第四話 死にたい光秀、生かしたい家康、そして詰んだ秀吉
第一章:家康、京へ急襲!「恩人を死なせるな!」
天正十年(一五八二年)六月十五日。京都・本能寺跡。
「光秀殿ぉぉぉぉぉっ! お助けに参上いたしましたぞーっ!!」
甲冑に身を包んだ徳川家康が、三河武士団の猛者たちを引き連れ、豪快に本能寺跡地の陣幕へと踏み込んできた。
後ろには「無」の文字を掲げた本多忠勝、眉間に皺を寄せた榊原康政、そして白刃を握りしめた井伊直政らがズラリと並んでいる。その数、およそ一万。三河から不眠不休で駆け抜けてきた熱苦しい男たちの群れであった。
畳の上で、死に装束のままのんきに水羊羹を食べていた明智光秀は、喉に詰まらせて猛烈にむせた。
「ゴホッ! ゴホッ! ……家康殿!? なぜここに!?」
光秀は口の周りを拭いながら、素頓狂な声を上げた。
「なぜ三河へ戻り、混乱する旧武田領を切り取らなかったのですか! わしは貴殿ならそう動く(夢で見た)と読んで『無事に三河に逃げてね』と海路を手配したのですぞ!?」
家康は感極まった様子で光秀の手を両手で強く握りしめた。
「何を仰いますか光秀殿! この家康、三河武士の義理を忘れるほど薄情ではございません! わが長子・信康と妻・築山を死に追いやった織田信長を討ってくださったばかりか、落ち武者狩りに怯えるわしに安全な海路まで用意してくださった……! これほどの恩、死んでも返しきれるものではありません!」
「いや、返さなくていい! 恩返しとか要りませんぞ!!」
「いいえ、返します!」
家康の目は血走っていた。三河武士特有の「重すぎる義理堅さ」が完全に暴走している。
「光秀殿が『どうせ滅びるなら潔く自害する』などと悲しいことを考えておられると聞き、居ても立ってもいられず引き返してまいりました! 我ら徳川家一丸となって、光秀殿をお守りいたします! あなたを殺そうとする者は、この徳川家康が返り討ちにして見せましょう!」
「やめてぇぇぇぇぇっ!!」
光秀は頭を抱えて叫んだ。
「頼むから放っといてくれ! わしは綺麗さっぱり腹を切って『己の命』を完結させたいのだ! 貴殿たちに守られたら、死ねないだろうが!」
「ハハハ、お戯れを! 命を粗末にしてはなりませぬ! さあ光秀殿、白装束をお脱ぎなされ! 徳川の陣で旨い味噌汁でも召し上がれ!」
「要らん! わしは死に装束が気に入っておるのじゃ!!」
「死にたい光秀」と「絶対に生かしたい家康」。
本能寺の跡地で繰り広げられる地獄のように噛み合わない押し問答に、側近の斎藤利三や明智秀満らは遠い目をするしかなかった。
第二章:富田の陣所で毛をむしる秀吉
同じ頃、京郊外・富田の羽柴軍本陣。
「……徳川が入京したぁぁぁぁぁっ!?」
羽柴秀吉の悲鳴が、本陣の天幕を揺らした。
「なぜじゃ!? なぜ家康が京にいる! 奴は堺から三河に逃げたはず!三河に戻っても奴なら織田家の混乱に乗じて旧武田領を狙うはずであろう。 なぜ京に乱入し、光秀を守っておるのじゃ!!」
報告を持ってきた黒田官兵衛も、かつてないほど憔悴した顔をしていた。
「秀吉様……家康殿の掲げた大義名分は『織田信長の暴政から天下を救った明智光秀殿への報恩と、京の治安維持』でございます……」
「報恩とは何じゃ! 光秀は謀反人! 逆賊ぞ!」
「ですが……光秀が撒いた『告発状』により、世間の空気は『上様は家臣を使い捨てる酷い主だったから殺されても仕方ない』『明智様は全財産を配って自害しようとした清廉な武士だ』という風潮になっておりまして……。そこへ家康殿が『義によって明智殿を守る』と名乗りを上げたため、民衆は大絶賛しております」
「いかん……いかん……いかんぞ、この流れは!!」
秀吉は床に倒れ込み、足をバタバタとさせた。
秀吉の計算は完全に崩壊していた。
もし光秀を討てば、「恩義を重んじる徳川家」と全面対決することになる。
しかし、今の羽柴軍は中国大返しでヘトヘトに疲弊しており、三河から怒涛の勢いでやってきた血気盛んな徳川軍と戦えば、負ける可能性すらあった。
かといって、このまま静観していれば、「家康が光秀を保護し、京の治安を回復した大英雄」になり、秀吉はただ「途中でウロウロして終わった猿」になってしまう。
「官兵衛! どうすれば良い? わしの天下人への道が、跡形もなく消え去りそうじゃ!!」
官兵衛は深いため息をつき、ひそかに懐から紙を取り出した。
「秀吉様……もはや道は一つしかございません」
「何じゃ!? 何か策があるなら言ってみろ!」
「我らも……『明智殿をお救いする』という名目で京へ乗り込むのです」
「……はあ!?」
秀吉は目を丸くした。
「正気か官兵衛!? わしは上様の仇を討つために大急ぎで備中から戻ってきたのだぞ!? なんで光秀を救う側に回らねばならんのだ!」
「仕方ございません! 一番乗りの仇討ちという手が使えなくなった以上、『光秀の起こした変の真意を糺し、織田家の解体と再構築を主導する』という策に変更するのです! 家康殿だけに『良い思い』をさせてはなりません!」
秀吉は顔をひきつらせた。
「上様の仇を討ちに来たはずが……仇を救う側に参戦するのか……? どうなっておるのじゃ……」
第三章:洞ヶ峠で和菓子を食べる日和見たち
六月十六日。洞ヶ峠。
ここには、筒井順慶と細川藤孝・忠興父子が陣を張っていた。
「聞いたか、筒井殿……」
細川藤孝が、どこか壊れたような笑顔で言った。
「徳川殿が京に入り、光秀殿を保護されたそうだ。そして、富田におった羽柴秀吉も『光秀殿と談合する』と言って京へ向かい始めたそうだぞ」
筒井順慶は、光秀から贈られた和菓子をモグモグと頬張りながら、死んだような目でお茶をすすった。
「……ふふふ。面白いですな、幽斎(藤孝)殿」
「何がじゃ?」
「わしらは『誰が次の天下人になるか情勢を見極めるため』にここに陣を張ったはずでした。しかし……当事者の光秀殿は自害したがり、徳川殿は助けたがり、秀吉殿は仇討ちを諦めて対話しようとしている……。もはや、誰と誰が何のために戦っているのか、さっぱり分からん!」
「わははは! 全くじゃ! 全く分からん!」
藤孝も笑い出した。
「光秀殿が『手切れ金』などと称して金・銀を置いていったおかげで、我が細川家は兵を動かす口実を完全に失った! 今やこうして洞ヶ峠で、筒井殿と高級なお茶菓子を食べて和んでいるだけだ!」
忠興が頭を抱えて叫んだ。
「父上! 筒井様! 笑っている場合ではありません! 我らは後世に『洞ヶ峠で菓子を食べて日和見した愚者』と刻まれてしまいますぞ!」
「良いではないか忠興!」
藤孝は晴れやかな顔で言った。
「泥沼の殺し合いに巻き込まれて家中が血の海になるより、菓子を食べて後世で馬鹿にされる方が、遥かに風流というものだ! 光秀殿の『あとは野となれ山となれ』という言葉の意味が、最近ようやく分かってきたぞ……!」
こうして、本来なら激戦の舞台となるはずだった山城周辺は、光秀の狂気的な開き直りが伝染したかのように、妙な平和と脱力感に包まれていったのだった。
第四章:本能寺「地獄の三者面談」
六月十七日。京都・本能寺跡。
かつて信長が倒れたその場所で、歴史上あり得ない「三者面談」がセットされていた。
上座(というか畳の中央)には、いまだに死に装束を脱ごうとしない明智光秀。
左手には、威風堂々と座る徳川家康。
右手には、苦虫を噛み潰したような顔の羽柴秀吉。
周囲を徳川軍と羽柴軍の強面の武士たちが取り囲み、重苦しい、いや、決定的にシュールな空気が漂っている。
「……で?」
光秀が、だるそうに口を開いた。
「二人とも、わしの目の前に座って何をしに来たんだ? 仇を討ちたいなら、早くこの脇差でわしの首を跳ねてくれ。もう死に装束を着て半月も待ってるんだ。肩が凝って仕方がない」
秀吉が眉間をひくひくさせながら叫んだ。
「光秀ぇ! お前なぁ! なんでそんなに潔いんじゃ! 普通は『わしが次の天下人だー!』と張り切る場面であろうが! なんで最初から腹切る準備しておるんじゃ!」
「信じるかは解らぬが、わしは夢で見たのだ。上様を討った後、備中から急いで戻ったお主と山崎で合戦に及んで負けて、敗走中に小栗栖の竹藪で百姓に突き殺されで惨めに死ぬ己の姿を。そのような惨めな末路を辿るくらいなら上様を討った後、潔く腹を切ると決めたのだ」
「なんでその夢を信じるんじゃ!夢は夢であろう!お前はそうならぬように必死で足掻くべきじゃ!!戦なんぞ、やってみねばどう動くか解らんだろうが!!」
家康が重々しく咳払いをし、光秀を庇うように前に出た。
「筑前(秀吉)殿、光秀殿を責めるのはお辞めなされ。光秀殿は、織田家の暴政を一人で背負い、我が身を犠牲にして天下に平穏をもたらそうとされたお方だ。この徳川家康、光秀殿の切腹など断じて許さぬ!」
「家康殿ぉ……頼むから余計な庇い方をしないでくれ……」
光秀は泣きそうな顔で手をついた。
「わしはただ、静かに死にたいのだ! 上様を殺した責任を取って、綺麗に消えたいんじゃ! なんでわしを生かそうとするのじゃ!」
秀吉が頭を抱えて叫んだ。
「当たり前じゃろ! お前が今勝手に死んだら、わしが『追い詰めて自害させた悪者』になるじゃろうが! 上様の仇を討ち、主導権を握るというわしの野望がお前のせいで台無しじゃ! 頼むから、ちょっとでええから『天下を奪う野望』を持ってくれ! そして正々堂々戦ってくれ!」
「断る!! どうせあの夢のとおりになるのだ!野望なんて持つだけ無駄じゃ!」
光秀は腕を組み、ぷいっと横を向いた。
「わしはもう、明智家の全財産を家臣と領民に分け与えた。軍も解散した。今のわしは、ただの『死に損ない』だ。天下なんて誰かが好きにすれば良い。勝家殿がやるなり、お前がやるなり、家康殿がやるなり、誰でも良いから好きにしろ!」
「「………………」」
秀吉と家康は顔を見合わせた。
光秀は、完全に「降りて」いる。
権力欲も、保身も、生存本能すら投げ捨てている。
欲がない人間ほど、交渉において強いものはない。何を脅しても、何を吊り下げても、一切動じないのだから。
「……光秀殿」
家康が静かに言った。
「あなたが天下を望まぬというなら……我らで織田家をどうすべきか、話し合わねばなりませぬ。信長公も信忠公も亡くなられた今、織田家は分裂の危機にあります」
「知らんよ。好きに分裂すれば良いじゃないか」
「しかし、それでは天下が再び戦乱に逆戻りします!」
「知らんと言っているだろう! あとは野となれ山となれだ!!」
光秀の逆ギレ一閃。
天下の英傑である家康と秀吉が、光秀のあまりの「全投げっぷり」に気圧されて黙り込んでしまった。
第五章:歴史はどこへ向かうのか
本能寺跡地の三者面談は、何一つ結論が出ないまま夜を迎えた。
死にたい光秀。
光秀を盾にして主導権を握りたい家康。
仇討ちに失敗し、面目を潰されて詰んでいる秀吉。
さらにそこへ、北陸から越前の柴田勝家が「上様の仇……? いや、光秀の告発状は本当か……?」と疑心暗鬼のまま大軍を率いて京へ向かい始めているという報せが入る。
「……ハァ」
夜、陣幕の中で月を見上げながら、光秀は深いため息をついた。
隣に寄り添う煕子が、優しく肩を叩く。
「殿。なかなか死ねませんね」
「困ったものだ、煕子……。夢のとおり(史実通り)に滅びるのが、一番楽だったのかもしれん」
「ふふっ。ですが殿、今の殿は、信長様にお仕えしていた頃よりも、ずっと生き生きとしていらっしゃいますよ」
「バカ言え。わしは早く楽になりたいんだ」
光秀は苦笑しながら、盃の酒を飲み干した。
正夢を見て、運命を変えようとしたわけではない。
ただ「惨めに死ぬのが嫌だから、開き直って全投げした」だけなのだ。
なのに、なぜか滅亡へ向かうどころか、光秀を中心に狂ったような迷走を続けている。
「……まぁ、良いか」
光秀は空になった盃を置き、不敵にニヤリと笑った。
「どうせ一度は捨てるはずだった命だ。織田家がどうなろうと、秀吉が困り果てようと、家康が暴走しようと……わしの知ったことではない。存分に狂うが良い!」
開き直った光秀の「終活」は、ついに天下全体を巻き込む巨大な渦となっていた。
誰も死なせてくれず、誰も天下を取れず、ただ光秀の狂気に全員が翻弄される——前代未聞の戦国IFノベルは、更なる混沌の第五話へと続いていくのだった。




