第二話 全財産大還元と困惑する日和見たち
第一章:細川父子に届いた「退職金」と絶交状
天正十年(一五八二年)六月三日。丹後国・宮津城。
細川藤孝(幽斎)とその息・忠興は、早朝から書斎で絶句していた。
京都での本能寺の変——織田信長・信忠父子の討死という前代未聞の凶報が届いた直後のことである。
「父上……これはいかなることにございますか」
忠興の手は震えていた。
目の前の机の上には、光秀の使者が届けてきた重々しい文箱と、そこから溢れんばかりの金・銀、そして名刀や茶器の目録がうずたかく積まれていた。
藤孝は青ざめた顔で、光秀の直筆と思われる書状を何度も読み返した。
『藤孝殿、忠興殿。
驚かせたな。わしは本能寺にて上様・織田信長を討ち取った。
お前たちとは長年親交があり、忠興殿には娘の玉(細川ガラシャ)を嫁がせているゆえ、本来ならば「我に味方せよ」と頼むのが筋であろう。
しかし、断る。味方などになるな』
「……断る……?」
忠興が素頓狂な声を上げた。
文はさらに続いていた。
『上様を討った理由は単純、家臣を使い捨てる過酷な主であったからだ。我らはやられる前にやった。天下を奪う気など毛頭ない。
お前たちを巻き込めば、細川家まで逆賊として滅んでしまう。ゆえに、本日をもって細川家と明智家の縁を切る。玉は離縁して送り返すか、幽閉するなり好きにせよ。
ここにある金銀と茶器は、これまで付き合ってくれたお礼だ。好きに使うが良い。
お前たちは直ちに髪を切り、亡き上様の喪に服して見せよ。そしてわしを討つための兵を挙げるフリをしておけば、次の天下人に疑われずに済む。
わしは坂本城で全財産を処分した後、本能寺跡地で潔く腹を切る。追撃の必要もない。高みの見物を決め込むが良い。さらばだ。 光秀』
「な……な……な……!」
藤孝は書状を抱えたまま、ガタガタと震え出した。
「なんなのだ、これはーっ!!???」
宮津城の広間に、藤孝の悲鳴が轟いた。
夢(史実)では、光秀は細川父子に「味方になってくれ、さもなくば頼むから中立を守ってくれ」と必死の懇願状を送るはずであった。細川父子は光秀を見限り、頭を丸めて信長への忠誠を示し、秀吉側につくことで生き残りを図るはずだったのだ。
だが、光秀から送られてきたのは懇願ではなく「絶交通知」と「手切金」であった。
「父上! 光秀殿は我らを裏切るどころか、巻き込まないために自ら縁を切ると言っておられるのですか!?」
「それだけではない! 『喪に服して自分を討つフリをしろ』と助言までしてきているのだぞ!? 意味が分からん! 意味が分からんぞ光秀殿!!」
藤孝は頭を抱えた。
もしここで光秀を討つために挙兵すれば、「金だけ受け取って旧友を裏切った汚い奴」と思われる。
かといって光秀に味方しようにも、当の光秀が「味方になるな、腹を切るから放置しろ」と言っているのだ。
「どうすればいいのだ……! 討つべきなのか? 助けるべきなのか? それとも文の通りに髪を切って高みの見物を決め込めばいいのか!?」
「父上、玉はどうしますか……!?」
「知らん! 幽閉するにも、光秀殿から『幽閉でも離縁でも好きにしろ』と言われているのだぞ!? 罪悪感で胃が千切れそうだわ!!」
細川父子は、光秀の思わぬ「完璧な配慮」によって、歴史上かつてない心理的泥沼に叩き落とされたのであった。
第二章:筒井順慶、洞ヶ峠でフリーズする
同じ頃、大和国・筒井城。
大和の戦国大名・筒井順慶もまた、自室で頭を抱えて頭髪をむしりとっていた。
「……光秀殿から文が届いたとな?」
「ははっ、それが……」
使者が差し出した文には、案の定、光秀のぶっ飛んだメッセージが記されていた。
『順慶殿。
本能寺で上様・織田信長を討った。お前は今頃、「光秀に味方すべきか、それとも日和見すべきか」と、山城と大和の境あたりで悩んでいることだろう。
大正解だ。お前は賢い。
絶対に動くな。洞ヶ峠あたりに陣を張り、誰が次の天下人になるか静観するのがお前にとって一番得だ。
なんなら、わしを討つために出陣するフリをして、そのまま洞ヶ峠でお茶でも飲んでいろ。
わしは戦う気など無いから、お前が誰につこうが知ったことではない。これでも食べて落ち着け』
文とともに届けられたのは、なんと「高級茶葉」と「京の和菓子」、そして「大量の金・銀」であった。
「………………」
筒井順慶は、和菓子の箱を見つめたまま、完全に固まった。
「順慶様……? いかがいたしましたか?」
「……光秀殿は、わしが日和見することを見抜いた上で……差し入れを送ってきたというのか……?」
「は、はあ……『洞ヶ峠でお茶でも飲んでいろ』と……」
「日和見を……日和見を公認された上に、お茶菓子まで貰ってしまったら……わしはただの『お菓子を貰って日和見した狡猾な奴』になってしまうではないかぁぁぁぁぁっ!!!」
順慶の絶叫が大和の空に響き渡った。
夢(史実)では、順慶は洞ヶ峠に陣を張り、光秀と秀吉の情勢を見極めようとしたことで「洞ヶ峠の日和見」と後世まで嘲笑されることとなる。
だが、今回は光秀から「日和見してお茶でも飲んでろ」とお墨付きとお菓子を貰ってしまったのだ。
「動けん……! 動いたら光秀殿の罠(?)にハマる! だが動かないと、ただお菓子を食べて日和見した愚者になる! 光秀殿、貴殿はどれだけ恐ろしい軍略家なんだ!!」
光秀に深謀遠慮などない。ただ「どうせ裏切られるなら先手を打ってお菓子をあげよう」という軽い気持ちだったのだが、順慶は光秀の底知れぬ狂気に恐怖し、完全に身動きが取れなくなってしまった。
第三章:坂本城・大還元と家臣たちの暴動
六月四日、近江・坂本城。
琵琶湖の畔に佇む天下の名城・坂本城は、かつてない喧騒に包まれていた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 明智家・天下の大還元だぞ!」
城門の前で、明智家の重臣・明智秀満が大声で呼びかけている。
城の蔵からは、光秀が長年蓄え込んできた金銀財宝、米俵、織物、武具、そして信長から下された名品・茶器に至るまで、あらゆる物資が運び出されていた。
「光秀様からの感謝の印だ! 領民の皆には米を一人三石! 町衆には金を配る! 持ってけ持ってけー!」
「「「うおおおおおおおおおおっ!?」」」
押し寄せた領民や町衆は大歓喜である。
「明智様は神様ではないか!!」
「織田様は比叡山を焼き払ったが、明智様は米と金をくれるぞ!」
「明智様万歳! 明智様を死なせてはならぬーっ!」
京や近江の各地で、なぜか「光秀推し」の大ムーブメントが発生し始めていた。
一方、城内では別の「暴動」が起きていた。
「殿! 冗談も大概にしてくだされ!!」
光秀の部屋に踏み込んできたのは、側近の斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝ら、明智家の誇る猛者たちであった。
光秀はのんきに死に装束を整えながら、首を傾げた。
「なんだ利三、騒々しい。お前たちの分(金と米と領地の譲渡書)は、さっき渡したはずだぞ? 早く家族を連れて東北なり九州なりへ逃げろ」
「逃げられるわけがないでしょうが!!!」
利三が畳に拳を叩きつけた。
「殿! こんな膨大な金と米を渡されて『はいさようなら』と離れる家臣がどこにいますか! 武士の意地というものを舐めないでいただきたい!」
「いや、意地とかどうでもいいから……。わしは腹を切るんだよ? お前たちまで付き合う必要はないじゃないか。命は大切にしろ」
「嫌です!!」
藤田行政も叫んだ。
「殿が本能寺跡地で腹を切るというなら、我らも隣で腹を切ります!」
「はぁ!? なんでだ! お前たちにはこれからが、明日があるだろうが!」
「殿が我らを思って全財産を分け与えてくださった……その大恩を捨てて生き残るなど、武士の恥でございます! 我ら明智家重臣、最後まで殿と添い遂げますぞ!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
重臣たちが一斉にエイエイオーと勝ちどきを上げた。
光秀は顔をひきつらせた。
(嘘だろ……!? 全財産をあげて『解散!』って言えば、みんな喜んで逃げると思ってたのに……! なんで逆に絆が深まって士気が最高潮になってるんだよ!!)
光秀の「全投げ計画」は、家臣たちの義理深さと熱意によって、早くも意図しない方向へ暴走し始めていた。
第四章:全国へ散布された「ノッブ ブラック告発状」
六月五日。
光秀が飛ばした草の者・伝令たちは、日本全国の大名や国人のもとへ「ある文書」を届け終えていた。
後に歴史家たちが『明智光秀・天下大暴露状』と呼ぶことになるその手紙は、受け取った大名たちを激しい混乱と疑心暗鬼に陥れた。
【北陸:柴田勝家】
「な……何だと……!? 上様が光秀に討たれた……!?」
越中で上杉軍と対峙していた柴田勝家は、文を読んで呆然とした。
『勝家殿。上様を討った。あの人は家臣を使い捨てにする主だった。次は勝家殿、お前が追放される番だったぞ。わしは一足先に逃げ切る(自害する)が、お前も秀吉に気をつけるが良い。あいつは化け物だ。追伸:勝家殿のヒゲは格好良かったぞ』
「ひ、ヒゲ……? 光秀の奴、何を書いているのだ!? というか、わしを追放だと……!? 上様が……まさか……」
勝家は激しい疑心暗鬼に囚われ、上杉攻めどころではなくなってしまった。
【徳川家康】
堺を観光中だった徳川家康は、三河へ向かう伊賀越えの準備をしながら文を開いた。
『家康殿。上様を討った。お前が信康殿(長男)を殺された恨み、わしはよく知っている。これで少しは胸のすく思いがしたであろう。
伊賀越えは危険だ。逃げるなら堺から船を使うと良い。手配しておく。紀伊の雑賀衆や堀内殿にも金をばらまいて置いた。海で襲われる事はないだろう。わしは間もなく死ぬが、家康殿は生き残って天下をお取りなさい。応援している』
「光秀殿……! そこまでわしのことを気遣ってくださっていたのか……!?」
家康は感涙にむせんだ。
「伊賀越えなどという危険な真似はやめだ! 光秀殿の言うとおり堺から海路で三河へ帰るぞ! そして……光秀殿を助けるべきか!?」
本多忠勝が止めた。「殿! 文には『助けるな、死ぬから放置しろ』と書いてあります!」
「なんなのだ光秀殿はーっ!!」
第五章:秀吉、絶句する
六月六日。備中高松城の陣所。
「羽柴様! 大事にてございます!!」
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のもとへ、黒田官兵衛が血相を変えて飛び込んできた。
「どうした官兵衛! 上様が討たれたのは確実か!? よし、急ぎ毛利と和睦を結び、京へ取って返すぞ! 光秀を討って、わしが次の天下人になる!」
秀吉はギラギラとした野心を燃やしていた。史実通りの「中国大返し」のスタートである。
しかし、官兵衛の顔色は妙に青ざめていた。
「秀吉様……それが、毛利側が和睦の条件を急に変更してまいりまして……」
「なに? 渋っておるのか? 上様の死を察知されたか?」
「いえ……そうではなく。毛利輝元様と小早川隆景様のもとへ、光秀から文が届いたそうなのです」
「……光秀から? 毛利に味方になれと乞うたのか?」
「いえ……」
官兵衛は震える手で、毛利から送られてきた光秀の手紙の写しを広げた。
『毛利輝元殿、小早川殿。
信長を討った。秀吉は急いで和睦を結んで京へ戻ろうとするだろう。
だが、和睦など結ぶ必要はない。秀吉の背後を襲うなり、放置して干上がらせるなり好きにするが良い。
わしは京で全財産を配って自害するゆえ、秀吉が京に来ても戦う相手はいない。秀吉は勝手に一人で空回りして自滅するはずだ。高みの見物を決め込め』
「……………………は?」
秀吉の思考が完全に停止した。
「光秀が……全財産を配って……自害する……?」
「はい。さらに、明智の兵は全員が金を受け取って軍は解散、光秀本人は本能寺の跡地に死に装束で座り込んでいるとのこと……」
「戦う気は……無いのか……?」
「はい。無いようです。光秀は『討たれるのは癪だから、一番最初に来たヤツの前で勝手に腹を切る』と言っているそうで……」
秀吉の顔から血の気が引いていった。
もし光秀が軍を結集して待ち構えていれば、それを撃破して「仇討ちの英雄」として天下に名乗りを上げることができる。
だが、光秀が「戦わずに勝手に腹を切って死んだ」場合、どうなるか?
秀吉は、ただ「和睦を急いで戻ってきたのに、何もせずポカンと立っている男」になってしまうのだ。
しかも毛利は光秀の文を読んで「あ、秀吉さんって和睦急いでるけど、光秀もう死にそうだから和睦に応じる必要なくね?」と気づき、和睦交渉を完全にストップさせてしまった。
「光秀ぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
備中の陣所に、秀吉の怒りと困惑の絶叫が響き渡った。
「何を考えているんだアイツはーっ!! 戦え! 天下を狙え! なんで勝手に死に装束着て座っているんじゃ!!」
光秀の「開き直り全投げ戦略」は、天下を狙う大野心家・羽柴秀吉の計算を、完璧に、そして根底から粉砕したのであった。




