第26話 明日に繋がる~第四節~
よし! 互いに技あり。ポイントで並んだ。いいぞ、これでいい。残り時間、45秒。別に逃げ切ってもいい。負けは決まらない。
「始め!」
ここが正念場だ。2人とも、素早く右に組む。標準の位置より、僅かにずれている苹樹の組み手。いや、それでも良くやった。なんたって、まともに組めたのだから。井上は勝負を焦っているのだろう。
刹那。それは――井上の先手、右組みからの袖釣り込み腰だった。どうやら予想は外れたようだ。
「……」
律子は、私と同じ予測をしていたのだろうか。後ろ姿しか視認できないものの、苦虫を噛み潰した顔つきなんだろうな、と瞬間的に想念した。
苹樹は、背負い投げをかわすときの要領で右側にステップを運ぼうとする。そして、ジャンプ! 今度は、命中するまでに間に合った。井上の腰は、苹樹を掠めてもいない。
それは、低くしゃがむタイプの袖釣りだった。見た目は、低い背負い投げとそっくりである。見た目は。
私の時間が消えていく。何も言えなかった。「左!」という語彙が浮かんだのと、右側へ逃げる苹樹の袴の右裾を井上の右手が握り締め――孤を描き、苹樹の躯体が優雅な空中浮遊を始めたのは。
それから先、音はなかった。
「一本、それまで!」
やられた。袖釣りの変形パターン。しつこいようだが、中学生のやる技じゃない。蒲原の勝利に掛ける執念。それに付いていこうとする井上。完敗だった。
試合後の礼。両手はピンと伸ばし、腿に滑らすように。腰骨を軸に30度の傾斜。完璧な所作である。苹樹は試合場から去った、重苦しい面持ちで。この敗北の決定が、苹樹にのしかかっていた。
そして、苹樹の次に試合場に入るは――ロボットのような動きで、ギクシャクな立礼をこなす加目田彩季という少女であった。
「始め!」
彩季の相手は、草田という女子。80キログラムは確実に超えているであろう、その体形。だが身長については、彩季より低い。失礼を承知で言うと、アンコ体形というか。とにかく、丸っこい。
例えば、新入生紹介で草田の自己紹介が終わったとき。周囲の友人たちから、「ミートボールが大好きです!」という合いの手を入れられたに違いなかった。
さておき、草田は、生粋の左組み選手のようだった。右組みの彩季から見ると、互いの右半身が近づくことで反対側の左半身が離れる格好となる。右と左の組み手でがっつり組み合うと、そういう非対称な形となる。
見るからに力で圧倒されており、付け入る隙もない。大内刈り、大外刈り。掛けられ放題である。なにしろ奥襟を取られたうえに体勢も極められているのだから、それも当然だ。彩季も力は強い方だと思うが、流石に無理がある。
だが、何より。
そう思ったときである。ここで彩季が反撃に出る。大内刈りに出るも、簡単に返される。大外刈りにいくも、左組みが相手では足が届かない。技を返されそうになり、足払いに切り替えるも、巨体に効くはずもなく。
ところで、何より問題なのは気持ちで負けている点にある。さっきの技にしたって、投げたい、というよりは反則を取られまい、という気持ちで掛けていたように思う。
上らぬ相、というやつだ。試合前から、なんとなく諦めてしまっている。強者が相手だからという問題ではない。
肝要なのは、これまで技能を獲得してきた場所、人、ものについての、何より自分についての――信仰、である。
「彩季ちゃん、距離をとって!」
負けが決まろうと、律子は変わらなかった。開始当初から、ずっと助言という力添えを続けている。
「ファイトー!」
「ファイトッ!」
「ファイトォ!!」
待機中の2人にしても、また同様だった。先鋒戦からずっと、戦っている部員に対して声援を送っている。ずっと、ずっとだ。私の声援よりも一回りは大きい。
こいつらと一緒で、本当に良かった。
感慨に耽りつつ、試合に視線を戻す。内股に入られる彩季。草田のそれは、優子の半分ではないかという短い足だったが、密着している状態ならば投げるのは容易い。
「有効ー!」
いま取られているのは有効が3つ。彩季はノーポイントだ。いま現在、ほぼゼロ距離まで迫られている。足技で懇々と突かれているところだ。完全に弄ばれている。
「引いて、引いて! 組み手を離す!」
いまの彩季は、頭では理解していても実行に移すことは出来ない。人間は、そこまで合理的な生き物ではない。
ここで、強引な払い腰を受ける彩季。ぐっと、左手を引いて耐える。しつこく食い下がる草田。結局、5メートルほど移動した位置で技ありを取られる。
今、何かがあった。私は、彩季の心に瞬間的な変化が起こったのではないか、という期待をもち始めた。
「始め!」
彩季から組みにいった。音を立てて釣り手を掴む。そのまま内股。
内股なんて、彩季は練習したことがない。だが、知ったのだ、理解したのだ、さっき。右組み対左組み。ケンカ四つの構えで、有効な技のひとつを。
内股は、命中するどころか当たる前に弾かれた。ぐらり、と崩れる彩季。
ここで、お返しとばかり、草田の飛び掛かるような谷落としが炸裂――しなかった。彩季は、くるりと体を翻し、そのまま草田の上に乗っていく。さっきの試合での苹樹の動きを参考にしたのだろうか。
「抑え込み……解けた!」
一瞬だったが、抑え込んだ。それは執念の為せる業だった。彩季の生来の資質に、この場面での猛攻。さらに運勢という変数が入り混じることで生まれた結果であった。
それから、さらに1分少々が経過した。変わらず彩季は、自分から真っ直ぐ組みにいく。牽制の足払い、そこから大内刈り。返されるも、さらに小外掛けで押していく。試合開始の時とは異なる主体的な動き。まるで天啓でも得たような。
「ファイト!」
「ファーイトおー!!」
「それで良いのよ、それで!」
違う。彩季の理性が……諦めという感情を押し留めて戦いに向かわせている。彼女は、試合中に――成長しているのだ。
彩季の様子を視るに、苦しい攻めを受け続けて、その体力は切れかかっていると思った。草田はバテていない。基礎体力においても、強豪との差を思い知らされることになろうとは。
彩季よ。私は、元々お前を攻めるつもりはない。調歌にしても、もちろん苹樹だってそうだ。今日は良い機会だった。当然、私にとっても。
始めは、義務だった。
私自身が、感涙することで死の運命を回避し、私(元)のボディへと帰還を果たす。ついでに、乾賢太朗という学校教師の精神と身体を借りて青春を楽しんでやる、という感覚であった。
だが今は、違う。違うのだ。今の私が、渇えているのは、そういう姿や形じゃない。
「一本、それまで!」
決まり手は、大外刈りだった。残り時間6秒の出来事。
本来、草田の地力なら瞬殺だったろう。最後まで、弄ばれた結果の一本負け。私は、そんな彼女たちと――
彼女たちと、一緒に青春を過ごしたい。そして勝ちたい。ハッピーマウンテン市内で一番になりたい。もっと、ずっと有意義な時間を過ごしていたい。
そういう心持ちを得て私は、退場を終えようとする鴨中学校の部員を目掛け、確かな歩みで歩み寄っていく。激励の言葉を送るために。
個人戦は、みな一回戦で負けた。団体戦の完敗を引きずっての結果だった。大会の全試合が終わり、今は、片付けに入ろうかというところだ。
「いやあー、完敗でしたよ蒲原先生!」
「んんー、おお、乾くんか。あんたんとこも、強かったな! まあ、例年通り、うちが一番じゃったけどな」
上機嫌の蒲原。人間誰しも、ある程度の弱者には気を優しく接したくなるものだ。県下№1の丘野中学校に対し、それなりに戦えた我が校もそういう対象に入っているようだ。
「蒲原先生、なんか、やった方がいい練習とかありますかね」
「そんなん決まっとる。組み手の乱取りだ。うちは毎日しとる」
組み手の乱取り? あまり聞かないメニューだが、蒲原が言うなら効果的なのだろう。元全日本強化選手の志上か宇野なら知ってるだろう。今度、聞いてみよう。
「ありがとうございました」
「今度は、もっとマシな試合になるよおにな」
悪い意味で機嫌が良かった。いやいや、何を失礼なことを言ってる。せっかく練習メニューまで教えてもらったのに。感謝するのはこちらの方である。
さて。私は、そこから離れて数十秒ほど歩く。見つけた。
「鴨中学校、集合!」
第二試合場で世間話をする鴨中メンバー。律子が、率先して生徒を誘導していく。アリーナ横側の壁が集合場所である。
「えー、皆」
「ウチ、説教なんか聴きたくなあわ!」
「大丈夫だ」
「調歌、賢先生の言うこと、聞こう?」
「わ、わかってる」
こうして調歌も含め、全員、床に座して清聴の姿勢に入る。
「私は、長々した話は嫌いだからな。いいか。本当に努力したのなら」
そう告げて、生徒を見渡す。3人とも集中の姿勢に入っている。
「後悔はないんだ。ほぼ100パーセントの本気で努めて良い結果が得られない、というのは天命で、どう足掻こうと必然だったからだ。だから、どんな結果であれ、あるべき挑戦が終わったのだと、それまでの自分の道程を認め、思い返して涙を流す」
苹樹は、黙って聞いている。彩季もそうだ。調歌は反芻に時間が掛かっている。もう少しばかり、待つ。
「いいかな。本番の後に、涙が落ちる圧力を感じない、ということは。本番の内容に後悔が残っているということだ。もしかして、あれもこれも練習していれば、どうにかなったかもしれないと。そういう形での空虚な期待がある」
「……」
律子は、瞼を閉じている。
「そういう心境になるのは、努力がベストに足りていなかったということだ。どういう結果になろうと、自分の内側からきたるものと向き合い、全力でやる必要があったということだ。」
涙を流す者はいない。黙って話を続ける。
「でも、君たちを攻めるつもりはない。3ヶ月でやれることなんて限られてる。私は、そうなるべき結果だったと思っている」
再び、3人の顔を見渡す。みな、体育座りのままで一様に伏せっている。
「よくやった! まだここまでだけど、ここまでやれて、私は……私は、嬉しいぞ!」
生徒たちの顔が上がる。その場にいる5人全員が、全員を認める。私たちの情況を包むのは静寂であった。暗くも、明るくもない。しかれど、明朗な活気を帯びる。そういう、静寂。
(第26話、終)
※2……10年くらい前までは、例えば強面の監督が試合中の判定に物言いを付けることが時々ありました。人間関係によっては、その後の判定に影響が出ることもあったと思います。私もそこまで露骨なのは見たことありませんが、そういう事件は今も起こっています(地方の非公式大会など)。また昔は、県大会の決勝とかになると、保護者の大声援で審判の声が全く通らなくなるのが常態化していました。声掛け禁止ルールの制定は、日本柔道が少しずつ現代化していることの象徴だと思います。
毎週、金曜日から日曜日まで更新です。それでは、ゆっくりお読みください(。。)...