第一話 夢の終わりと開き直りの始まり
第一章:甲州の風と、悪夢の目覚め
天正十年(一五八二年)三月。
武田家が滅び、甲斐の地に春の冷たい風が吹き抜けていた。
恵林寺が炎に包まれ、織田信長の天下はいよいよ盤石のものとなろうとしている。その喧騒のなか、自陣で就寝していた明智光秀は、深い汗をかいて目を覚ました。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
荒い息を吐いては、それが消えていく。
光秀は跳び起き、己の両手を見つめた。爪が掌に食い込み、血の味が口中に広がる。
「夢……か? いや、あれは……」
光秀の脳裏には、あまりにも鮮明で、あまりにも残酷な「未来」の記憶が焼き付いていた。
それは、正夢と確認が持てるものであった。あまりに鮮明すぎた。
(数ヶ月後、わしは本能寺で上様を討つ。……それは良い。討つべくして討つのだ。だが……その先だ)
光秀は青ざめた顔で額の汗を拭った。
夢の中で、光秀は確かに信長を討ち取った。長年、四国・長宗我部家との取次を務めてきた己の面目を叩き潰され、古くからの重臣たちが次々と追放されていく恐怖に耐えかね、一か八かの賭けに出たのだ。
だが、その後に待っていたのは、哀れなまでの惨敗であった。
信じ切っていた細川藤孝、筒井順慶ら与力大名の冷酷な裏切り。
中国大返しと呼ばれる、羽柴秀吉の常軌を逸した行軍。
山崎の戦いでのあっけない敗北。
そして・・・小栗栖の竹藪で、泥にまみれ、落ち武者狩りの百姓が突き出した竹槍に刺さって命を落とす、惨めすぎる己の最期。
さらに夢は続いた。
明智家は嫡男:光慶も討死し、あっけなく滅亡。
光秀の屍を越えて天下を奪ったのは、あの「猿」こと羽柴秀吉。
賤ヶ岳で柴田勝家を破り、小牧・長久手で徳川家康と引き分け、四国、九州、小田原・北条家を呑み込み、天下人へ。
しかし秀吉が死ねば、今度は徳川家康が関ヶ原で勝ち、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、江戸に幕府を開く。
「……三日天下、だと?」
光秀の唇から、苦い笑いが漏れた。
「わしが……わしが猿の出世の踏み台になり、最後は竹槍で突かれて死ぬだと? 明智の家も、煕子も、光慶もすべてを道連れにして滅びるというのか……!?」
光秀は立ち上がり、あてもなく彷徨った。
今年で五十五歳。己の人生は何だったのか。美濃を追われ、越前で足軽衆に甘んじ、将軍・足利義昭と信長の間を東奔西走し、ようやく勝ち得た近江坂本五万石、丹波一国二十五万石。
それが、あとわずか数ヶ月で、ゴミくずのように消えてなくなるのだ。
「ふざけるな……ふざけるなよ!!」
光秀の胸に怒りが湧き上がった。
信長を殺すのをやめれば助かるのか?
いや、無理だ。信長の頭の中にあるのは、織田一門による天下の独占と、不要になった功臣の粛清だ。佐久間信盛も、林秀貞も捨てられた。次は柴田か、徳川か、それともこの明智光秀か。遅かれ早かれ、家が潰される運命に変わりはない。
「殺さねばやられる。だが、殺せば滅びる……」
詰みだ。完璧な詰みである。
光秀は膝から崩れ落ちそうになった。
その時である。
光秀の脳内で、何かが「ぷつん」と音を立てて切れた。
「……待てよ?」
光秀はぽつりと呟いた。
「どうあがいても滅びるのなら……真面目にやるだけ損ではないか?」
そうだ。なぜわしは、討ち取った後に「天下人」になろうなどと、大それたことを考えたのだ?
与力大名に頭を下げて味方になれと乞い、毛利に協力を求め、朝廷に媚びを売り……そんな面倒なことをするから、裏切られて惨めな目にあうのだ。
「滅びが確定しているなら、滅び方くらい好きにさせてもらおうじゃないか」
第二章:開き直りの光秀と、愛妻・煕子
近江・坂本城。
琵琶湖の美しい水面に臨むこの城に帰還した光秀は、まるで憑き物が落ちたかのような清々しい顔をしていた。
「殿、甲州よりお戻りになられてから、急にお顔の色が良くなりましたな」
そう言って微笑んだのは、正室の煕子であった。
若い頃、光秀が貧困に喘ぎ、来客のための宴会費用すら出せなかった時、自慢の黒髪を切り売って金を工面してくれた、献身的な妻である。
「煕子。苦労をかけたな」
「は? 急にどうされたのです、殿」
光秀は優しく煕子の手を握った。
「実はな、煕子。わしは近々、上様を殺す」
「……はい?」
煕子は一瞬、光秀が何を言ったのか理解できない様子で首を傾げた。
「上様……織田信長様を、討ち取るのだ。京・本能寺でな」
「殿……お戯れを。お疲れでお狂いになられたのですか」
「戯れではない。本気だ。そしてな、上様を討ち取った後、わしたち明智家は滅びる」
「は……? 滅びる、のですか?」
光秀は満面の笑みで頷いた。
「そうだ! 中国から戻ってくる秀吉という猿にな、山崎の地で敗れて滅びるのだ。わしは落ち武者狩りの百姓に突き殺される運命らしい」
「殿!!」
煕子は光秀の肩を掴み、必死の様相で叫んだ。
「そのような恐ろしいことが分かっているのなら、なぜ上様をお討ちになるのです!? 討つのをおやめなさればよいではないですか!」
「無理だ。上様のもとにいても、いずれ我らは粛清される。ならば……一思いに上様を道連れにして死んだ方が、せいせいするではないか!」
光秀の目は、恐ろしいほどに澄み渡っていた。狂気と理性が完璧に同居した、絶対的な「開き直り」の目であった。
「煕子、お前に辛い思いはさせん。わしと一緒に、最高の最期を迎えようではないか」
「最高の……最期?」
「そうだ。夢で見た……本来の運命では、わしは泥にまみれて惨めに死ぬ。家臣も領民も巻き込んでな。だが、今回は違う。無駄な抵抗は一切せん!」
光秀は拳を握り締め、熱弁を振るった。
「兵を総動員して秀吉と戦うなどという無駄な戦は放棄する! 兵糧も金銀財宝も、すべて家臣や領民に分け与えて解散だ! そして我ら明智一族は、堂々と本能寺の跡地で死に装束を着て座り込み、一番最初に来た敵の前で、誇り高く腹を切ってやるのだ!」
「は……はあ……」
「どうだ? 落ち武者狩りに首を獲られるより、遥かに風流で、格好が良いとは思わんか!?」
煕子は呆然と夫の顔を見つめた。
かつて真面目で、鬱屈とし、常に織田家の顔色を窺って胃を痛めていた夫の姿は、どこにもなかった。
そこにいるのは、「どうせ死ぬなら楽しんだ者が勝ち」という境地に達した、史上最も厄介な開き直り男であった。
煕子はふっと溜息をつき、やがてクスッと笑みを漏らした。
「……殿がそこまでお決めになられたのなら、私はどこまでもお供いたします。黒髪を売った時から、私の命は殿とともにあるのですから」
「おお、煕子! 捨てたものではないな、人生は!」
光秀は妻を強く抱きしめた。
こうして、明智光秀の「史上最も身勝手で、最も贅沢な終活」がスタートしたのである。
第三章:完璧なる「本能寺」暗殺計画
天正十年五月。
信長から、中国攻めの羽柴秀吉の救援を命じられた光秀は、丹波亀山城にて着々と準備を進めていた。
だが、その準備は史実のそれとは大きく異なっていた。
「殿、徳川殿の饗応役の解任、誠に無念にございます……」
重臣の斎藤利三が、悔しそうに拳を握りしめて報告してくる。信長から「魚が腐っている」と理不尽に罵倒され、饗応役をクビにされた件だ。
史実の光秀なら、ここで屈辱に打ち震え、青ざめていたところだ。
しかし、今の光秀は違った。
「いやあ、実に清々しい! 饗応の費用をこれ以上出さずに済んだのだからな! 浮いた金はすべて家臣たちの手当に回せ!」
「は……? 手当、でございますか?」
「そうだ! 利三、お前にもたっぷり金を渡すぞ。楽しみにしていろ!」
「金……!?」
首を傾げる利三を余所に、光秀は明智秀満、藤田行政、溝尾茂朝ら重臣を集めた。
「皆、よく聞け。六月二日、我らは京・本能寺を急襲し、上様・織田信長を討つ」
重臣たちに激震が走った。
「と、殿! 誠でございますか!?」
「静かにしろ。騒ぐな。討つ理由は単純だ。このまま上様に従っていても、我らは佐久間殿のように使い捨てにされるだけ。やられる前にやる。それだけだ」
利三が身を乗り出した。
「お覚悟、察し申し上げます! 討ち取った後は、迅速に毛利と結び、細川・筒井を味方に引き入れ、天下を……!」
「いや、天下など狙わん」
光秀はあっさりと手を振った。
「は?」
「天下など面倒なものを狙ってどうする。我らは上様を討った後、坂本と亀山にある金をすべて家臣に分け与え、軍を解散する」
「か……解散!?」
明智秀満が素頓狂な声を上げた。
「殿! 狂われましたか! 上様を討てば、織田家臣が怒涛の如く押し寄せてまいりますぞ! 戦わねば我らは全滅です!」
「だから全滅するのだよ、秀満」
光秀はニッコリと微笑んだ。
「信じなくとも良いがわしは正夢を見たのだ。そう、戦っても負けるのだ。夢のとおりなら備中から秀吉が毛利と和議を結んで想定外の速さで戻ってくる。与力は全員裏切る。我らは山崎の地で合戦に及ぶも敗れる。ならば、無駄な血を流す必要がどこにある? 我ら明智の一族だけで本能寺の跡地に座り込み、潔く腹を切る。家臣や足軽たちには金を渡して『家に帰れ』と命じるのだ。これで家臣共は余計な死を迎えずに済む。素晴らしい名案だろう?」
重臣たちは開いた口が塞がらなかった。
主君が、あまりにも堂々と、あまりにも楽しそうに「敗北宣言」をしているのだ。
「殿……本気で言っておられるのですか……?」
「大真面目だ。お前たちにも十分な金を与える。逃げたければ逃げろ。わしと一緒に豪華な死に装束を着て腹を切りたければ、残っても良い。強制はせん!」
光秀のあまりの開き直りぶりに、重臣たちは毒気を抜かれてしまった。
「謀反」という凄惨な響きはどこへやら、まるで『現代の会社の倒産処理』のようなドライで手際の良い雰囲気が漂い始めたのだ。
第四章:敵は本能寺にあり(ただし後は知らん)
天正十年六月一日。
丹波亀山城を出発した一万三千の明智軍は、夜の闇を突いて京都へと向かっていた。
老ノ坂にさしかかった時、光秀は馬を止め、全軍に向かって言い放った。
「全軍、静聴せよ!」
史実では「敵は本能寺にあり!」と叫んだとされる名場面である。
しかし、光秀の口から飛び出したのは、予想を遥かに超える言葉であった。
「我が敵は、本能寺におわす上様・織田信長である! これより本能寺を急襲し、上様を討ち取る!」
ざわ……と兵たちの間に動揺が走る。
「だが、安心しろ! 上様を討った後、お前たちに面倒な追撃戦や合戦などを強いるつもりは一切ない! 上様を殺したら、全軍に金を支給し、解散とする! 故郷へ帰り、田畑を耕して平和に暮らせ!」
「「「えええええええええっ!?」」」
兵士たちから、怒号のような困惑の声が上がった。
「金をもらって帰っていいのか!?」
「上様を殺すのに、お咎めなしで帰っていいのか!?」
「よし、よく分からんが、とりあえず上様を討って金をもらおう!!」
兵士たちの士気は、明智家の未来のためではなく、「早く上様を討って金をもらい、家に帰りたい」という妙な欲望によって最高潮に達した。
天正十年六月二日、未明。
雨が降る京都・本能寺を、一万三千の明智軍が完全に包囲した。
「火を放て! 無駄な駆け引きは無用! 速やかに討ち取れ!」
光秀の指揮は的確かつ冷酷であった。夢で結末を知っているため、油断も迷いも一切ない。
信長が小姓の森蘭丸らとともに奮戦するも、圧倒的兵力差と、異常な戦意で押し寄せる明智兵の前に、あっという間に追い詰められていく。
燃え盛る本能寺の奥で、信長と光秀の視線が交差した。
「光秀……! 貴様、謀反か……! 何ゆえだ、何が不満だったのだ!」
血を流した信長が、鬼のような形相で叫ぶ。
史実の光秀なら、「天下のため」「長宗我部のため」と言い訳を並べ立てたかもしれない。
だが、開き直った光秀は、ニヤリと笑って言い放った。
「不満? ありすぎて言い切れませんな、上様! 労働環境は劣悪、成果を出しても追放の恐怖、取次としての面目は丸潰れ! やられる前にやったまでです!」
「貴様……! 天下を奪う気か! この信長の跡を継げると思っているのか!」
「ハハハハ! 滅相もない! 天下など要りませんよ! あなたを殺したら、わしもすぐに腹を切って死にますから!」
「な……何……!?」
信長は耳を疑った。
天下を狙っての謀反ではないのか?
死ぬために自分を殺しに来たというのか?
「あなたという暴君を連れて冥土へ行く! それがわしの悲願です! さあ上様、お覚悟を!」
「狂っておる…狂っておる…光秀、お前は狂っておるぞ!!」
信長の絶叫が響くなか、本能寺は炎に包まれ、天下人・織田信長はその生涯を閉じた。
同じ頃、二条御所にいた嫡男・織田信忠も、明智軍の圧倒的兵力と戦意によって速やかに討ち取られた。
信長、信忠、同時に死亡。
本能寺の変は、史上最も手際よく、そして最も動機が不純な形で成功してしまったのである。
第五章:嵐の予感(死に装束を準備しながら)
六月二日の朝。
煙を上げる本能寺の跡地で、光秀は首実検を行っていた。
「よし、上様の首と信忠様の首、間違いなしだな。これで仕事の九割は終わりだ」
光秀は満足そうに頷くと、側近の溝尾茂朝を呼び寄せた。
「茂朝。事前に大量に書いておいた書状は持参しておるな?全国の大名、国人、公家、公方様(足利義昭)へ『告発状』を送れ!!」
「書状の中身は告発状でございますか? 『我に味方せよ』という催促状ではなく?」
「そんなもの出してもどうせ裏切られるからな! 告発状の内容はこうだ!」
光秀は胸を張って言い放った。
『織田信長は家臣を使い捨てる酷い主であったため、保身のために討ち取った。天下を奪う気は毛頭ない。どうせ我が明智家はすぐに滅びるので、皆々様におかれては、信長なき後の殺し合いを存分にお楽しみください。追伸:細川藤孝殿、筒井順慶殿、巻き込んでしまってすまん。金は送るから勝手に生きてくれ』
「殿……! このような文章を送れば、全国の大名どもが混乱いたしますぞ!」
「それで良いのだ! 混乱させておけば、わしが腹を切るまでの時間を稼げるからな!」
光秀は笑いが止まらなかった。
夢(史実)では、必死になって味方を集めようとして拒絶され、惨めな思いをした。
だが最初から「味方にならなくていい」と告げれば、相手はどう反応して良いか分からなくなるはずだ。
「さあ、次は坂本城と亀山城の蔵を開け! 金銀財宝をすべて引っ張り出せ! 兵たちへ金の支給を開始するぞ!京の町衆にもばらまいて豪華な食材を買いまくれ!
旨いものを食べながら、誰が最初にここに来るか待とうではないか!!」
「は、ははあっ……!」
光秀の「全投げ」ターンの幕が開いた。
信長を殺し、天下を混沌の渦に叩き落とした張本人が、自分だけはさっさと綺麗サッパリ死ぬ準備を始めている。
この狂気の発想が、やがて羽柴秀吉、徳川家康、柴田勝家、そして毛利輝元ら、全国の戦国大名たちの予測を激しく狂わせていくことを、この時の光秀はまだ知る由もなかった——。




