奇跡と呼ぶにはささやかすぎて(歳の差百合。年上×年下。どちらも成人済。同棲中)
仕事からの帰り道。
(あ~~~どうしよう~~~)
私は、後悔していた。
ちら、と肩にかけたエコバッグを見る。
そこにあるのは、ほかほかのバタール。
小麦とバターのいい香りをずっと漂わせている。
その香ばしく魅惑的な香りに、一瞬後悔は消えかけた。
が。
(欲望に負けてしまった……)
それも一瞬のこと。何せ、このバタールが後悔の原因なのだ。
パン屋さんの前を通ったとき。焼きたての匂いに吸い込まれ、気が付いたら買ってしまっていた。
(今日は、桐子さんお手製カレーライスなのに……)
『楽しみにしててねー!』
数時間前のメッセージを思い出す。キラキラの絵文字とカレーライスの絵文字が付いたそれに、こちらもテンション高く『マッハで帰ります!!!』などと送ったというのに。
(明日の朝食べる? でもこの焼きたてを味わいたいし、味わって欲しい……)
カレーにも合うとは思う。けどきっと、ご飯も炊いてくれているだろう。炊きたてご飯にカレーも素敵。両方食べる? それもありか? その場合バタールを先に? しかしそれは何か、こう……。
答えの出ないまま、二人で暮らす部屋に着いてしまった。
ええい、ままよ。と玄関を開ける。
すると。
「ごめん、芽瑠ちゃん! 晩ごはん、ビーフシチューになった!」
私を出迎えたのは、カレーの匂い……ではなく、デミグラスソースの香り。それから、手を合わせた桐子さんの姿だった。
私は、きょとんとしたあとハッと気が付く。
「よく見たら、ビーフシチューのルウしか無くって」
ごめん~~~! と謝る彼女に「これを」と焼きたてのパンを掲げて見せた。
「!」
桐子さんの目が丸く見開かれる。
「美味しそうで、つい買っちゃった焼きたてバタールです」
ビーフシチューには、ぴったりだ。
「うわ~~~タイミング最高~~~!」
すぐ食べよう! と笑う桐子さんに、「はいっ!」と私も笑顔を返した。
こんなことが、起こるのね。
バッチリのタイミングに、私は先程までの後悔を忘れ、うきうきと洗面所へ向かう。
晩ごはんのシチューとバタールは相性ばっちりで、二人で何度も「美味しいね」と言い合った。
「ささやかで楽しい奇跡」
桐子さんがそう微笑んで、私は少し得意になった。
END.




