26 雲の切れ間、紫陽花の雫 後編
「あおちゃんです。今日からよろしくお願いします」
小学4年生の6月。
また季節外れの転校生がやって来た。髪は短くて耳の下くらいまでしかない。薄手のロングTシャツにショートパンツを着ていて、男の子か女の子かわからないくらいだ。名前からも、ちょっと判別しづらい。かろうじて手に持っている学校かばんがピンク色で、もしかすると女子かもしれないと思えた。
あおちゃんと自己紹介していた性別不明の転校生は、わたしと、窓際にいるりえちゃんとの間にあった空席に座った。あおちゃんはまず、わたしに向かってにっこりと大きな笑顔を向ける。
「はじめまして、あおちゃんです! お隣よろしくお願いします」
大きな頭をぺこりと下げて、それから反対側のりえちゃんにも同じようにあいさつをする。
りえちゃんは無害そうな転校生に、大きくうなづいて、自己紹介を返した。
「りえはりえよ。そっちは美恵」
「わたしだってちゃんとあいさつくらいできますよ! はじめて、あおちゃん。美恵と言います」
おばあさま仕込みのおじぎをすると、あおちゃんは大きな瞳を目一杯広げて、ひまわりみたいに笑った。
「わあ! 素敵なごあいさつですね! あおちゃんも真似させてください!」
いい子だ。
わたしは褒められるのが好きなので、褒めてくれるひとはみんないいひとだと思っている。なので、とっても珍しく自分から話しかけた。
「あおちゃんはどこから来たんですか?」
「んーと、京都ってとこからです」
「そのわりにはなまってないのね?」
りえちゃんの質問に、あおちゃんはへへ、とあいまいに笑う。
「京都にはちょっとしかいなかったので。あおちゃんはいっぱいいろんなとこにお引越ししてるんですよ」
「へえ。りえちゃんと似てますね」
「えっ」
なぜかあおちゃんはとてもびっくりした顔をして、りえちゃんを見た。
「なによ? りえはアメリカとかイギリスとかあちこち行ってただけで、日本のことはこの土地しか知らないわよ?」
「あー……えっと、そうですか……」
あおちゃんはほっとしたような、少し残念なような、どっちつかずの表情を浮かべてから、結局口元を緩める。
「……その。外国とかはあおちゃん行ったことないので! お話聞かせてください!」
「いいけど……」
りえちゃんは少し首を傾げて、一瞬ちらりとわたしの方を見てきた。りえちゃんとアイコンタクトできるほど仲良しじゃないわたしは、りえちゃんがなにに違和感を感じているのか全然わからない。
ただ、あおちゃんという子は、素直で元気な「いい子」だなあと思った。
あおちゃんはわたしやりえちゃんだけじゃなく、クラスメイトにまんべんなく話して回っているようだ。大体のクラスメイトには好意的に受け止められているみたいで、今も短い休憩時間に教室の中央でカードゲームをしている。
「なんか、お客さまっぽい」
りえちゃんが、教室のはじっこにある自分の席からあおちゃんを眺めて、そんなことを言った。
「まだ転校してきたばっかりなんですから、そんなものじゃないですか?」
「いくら転校が多い子でも、普通はあんなに馴染むのに必死にならないんじゃない? 子どものくせに周りのコト気にしすぎ。
まるで、気に入られようとおべっか使うりえの家のお客さまみたい」
そう言う意味での「お客さま」ですか。
たしかに、妙に必死に見えるような気もする。でもそれはちょっと意地悪な見方じゃないですか?
「知らない場所に来たばっかりなら、当たり前だと思いますけど」
「……りえ、新しい場所に行ったからってアンタがあんな風に愛想良くなれるなんて全ッ然思えないんだけど?」
「しないですからね」
興味がないので。わたしはわたしでしかいられませんから。
りえちゃんは軽くため息を吐き出して、手元の図鑑に視線を戻した。りえちゃんは大抵、休憩時間は難しい本や図鑑を広げている。転校してきて一年、結局りえちゃんは「すごく浮いているわけじゃないけど、クラスメイトの輪には入らない子」のポジションに収まった。特別な用事がない限り、りえちゃんに話しかける子はいない。わたしと同じだった。
「まあ、いいわ。考えたってわかることじゃないし。どうだっていい」
「……そうですね」
ほかのひとがなにをどう感じて、どう考えるかなんて、わかりっこないのだ。そんなの大人も子どもも、おばあさまもりえちゃんも、みんな一緒だ。
わたしはふわりとあくびをして、机に突っ伏した。
りえちゃんとは友だちじゃないけれど、近くにいてくれると助かる。わたしはひとりぼっちじゃないと、周囲が思ってくれるから。
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あおちゃんが転校してきて数日が経った。
給食の時間になると、あおちゃんはわたしとりえちゃんに一生懸命話しかけてくる。
「これ! きれいなゼリーですね!」
「紫陽花ゼリーですよ。この時期にしか出てこないデザートです」
「あおちゃんが今までいたとこは七夕ゼリーのとこが多かったです」
「なんか違うの?」
「お星さまの形をしたパイナップルが乗ってます」
名前と見た目が違うだけのほぼ同じゼリーらしい。
「青と赤のゼリーがきらきらしてて、食べるのがもったいないです!」
あおちゃんはそう言いながら、おかずもごはんも全部食べた後、おいしそうにゼリーを食べた。
それから、あおちゃんはぐったりしはじめた。
わたしが見てわかるほど顔色が悪くて、授業中は大きな息をする回数が増えた。
「……あおちゃん、大丈夫ですか?」
さすがに隣の席へ声をかけたけれど、あおちゃんはへにゃりと笑うだけだ。いつもの元気さはどこにもない。
「先生。あおちゃんが具合悪そうです」
りえちゃんが声を上げた。国語の授業をしていた平川先生が、驚いた顔をして近づいてくる。
「保健室には行けそうかな?」
「うーん……じっとしてたら大丈夫ですよ……?」
「りえと美恵がついて行きます」
なんでわたしが、と思っている間にりえちゃんはあおちゃんを立ち上がらせようとして、でもあおちゃんは苦しそうにお腹を抱えてしまった。
これは相当まずそうだ。
「美恵はあおちゃんのかばん持って来て」
「は、はい!」
「保護者のひとに迎えに来てもらえるようにするね」
平川先生がそう言って、教室は騒然となった。それを後ろ目に見ながら、りえちゃんとわたしはあおちゃんを抱えて保健室へ向かう。
二階の教室から保健室のある一階へ降りる階段、その踊り場にある大きな窓から雨が降っているのが見えた。窓に雨粒がぶつかる音も静かな廊下に響いている。朝は曇りだったのに、いつの間に降ってきたんだろう。
「……お迎え、すぐに来るといいですけれど……」
「雨で時間がかかるかもね」
「…………」
わたしたちの声が聞こえているはずのあおちゃんは、なにも言わなかった。
保健室に着くと、あおちゃんは大人しくベッドで横になった。もう声も出さない。
迎えてくれた保健の中村先生はまだ若い男のひとだ。学校を脱走したわたしのことを捕まえに街中を走り回る、大変面倒見の良い先生である。
「様子がおかしくなったのは、給食の後? りえちゃんと美恵ちゃんは同じもの食べた? 吐き気もなし、と。じゃあ食中毒じゃなさそうだな……」
中村先生はあおちゃんの様子を見て、わたしたちにも具合が悪くないか念入りに確認してきた。
「……ちょっと、食べ過ぎただけです……ごめんなさい……」
しょんぼりした様子で、あおちゃんがかすれ声でつぶやいた。
「でも、普通の量でしたよ?」
「……あおちゃん、ほんとはいっぱい食べられないんです……」
小さくしょぼくれた声を出すあおちゃんは、だいぶ気の毒な感じだ。中村先生は笑ったりせずに、真面目な顔でパソコンにメモを入力している。
「食べ過ぎか? 急性胃炎かもな。念のために医者には行ってくれ。ご家族はすぐに迎えに来られそうか?」
「……わかんないです……」
あおちゃんの声は、もう消えてなくなりそうだ。
「……あおちゃん、いい子にしてないと、またどこかに行かないといけなくなるんです……」
えっと思って顔を上げる。けれどあおちゃんはお布団の中に潜ってしまって、表情はわからなかった。
「……あおちゃん、お父さんもお母さんもおばあちゃんも、もういないんです……」
りえちゃんと一緒にびっくりして、お互い顔を見合わせる。
「……いないって、どういうこと?」
「一緒に暮らしてないってコトですか?」
ベッドの上で小さな山をつくるあおちゃんに話しかけると、うう、と震える声が聞こえてきた。
「……あおちゃんのお父さんとお母さんとおばあちゃんは、死んじゃってもうどこにもいないんです……」
りえちゃんと一緒に、息を詰めた。
それが、とってもとっても気の毒なことだと言うのは、わたしにもわかる。
「……だから、たくさん転校したの?」
りえちゃんの珍しくかすれた声に、小さな布団の山がはい、と鳴いた。
「……あおちゃんはもう、お家がないんです。でも、今は親切なひとのところでお世話になってて、できるだけそこに長くいたいなぁと思ってるんです。……転校、いっぱいするのは大変なので……」
わたしはお引っ越しも転校もしたことがない。それがどれだけ大変なことかイメージできないけれど、りえちゃんも中村先生も同情するようにうなずいている。
「……だから、いい子にしてないといけないのに……」
あおちゃんの声が、ついに湿っぽく震えはじめた。
「だから、給食も残さなかったの?」
「はい……。前の学校では、お残しするとお家のひとに連絡されたので……」
そんな学校があるのか。それともそれが普通のことなのか、わたしにはわからない。そもそもわたしのことでおばあさまに連絡が入るのは学校を脱走したりサボりったりした時なので、給食を食べ切るかなんて大した話ではない。
でもあおちゃんは、「いい子にしてお家のひとに迷惑をかけない」ことを目標に精一杯頑張っていたらしい。小さな布団の山がぷるぷる震えて、鼻をすする音が混じる。
「ぅう……またお家のひとに嫌われて、あおちゃん、どっか行くことになっちゃうかもです……」
「……あおちゃん、別に給食残すのは、そんなに悪いことじゃないですよ。おいしくお腹いっぱいいただけたら大丈夫なんです!」
「そうよ。人間の胃袋なんて個体差があって当然なんだから」
りえちゃんも一緒に声掛けすると、布団の山が少し動いて、隙間からあおちゃんの大きな目が見えた。
「……でも、お残しはもったいないからって、怒られます……」
「おうちの人に?」
「前のおうちのひとと、学校の先生……」
別に中村先生のせいじゃないけれど、りえちゃんとふたりでじっとりとした視線を先生へ向けてしまう。中村先生は慌てた様子でベッドへ近づいて、あおちゃんの顔をのぞき込もうと腰を屈めた。
「まぁ、そういう指導方針もあるっちゃあるが……食べ切れる量を給食係のひとに言うのは大事なことだぞ。最初から食べ切れる量にしておけば、残したことにはならないからな」
「あ……そっか……」
あおちゃんは、今気がついた、みたいに目を丸くして、瞳をうるませた。
「でも……お手間では……? あおちゃんは、どこの子でもないので、お手間をかけるとどこかにやられちゃうんです……」
先生はなにか言葉を探しているようだったけれど、結局ため息を吐き出すだけで姿勢を元に戻した。あおちゃんが今どんな環境にいるのかわからないので、適当なことは言えないと思ったのかもしれない。わたしやりえちゃんの家みたいに、いろんな事情があるものだ。
「……今のご家族も、お残ししたら怒るんですか?」
今一番確認しておきたいことを訊ねると、あおちゃんは布団からちょっと出した顔を、こてんと傾げる。
「……わかんないです……星野さんの前ではお残ししたことないので……」
「じゃあ、普段から食べ過ぎてたってコト?」
「……まだ星野さんのとこに来てちょっとしか経ってなくて……でも、言われてみれば、星野さんはあおちゃんに毎回ごはんの量を訊いてくれてますね」
それを聞いて、3人でほっとした。「星野さん」はあおちゃんと全然違う苗字だけど、あおちゃんに親切にしてくれているみたいだ。
「……じゃあ、お家では大丈夫なんだな?」
「はい! ……でも、星野さんは一人暮らしでおしごとが忙しいので、お迎えは難しいと思います。……星野さんは本当に親切なので、あおちゃん、迷惑かけたくないです……」
「うーん。もしお迎えが難しそうなら、放課後俺が病院に連れて行くか?」
「りえが連れてってあげる。アケチに運ばせるわ」
「いやぁ、それだと学校側もなにかあった時に責任取れんし。ちょっと時間はかかるが、待てるか?」
「はい。お休みしたら、きっと大丈夫になります」
そう言うあおちゃんは、やっぱりまだしおしおのままだ。
でも、いつも元気いっぱいだったのが空元気だとわかると、正直、少しほっとした。りえちゃんが前に言ってたみたいな「いい子」でいられるより、こんな風に正直に落ち込んでくれた方がマシだと思った。
──でも。
「……あおちゃんは、えらいですね」
思わず気持ちが口から漏れた。あおちゃんは弱々しい様子でびっくりする。
「え? どこがです? あおちゃん、いっぱいいろんなひとにご迷惑をおかけしてます……」
「そんなの、わたしもですから。でもわたしは、泣いちゃうほどおばあさまに申し訳ないと思ったこと、ないです」
「マジでアンタは思った方がいいわよ?」
「学校脱走するのは本当に反省しろよ?」
「でも、誰もわたしのこと『どっか行っちゃえ』なんて思ったりしません。わたし、それが当たり前だと思ってましたけれど、そうじゃないんですね。
そうじゃない場所で、あおちゃんはすごく頑張ってたんですね。だから、それはすっごくえらいことだと思います」
本当にそう思って、尊敬の気持ちを込めてあおちゃんを見た。大きな目だけ見えているあおちゃんは、なんだか居心地悪そうに視線をあちこちに向ける。
「えと……あおちゃん、そんなえらくないです……」
「えらいです! わたしにはできません!」
「断言したわね。……まあ、りえもだけど。追い出されたらその時はその時って思うし、警察とか施設とかに行けば死ぬコトはないだろうし」
「この子たち逞しいなぁ……でも、あおちゃんがすごく頑張ってるのは、大人だってすごいことだと思う。学校ではいい子にしてることも大事だし、教諭側からするとありがたいのは間違いないんだが……でも、やっぱり子どもたちはのびのび過ごして大きくなって欲しいと思う。あおちゃんがお家でそう振る舞えないなら、学校では自由にしていてほしいと思う」
「はい! わたしものびのび自由にさせてもらっています!」
「ただ、美恵ちゃんだけは見習わないでくれ」
あおちゃんは、ずっと居心地悪そうに布団の中でごそごそと動いている。あんまり褒められるのに慣れていないみたいに見えた。
「んと……ありがとう、ございます……へへ……なんか、そんなこと言われたのが久しぶりなので、ちょっとどきどきしちゃいますね……」
うれしそうに照れたあおちゃんを見て、ようやくほっとできた。あおちゃんが思うように振るまってほしいのは本当だけれど、やっぱり、元気なあおちゃんが一番かわいい。
「……いつまでここにいられるかわからないあおちゃんですが、美恵ちゃんもりえちゃんも、仲良くしてくれるとうれしいです……」
あっ、またしおれた!
お腹が痛くて、しおしお思考に陥っているのだろう。そんな状態でも、わたしと仲良くしたいと言うのなら、それはきっと本心からだ。
心から、わたしとお友だちになりたいと、思ってくれているんだ。
それって、すごい。あおちゃんはやっぱり、すごい。
あおちゃんは今いるお家から離れたくなくて、わたしたちとも離れたくなくて、ずっと我慢してきたのだ。そんなのわたしはしたことがない。お父さまとお母さまだって、してなかった。
誰かと一緒にいたいと思って、頑張ってきたのだ。それは、すごいことだ。
そんなすごいあおちゃんとお友だちになれたらうれしいだろうな、と思った。
そんなことを考えていたら、ふいに廊下が騒がしくなった。聞き覚えのない男のひとの低い声が聞こえてくる。
「今学校に着いた。校門に車回しとけ──おい、無事か⁈」
なぜかインカムを耳につけた厳つい大男さんが、がらりと保健室の扉を滑らせた。
鋭い目つき、オールバックに整えられた黒い髪、細身のスーツのはずなのにすごく筋肉が付いているように見える。スーツはもちろん黒。
えっ、普通に怖いです。
さすがのりえちゃんも一目見て固まった。子どもなら本能的に関わっちゃダメだと思う類の大人だ。つまり、ヤのつく自由業のひとか、夜中にお姉さんと街を歩いているひと。おばあさまが大嫌いな類のひとである。
でもその怖いお兄さんを見て、あおちゃんは大きな目をさらにまんまるにした。
「……星野さん……?」
「起きてんのか? なんだ、悪いモン食ったか?」
お兄さんはそう言って、あおちゃんの顔をのぞき込んで、布団を一度めくってちゃんとあおちゃんの体をベッドに横たえた。なんだか妙に手慣れているように見えるけれど、あったかい仕草というにはあんまりテキパキしていて、そういうことをするおしごとなのかなと感じた。ヤのつく自由業のひとではなさそうだ。
「保護者の星野さん?」
「……はい」
中村先生の声に、星野さんは振り返って深々と頭を下げた。お辞儀の角度もきれいで、おばあさまが好きな感じだった。
よく見ると、スーツが濃い色に変わっている。びしょ濡れというわけでもないので、車で来て校門から走って来たんじゃないだろうか。
「あおちゃん、給食の後から具合が悪くなっちゃったんですよ。ほかの児童は大丈夫なんで、食中毒とかはないと思いますが、アレルギーなんかあったりしますか?」
「……ない、とは聞いてますが……」
星野さんはベッドのあおちゃんへ視線を向ける。あおちゃんは首を一生懸命左右に振った。
「あの! 給食を食べ過ぎちゃっただけなんです! ほんとです!」
「……食が細いとは思っちゃいたが……」
星野さんはそう言いながら、どこかほっとしているようだった。
「……車待たせてある。一応、病院行くぞ」
「えっと……その……なんで、お迎え……こんな早く……?」
あおちゃんは、お迎え自体が難しいと思っていた星野さんの、スピーディーな動きに驚いているみたいだった。確かに平川先生が連絡をして30分ほどしか経っていないと思う。
「近くでしごとだったんだよ。事情を説明したら、車貸してもらえた。お前病院に連れて行ったらまた現場に戻る」
「それは……大変なご迷惑を……」
「あ?」
星野さんはあおちゃんを睨みつけて、悪いひとがするみたいにその目を近づける。
「ガキが大人に迷惑かけんのは当たり前だろうが。そうやって方々に迷惑かけて大人になって、次のガキの迷惑に備えんのが社会ってヤツなんだよ」
「……」
あおちゃんは、息が止まったみたいに動かなくなって、かすれた声で星野さんに訊ねた。
「……あおちゃん、ご迷惑をおかけしても、いいんです……?」
「少なくとも、命にかかわらんご迷惑ならな」
星野さんはそう言って、あおちゃんを抱き上げた。あおちゃんも星野さんの首に両腕をしっかりと巻きつけて、声を上げて、泣いた。
「うえええぇぇええぇぇん! ほしのさぁああん!」
「うお! お前、泣くのはいいが耳元でデカい声出すな!」
「ゔえ゙ええぇぇええ゙ぇぇええええぇえ゙ん!」
酷くなった泣き声に、星野さんはもうなにも言わない。ようやくわたしとりえちゃんを見つけて、軽く会釈をしてくれた。
「……それ、コイツのかばんか?」
「は、はい」
星野さんにあおちゃんのかばんを手渡すと、星野さんはわたしに薄く笑いかけてくれた。愛想笑いかもしれないけれど、悪い感じはしない。子どもの扱いが特別苦手なタイプというわけでもないらしい。
「ありがとな。コイツに付き添ってくれて」
「え、あ、はい」
戸惑っている間に、星野さんはさっさとあおちゃんを片手で抱き上げて、もう片方の手でかばんを持って保健室から出て行ってしまった。
台風みたいなひとだと思った。
「はー、えらい男前なひとだったなぁ」
中村先生もびっくりしたようにあごをさすって閉じられた扉を眺めた。ちなみに、中村先生もまだお兄さんで通じる年齢だと思われるので、星野さんと同じくらいの年ごろかもしれない。
「じゃ、ふたりは授業戻りな」
「はーい」
「はい」
りえちゃんとふたりでニ階の校舎に戻る途中、階段の踊り場から星野さんのと思われる黒塗りの車が去っていくのが見えた。やっぱり星野さんはヤのつく自由業なんだろうか。
「……ねえ、りえちゃん。去年くらいに、大雨が降って家族にお迎えに来てもらうことあったじゃないですか。わたしたちは一緒に帰りましたけど」
「……ああ。あったわね、そんなコト」
「あの時、アケチくんは一時間くらいでお迎えに来てくれてました。アケチくんより星野さんは早かったですね」
「なによ。アケチがサボってたって言うの?」
「まさか。……いいなあ、と思っただけですよ」
この「いいなあ」は、すごいなぁの意味だ。あおちゃんと星野さんが実際にどんな関係なのかはわからないけれど、きっとあおちゃんにとっては馴染みのない大人だったはずだ。だから迷惑をかけないようにお利口にしていた。
でも星野さんは、そういう子のことを、少なくとも守ろうとしてくれている。
すごい大人のひとだなあ。
すぐに迎えに来てくれる大人のひとがいるって、すごいなぁ。
これは、うらやましいなあ、も少し混じっているかもしれない。
立ち止まって踊り場の外を眺めるわたしに、りえちゃんは付き合ってくれている。
「……あおちゃん、しばらくここにいてくれますかね?」
「……どうかしら。子どものりえたちが口挟めるコトじゃないけど……でも、そうね。ここにいる間は、一緒にいればいいんじゃない?
りえたち、友だちなんだから」
振り返ってりえちゃんを見ると、自信満々に笑っている。
「……お友だち……」
「なによ、違うの?」
あおちゃんは、仲良くしてほしいと言ってくれた。わたしも仲良くしたい。お友だちになりたい。
「……りえちゃんも?」
「はぁ?」
りえちゃんは可愛い顔を思い切り歪めて、青虫を見るみたいな目でわたしを見た。
「そうに決まってるでしょ。でなかったら、りえはなんでココにいるのよ?」
当然のように言われて、わたしは、笑った。
「……そうですねぇ」
りえちゃんは正直で、自分の気持ちに素直だから。
きっとわたしはもう、お友だちのことでがっかりなんてしない。
「今度紫陽花ゼリーが出てきたら、あおちゃんと半分こしましょう」
「そうね」
ふたりでもう一度窓を見ると、雨粒はずいぶん小さくなって、灰色の雲から陽の光が差して校庭の紫陽花を照らしていた。
わたしもよく食べ過ぎてお腹痛くなります。
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