟考する時間を与えてやってくれないか」
「乾先生! いつも生徒、特に彩季ちゃんに甘いんじゃないですか!」
「い、いやそんなことないって!」
「いぬ先生、大丈夫です。やれます。気にはなるけど、考えません」
「いや、考えていいんだよ。それが、お前の個性だろ。試合中じゃないんだから、本気にやってるんなら考えつつで構わない。納得できなかったら、心がもやもやして柔道どころの話じゃない」
真剣に言ったつもりだった。わずかな沈黙。後ろでは、苹樹と調歌が乱取りに勤しむ様子が伺える。
「……分かりました、乾先生がそう言うなら。人それぞれ特性があると思います」
「わ、わたし。九里村先生に勝ってるとこ、ないですから。とにかく、がっかりさせないように頑張ります!」
勝っているところ、か。胸元に集まる脂肪分のサイズでいえば、彩季の方が4サイズ分は凌駕しているのだが、それはともかく、
「律子のために頑張るのか? 一体、どうして柔道部に入ったんだっけ? いや、ここで言わなくていいから、頭の中で反芻してみ」
「……はい、アドバイスありがとうございます。九里村先生、今の間に考えることが出来たので、多分大丈夫です」
「よーし、期待ばっかりさせるなよ~!」
乱取りに戻る様子を認めつつ、彩季の柔道部への入部動機を思い返す私がいた。彼女が中学2年生の春、すなわち約4ヶ月前に柔道部へ入ったのは、志望校に合格するためであった。
彩季の志望高校は、備後地方で一番の名門公立高校である国府高校であった(※1)。彩季の成績については、テスト平均が97点で、余裕で校内トップを獲得している。ところで副教科の実技が下手だったり、また内気な性格が災いしてか、これまでに内申点を落とす要素もあったようだ。通知表の方は、平均的に10段階中の8と、なかなか残念なことになっている。
部活動に参加することで内申点を獲得し、さらにはそれまでの自分を変革して国府高校に入学したい、というのが彩季の望みであった。
本人いわく、「運動神経が切断されている」から運動には向いていないとのことだが、実際そんなにひどいわけでもない。何でも頭で考えてしまうことから、スポーツに慣れるまでに時間がかかるだけだった。
心配などしなくていい。彩季は、彼女は柔道がうまくなる。ついでに志望校合格という目的も達成できる。なぜなら、国府高校の内申書その他の配分は約5%だからだ(※2)。95%は学力試験で決まる。
なんのことはない、中学生によくある取り越し苦労というやつだ。だから、彩季が入部によって得られるのは前者の効用だけということになるが、正直、志望校合格などより、こちらの方がはるかに重要でぁ……。
「いって!!」
「悪い、調歌!」
「何突っ立ってんだよ! 声掛けぐらいしろ!」
また、私の悪い癖が。考え事が過ぎるんだよなあ。指示や檄を飛ばす以外にも、彼女たちとの乱取りなど、やりたいこともあるが……律子が言うには、生徒が、私と練習しても成果にならないばかりか、むしろ悪い癖が付くのでやめた方がいいと言う。
そりゃあ、身長180センチメートルの相手と対戦する機会はないだろうから、生徒たちの練習相手として問題あるのは納得できる。かといって、技の実演指導以外に何もしないというのは気が引ける。実際に、私の運動量は、他の部活の指導教諭と比べて少ない。
あまり身体を動かさなくても、部活動の指導手当てである3400円は自動的に入ってしまう。何だか、税金泥棒のようで申し訳なくなってくる。
このメニューが終われば休憩する予定であった。舞台袖に用意してある、ガンガンに冷やした清涼飲料水の存在を意識する。ついでに、それを見たときの彼女たちの反応も。
また考え過ぎてしまった、という後悔を抱えつつ目の前の乱取りを眺める。ストップウォッチを確認。残り時間、2分。スタミナ強化を兼ねての、10分間ぶっとおしの乱取りであった。
毎週、金曜日から更新です。注釈文は最終節にあります。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...




