アイザック・フォン・マイネンシュトシュ
マイネンシュトシュ公爵、アイザック・フォン・マイネンシュトシュは現実主義者である。
彼は父である前マイネンシュトシュ公爵と公爵夫人である母の冷え切った関係性を、幼少期の頃から見て育ってきた。
彼は夫婦というのは愛がなくても成立することを成人するよりも前には理解していたし、父がサロンに呼び出す女性の何人かが彼の愛人であることも、継承権こそないものの何人か血の繋がった兄弟がいることも知っていた。
そんな両親を見て、結婚生活に理想を抱けるはずがない。
アイザックは両親を反面教師にして自分は永遠の愛を誓える伴侶を探そうなどと思えるほど、ロマンチストではなかったのだ。
だが彼自身公爵であり子を為す必要がある以上、やはりどこかのタイミングで結婚はしておく必要がある。
そこで嫁を取ろうという話になった。
そしてそこで結婚してもっとも利益を得ることができるのが、ベルヘイム侯爵との婚姻だった。
彼がヴァイオレッタとの結婚を決めたのは、たったそれだけの理由である。
「君を愛するつもりはない。この結婚は契約結婚だ」
故にこれは、彼にとって必要な線引きだった。
結婚生活には愛は必要ない。
親族から養子を取ってもいいのだから、極論夫婦の営みすらも必要ない。
彼にとって妻とは暇さえあれば社交に精を出し、夫の愚痴を延々とこぼしながら浪費を繰り返す母のような存在だった。
だがヴァイオレッタは、アイザックが想像していたような女性とはなんというかその……ずいぶんと違っていた。
「アイザック様にお願いしたいのはただ一つ……私がウイスキーを造ることに反対をしないでもらいたいのです」
「ウイ、スキー……?」
どうやら彼女は、マイネンシュトシュ公爵領でお酒を造るつもりらしい。
マイネンシュトシュ公爵領は寒冷な地域であり、主食である小麦は領民全員に行き渡るほどの量が生産できない。
代わりに大麦の生産の方が盛んであり、現在は大麦を食べて育つ軍馬や大麦から作るビールで外貨を稼ぎ、小麦を買っているという状況である。
公爵領では大麦は比較的余り気味なので、てっきり道楽でビールを造るのかと思ったのだが……ヴァイオレッタが造ろうとしているのは、未だこの世界に存在していないまったく新しいお酒なのだという。
大した熱の入れようで、彼女は契約結婚だと言い放った自分に対していかにウイスキーが素晴らしいかという気合いの入ったプレゼンをし始めたのだ。
一体何が彼女をそこまで駆り立てるのだろうか。
それにそんなものがすぐに作れるようになれば今頃酒造は苦労していないとも思うのだが……好きにすればいいと言ったのは自分だ。
アイザックは契約書にサインをしたら、次の日から軍務に戻ることにした。
現在は小康状態が続いているが、北方蛮族との戦いは今も油断ならない状況だ。
アイザックが防衛のための準備を整え軽く小競り合いを済ませてから戻ってきてみれば、ヴァイオレッタは既にものすごい勢いで準備を進めていた。
「ヴァイオレッタ様が大麦を発酵させた匂いが屋敷中に広がっておりまして……」
「ヴァイオレッタ様が大量に麦粥を作っているせいで使用人達は三食麦粥生活を送っており……」
家令のカビアからされる報告は、頭を抱えるようなものばかり。
話を聞いてもヴァイオレッタは社交などにはまったく興味がなく、彼女のエネルギーはその全てがただ自分が飲みたいウイスキー造りに捧げられているようだ。
現在はその試作のために大麦を使ってあれやこれやをしているらしく、そのせいで使用人が迷惑を被っている。
ただ虐めたりしているわけではなく、純粋にフードロスをなくそうとしているだけらしく、自身も三食麦粥を食べたりしているらしいので怒って良いのかは判断に困るところだ。
好きにやっていいと言ったのは自分なので、アイザックは自身の仕事に集中しながらヴァイオレッタにさせているのと同様、自身も領地経営と領地防衛に精を出すことにした。
そんなことを続けていると、ある日カビアから予想外の言葉を聞かされる。
「旦那様、ヴァイオレッタ様から晩餐のお誘いが来ております」
「……ヴァイオレッタから?」
アイザックとヴァイオレッタの結婚は、両者が共に認めた契約結婚だ。
そのため基本的にお互いには干渉せず、各々が好きなように時間を過ごしている。
こんな風にヴァイオレッタから直接呼び出しがかかるのはかなり珍しい。
屋敷自体が広いおかげで会うことすらほとんどなく、食事も別々で取っているために最後に顔を合わせたのがいつかすらも覚えていないような状態だ。
さすがにそれではまずかろうと思い二つ返事で晩餐の席についたアイザックは……自分よりも先に到着し、嬉しそうににこにこと笑う彼女の顔を見てその要件を察した。
「まさか……できたのか?」
「えぇ、やっぱりわかっちゃいますか? はい、できたんです! ウイスキーの試作品が!」
「ずいぶんと早いな……」
ヴァイオレッタが酒造りを初めて、まだ三ヶ月も経っていない。
新しいお酒とは、そもそもそんな短期間で造れるようなものなのだろうか?
だがあのヴァイオレッタの執念を見れば、あるいは……と思えてしまう自分もいた。
アイザックは自分の心が躍っていることに気付く。
北方の男は皆大の酒好きだ。
寒冷な地域であるからこそ、酒を飲み身体を内側から温める必要がある。
そして飲んでいるうちに、皆飲んべえになっていくのだ。
無論アイザックとて、その例外ではない。
ヴァイオレッタにその美味しさについて滔々と語られているため、期待も一層膨らんでいる。
料理が運び出されてくるが……一向にウイスキーが出てくる様子はない。
「食中酒としては飲まないのか?」
「やはりまず最初は、それだけで楽しんでいただきたいので」
「なるほど」
生産者としてのこだわりというやつだろう。
一体どのような酒が出てくるのか……楽しみにしながら食事を済ませる。
そして食後のデザートを食べ終えたところで、ようやく給仕の手によって一本のボトルがテーブルの上に乗せられた。
「これが……ウイスキー、なのか……」
ビールような黄金色でも、ワインのような深い赤でもない。
透明なボトルの中に入っている液体は、目を見張るような美しい琥珀色をしていた。
「封切りの一杯は、ストレートで」
ヴァイオレッタは手慣れた手つきで、ボトルに封をしているコルクを引き抜いてみせる。
キュポンと小気味よい音が鳴り、用意されている透明度の高いグラスにウイスキーがトクトクと注がれていく。
「今回用意したウイスキーはいくつかある種類の中でもバーボンと呼ばれるものです」
「バーボン……」
妙に男心をくすぐる名だった。
差し出されたウイスキーを見て、まずは目で見て色を楽しむ。
楽しみ方はワインと同じで良いらしいので、次にゆっくりと鼻に近づけて香りを嗅ぐ。
「これは……すごいな」
事前にアルコール度数が高いという話は聞いていた。
なのでてっきりツンとする刺激臭が来るかと思ったが……アルコール感は思っていたよりもずっと少ない。
鼻をくすぐるのは、バニラを思わせる甘やかな香り。
遅れて続くのはカラメルのような香ばしい甘さと、ニスのようなやや溶剤めいた香りだ。
「アルコール度数は60度ほど……ワインの5倍ほどですので、ゆっくりと飲んでくださいまし」
「あ、ああ……」
3倍という話ではなかったのかと思いつつ、ゆっくりとバーボンを少量口に含む。
すると口の中で、火花が弾けた。
「~~っ!?」
まず最初にやってくるのは、アルコール由来のガツンとしたパンチ。
口の中にあったものを一掃した後にやってくるのは、キャラメルを思わせる砂糖を煮詰めたような甘さと、樽由来と思しきウッディネスだった。
それら二つが互いに混じり合って昇華されることで、不思議なことにリンゴや梨を思わせるような軽快な甘さが押し寄せてくる。
ビールのような苦みともワインからくるベリー系のフルーティーさともまた違う味わいに、一口また一口と飲み進めたくなる気持ちを抑えることができなかった。
「なるほど、新しい酒と豪語するわけだ……」
アイザックは目を閉じてうっとりとしながら、余韻を楽しんだ。
ふわりと鼻から抜けるのは木のアロマ。
口の中には煮詰めたシロップを思わせる甘みが、長く続いていく。
度数が高いというのは本当らしく、一杯も飲んでいないのに既に酔いを感じている。
初めて感じる強烈なアルコールの刺激に喉の奥が驚いており、内側から身体がぽかぽかと熱くなっていくのがわかった。
「どうですか? アイザック様から見て商品になると思います?」
「……ああ、これは間違いなく売れるだろう」
「そうですか、良かったぁ」
ヴァイオレッタはほっと胸を撫で下ろしてから、自身もグラスにバーボンを注ぐ。
やや大ぶりな角張ったグラスには、いつの間にか大きな丸氷が入っている。
カラリと音を鳴らす氷は、どうやら彼女が無詠唱魔法で用意したらしい。
「これはオンザロックといいまして、ウイスキーの飲み方の一つです。氷が溶けることでウイスキーと混ざって冷えて、徐々に味が変わってくるんですよ」
「……そうか」
楽しそうにウイスキーを飲むヴァイオレッタを見て、鉄面皮であるアイザックの表情筋がわずかに緩む。
彼にとって魔法とは、効率よく相手を倒すための手段でしかなかった。
だがヴァイオレッタは魔法の力を戦闘以外の様々なことに、生活に役立つ形で使っている。
聞けばウイスキー造りにも魔法を活用しているらしい。
そして彼女が奇想天外なのは何も魔法だけではない。
ヴァイオレッタは何者にも縛られずに、自分が好きなことをしている。
これほどまでに自由奔放な生き方をしている女性を見るのは、初めてだった。
(無自覚のうちにこんなにとんでもないものを作って……今後の産業にどれだけの影響を与えるか、本当にわかっているのか?)
聞けばこのウイスキーは大麦と蒸留器があれば作ることができるという。
公爵領にある酒造は、どれも王国に数ある酒造の中ではさほど優れているわけではない。 だがこの革新的なウイスキーは、未だ誰も作ることができていないまったく新しい酒。
間違いなくとてつもない値で売れるだろうし、しばらくの間その独占状態は続くだろう。
そこから得られる財貨は、一体どれほどのものになるか……。
ウイスキーを売り出しブランディングを確立することができれば、間違いなく経済的な基盤が脆弱である公爵領にとって、かけがえのない太い柱となるだろう。
(わかっては……いないのだろうな)
酔いが回ったのか、頬を赤くしながら「ウイスキーはちょっと濃いめが美味しい!」と笑っているヴァイオレッタを見たアイザックは、すぐに答えを出した。
――彼女はただ、自分が美味しいと思うウイスキーを造りたいと思っているだけだ。
外交で裏の裏まで読まなければならぬアイザックにとって、ヴァイオレッタのその素直さは何よりも眩しいものに思えた。
……契約結婚をする相手が彼女で良かったと、そう考えるくらいに。
(まあ、その辺りは俺がカバーすれば良いだろう)
おそらく今後も、ヴァイオレッタは自分がやりたいようにウイスキー造りを続け、予想も付かない出来事を引き起こすだろう。
だがそれは間違いなく、このマイネンシュトシュ公爵家にとってプラスになるはずだ。
「アイザック様、ひとまずバーボンを生産ラインに乗せながら、同時並行でブランデーを造ろうと思うんです!」
「……また新しい酒が増えるのか?」
「はい、だってブランデーがないとシェリー樽熟成のウイスキーが造れないじゃないですか!」
「……もうちょっと、俺にもわかるように説明してくれ」
彼女に引っ張り回されているという自覚はある。
けれどそれが、不思議と嫌ではない自分がいた。
こんな結婚生活も、そう悪いものではないかもしれない。
今までにないほどに強い酒精がそうさせるのか、アイザックは彼にしては珍しいほど上機嫌にヴァイオレッタのこれからの話に耳を傾ける。
マイネンシュトシュ公爵領でのウイスキー造りは、まだ始まったばかり――。




