25 雲の切れ間、紫陽花の雫 前編
りえちゃんが学校に来たのは、小学3年生の6月だった。
雨が続く教室内はLED灯が白く光っていて、その真下に立つ女の子は薄い肌色が光っているみたいに見えた。大きな瞳がゆっくりと室内を見渡して、その動きにあわせてツインテールにした茶色っぽい髪もゆらゆらと揺れる。そのたびにクラスメイトはざわめいた。
季節外れの転校生である以上に、その子はびっくりするほどかわいかったのだ。
「りえちゃんはアメリカから来ました。まだ日本の小学校のルールに慣れていないところもあるから、みんなで教えてあげてね」
担任の先生がそう言うと、ざわめきはますます大きくなる。おばあさまが選んだ学校なので、留学生や帰国子女は時々いる。でも途中編入はやっぱり珍しくて、気の良いクラスメイトが、色々教えてあげて仲良くなりたいな、なんて言っているのが聞こえてきた。
わたしは興味ないですけど。
転校生も帰国子女も美少女も。ぜーんぶわたしには関係ない。早く授業が終わらないかな。放課後に音楽室を使わせてもらえる予定だった。
それなのに、転入生はあろうことかわたしの隣の席に座った。そう言えば隣の席空いてたっけ。教室の窓側、一番後ろの席に座った転校生はこちらをじっと見て、
「……アンタ、古美術商のとこの子でしょ?」
と言った。
思わず舌打ちしそうなのを堪えたけれど、顔はしわしわになっていたと思う。
「……おばあさまのお客さまですか……」
「っていうか、アンタ昔どこかのお茶会で会ったことあるでしょ。その黒髪、りえ覚えてるもの」
わたしの髪は長くてつやつやしていて、まっすぐのさらさらだ。ちょっと自慢に思っていることのひとつで、彼女が覚えているのもわからないではない。天使の輪っかがついた黒髪を覚えていたのだろう。
「……わたしは美恵と言います」
「ああ、そうだったわね。りえはさっきみんなに自己紹介したから省くわ」
りえちゃんはそれだけ言って、カバンから教科書を取り出す。真面目に次の授業の準備をしているらしい。むやみに距離を縮めてくるつもりはないみたいだ。それはちょっと有り難い。
わたしは、あんまりお友だちと仲良くするのは得意じゃない。
いくら昔に会ったことがあるらしくても、わたしにとってりえちゃんは知らない子だし、きっとりえちゃんにとっても、ただ素性がわかるだけのクラスメイトだったのだろう。隣の席のクラスメイトの名前くらいは知っておきたい気持ちもあったかもしれない。
わたしはほっとひと息吐き出して、机に突っ伏した。眠いわけではないけれど、目をつむっておきたかった。
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今日も灰色の空からしとしとと雨が降っている。梅雨時なので当然だ。
わたしは雨の日が嫌いじゃなかった。
学校に行く途中の道はコンクリートで埋められた道路で、ねずみ色をしたそれを桜と銀杏の街路樹が青っぽく飾っていた。街路樹の葉っぱから垂れる大粒の雫はきらりと光って、古い道路にいくつもできた大きな水たまりに吸い込まれていく。
そしてわたしも吸い込まれた。
水たまり中に飛び込みながら歩くのが楽しいのだ。長靴で踏み込んだ水たまりは大きく揺れて、しぶきがばしゃりと跳ねて暗い朝に宝石をばら撒くみたいにきらきらと雨水が散らばる。
おばあさまに買ってもらった長靴と傘はしっかりしたつくりで、いくら濡れてもへっちゃらだ。明るいグリーンの傘と長靴は雨の日にしか出番のないコたちなので、こうして毎日使えるのは悪くないと思っている。
水たまりをぱしゃぱしゃと渡り歩いていたら、後ろから同じ小学校に通う子たちがわたしを追い抜いていった。ちらちらとした視線を感じるけれど、気にしない。あの子たちがわたしをどう思うか、わたしには関係がないから。
校門にたどり着くと、ちょうどりえちゃんが車から降りてくるところだった。雨の日でもぴかぴかと輝く黒塗りの車は見るからに立派で、そこから降りてくるりえちゃんは学校中から注目されていた。
車から降りてきたりえちゃんと、ちょうど目があう。
「……おはよう」
「……おはようございます」
りえちゃんの大きな瞳は、ほかのクラスメイトと全然違う。まるで大人みたいに静かで、周囲を警戒している。
りえちゃんはとくにわたしと絡もうとはしなかった。あいさつだけして、ひとりで校舎へ歩いて行く。わたしは、行き先が同じなのはわかっているけど、ちょっとだけ離れた場所からりえちゃんの後ろをついて歩いた。
その日の昼食。
給食のデザートが紫陽花ゼリーだった。青と紫で色付けられたゼリーが細かく刻まれて白いパンナコッタの上に乗せられている。教室のLED灯の下でもキラキラして見えるそれは、クラスメイトの大半の好物だ。
「今日はお休みのひとがいたので、残り一個を賭けた大じゃんけん大会を開催しまーす!」
担任の先生が陽気な声で宣言して、教室内は大盛り上がりだ。
──ふたりを除いて。
「ねえ」
隣からりえちゃんが声をかけてきた。
「……アンタ、こういうの興味ないんでしょ?」
いきなりズバリと言い切られた。なんだかそれがとっても失礼なような気がして、わたしはつんとそっぽを向く。
「そ、そんなことないですよ! じゃんけんくらい参加は……」
「するの?」
「…………」
──興味がない。
なにが楽しいのかわからない。紫陽花ゼリーは好きだけど、それよりもっとおいしいおやつはたくさんある。じゃんけんを大勢でしてうれしい気持ちがわからない。みんなはなにに盛り上がってるのだろう?
「ほら、やっぱり。大体、アンタ授業中も休憩時間も寝てるか窓の外ぼーっと眺めてるだけじゃない。集団行動に興味ないタイプでしょ」
「……だったらなんだっていうんですか?」
「別に。ただ、アンタみたいなのがいて、ちょっと気が楽って話よ」
思ってもみなかったことを言われて、思わずりえちゃんを見つめた。りえちゃんはやっぱり周囲の盛り上がりをよそに、もそもそと給食のきゅうりとツナの春雨サラダをすすっている。
「……なによ。鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
「なんですかその表現?」
「もう少し日本語勉強したら?」
「なんで気が楽なんですか? わたしと一緒にいるとみんな『ついていけない』とか、『なに考えてるのかわからない』って言いますけれど」
「他人のことがわかんないのなんて、みんな同じでしょ」
りえちゃんはたまごとわかめの中華スープを上品にすすってから、ちらりとこちらを見た。
「りえは賢いけど、りえ以外の誰かがなに考えてるかなんて、全然わかんない。わかるひともいないと思う」
すごい断言だ。学校の先生はよく「お友だちのことも考えてあげましょうね」って言うけれど、わたしにはどれだけ考えてもわからなかった。
そう言ったら、よくわからないテストを受けされられたこともある。途中で飽きて逃げたけれど。
「……もしかして、りえちゃんも『変な子』って言われたことあります?」
りえちゃんはものすごく嫌そうな顔をして、牛乳をこくりと飲み込んだ。それが答えだと思った。
お友だちになれるかな、と一瞬だけ思って、左右に首を振る。そういう風に考えるのはもう、ちょっと、だいぶ、しんどい。
そんな風に思ったことははじめてじゃなくて、でも、結局みんなわたしと距離を置くようになる。
仲良くしようね、なんて先生やおばあさまが言うのは、面倒ごとを起こさないでね、の言い換えだ。別に好きで面倒ごとを起こしているわけじゃないし、お友だちができないわけじゃないのに。
給食の乗った銀色のお盆をもう一度眺める。お魚の塩焼きと春雨サラダ、ご飯と中華スープ、それから、紫陽花ゼリー。まだ大半が残っていたけれど、ごちそうさまをして盛り上がっている教室から出ることにした。
行き先は3階の音楽室だ。
お昼休みにここが使われていることはほとんどなくて、誰にも会いたくない時に駆け込む先のひとつだった。
ピアノでも弾こうかな、と一瞬思ったけれど、窓の外から雨の落ちる音がして窓際に立ってみる。窓からは軒に溜まった雨がぱたぱたとコンクリートのひさしに落ちて行くのが見えた。窓を少しだけ開けると、グラウンドから濡れた土の湿っぽい匂いが漂ってきて、花壇に植えられた紫陽花が目につく。青いのと紫のと赤いのがあるのはなんでなんだろう?
あっちがいいなあと思った。紫陽花ゼリーより、本物の紫陽花が見たいと思った。
そうと決まれば、さっそく行ってみよう、と駆け出そうとしたら、出入り口にりえちゃんが立っていた。
「……もうとっくの前に授業はじまってるんだけど?」
「はあ、そうですか」
あんまり興味がないので適当に返事をしたら、りえちゃんは大きなため息を吐き出した。
「給食も片付けてもらったんだからね。もったいなかったわ」
「あー……それは、ごめんなさい」
食べることまで興味がないわけじゃない。今日はあの教室の雰囲気がイヤな感じで、長くいたくなかっただけだ。
「……言われたら、お腹減ってきました……」
「赤ちゃんなの?」
りえちゃんは厳しいことを言って、持っていたお道具入れからゼリーカップを取り出した。
紫陽花ゼリーだ。
「はい、アンタの分。コレだけ取っておいたわ」
「……どうして……?」
「ええ? コレも嫌いなの? アンタ甘いものは食べてたじゃない」
どうやら、りえちゃんはこちらの様子を何日か観察していたらしい。もしかすると、昔会った時とやらのことを覚えていたのかも。わたしが出かけた先なら、きっと甘いものがあったはずだ。
わたしはりえちゃんに差し出されたゼリーカップを、大人しく受け取った。
「ありがとうございます……」
「あと、大雨警報出て、午後からの授業は一時間だけして、今日は閉校だって」
「えっ⁈」
考えてもいなかった情報に、結構な大声を上げてしまった。授業中らしいので、聞きつけた先生に見つかるのも時間の問題だろう。
「……学童とかも……?」
「今日は早く閉まるんじゃない?」
りえちゃんの言葉を受けてもう一度窓を見ると、さっきよりも雨足が強くなっている気がする。たしかに警報が出てもおかしくない。
「……アンタ、あの古美術商の孫でしょ? 親は迎えに来ないの?」
「……わたし、おばあさまのお家の子ですから」
そう言ったら、りえちゃんの細い眉がぴくりと上がった。でも表情は変わらなかったので、わたしは続きを話す気分になった。
「わたしのお父さまとお母さまは、家を出て行っちゃったんですよ。だからわたしは、おばあさまの家の子なんです」
両親はわたしを手放した。
おばあさまはなにも言わないけれど、一緒に暮らしていた時もあまりわたしに関心はなさそうだったし、別々に暮らすようになっても顔を見に来ることもない。
それでも、別に酷いことを言われたり、暴力を振るわれた覚えもなかった。なので、わたしとしてもあんまり興味がないひとたちだ。わたしは、おばあさまの子だ。
りえちゃんはやっぱり無言で、しばらくしてから、あっそ、と言った。
「悪いわね。りえはわりに家族に恵まれてるから、アンタの気持ちはよくわかんないわ」
「…………」
「なに驚いた顔してんのよ? りえ、別に変なコト言ってないと思うけど」
「……わたしのこと、かわいそう扱いしないんですね?」
大抵、両親のことはクラスメイトや先生たちに気の毒がられる。わたしが授業を抜け出しても大問題にならないのは、なにかしらカテイノジジョーとやらをオモンパカッテ? のことだとこっそり保健の先生から聞いていた。別にわたしは興味ないことに長くお付き合いできないだけなんですけれど。
りえちゃんは腕を組んで首を傾げた。偉そうに見える仕草は自然で、それをして当然の環境にいるのだと子どもにもわかる。
「別に。りえはアンタがかわいそうなのかそうじゃないのか、わかんないもの。アンタは自分のことかわいそうだと思うの?」
「いえ、特には」
「親が迎えに来られない子は、先生が一緒にいてくれるって言ってたわ。でも、アンタあのババ……いや、あのおばさんの家の子なら、りえが家まで送ってもいいわよ? うちもすぐには迎えは来ないけど、車だから雨の中帰るよりはいいでしょ」
「えっ、すごくありがたいですけど、いいんですか? おばあさまのお客さまのお家なら、知らない子と仲良くすると怒られたりするんじゃないですか?」
「クラスメイトは知らない子じゃないでしょ」
りえちゃんは、一瞬も迷わずそう言った。それに、やっぱりわたしはびっくりしてしまう。
どうやら、りえちゃんは、すごく正直な子らしい。堂々としていて、わからないことをわからないと言っても大丈夫だと思っている。いいな、と思った。
それは、すごくうらやましいな、という意味での「いいな」だ。わたしは自分のことをかわいそうとは思わないけれど、こんな風に正直に思ったことを言うのは得意じゃなかった。
「……今日はお世話になります」
「そう。じゃあ、りえは授業に行くから。アンタは好きにしてれば? チャイムが鳴ったら教室には来なさいよ」
「……はい」
りえちゃんはわたしを教室に連れ戻すこともなく、紫陽花ゼリーだけ置いて音楽室から出ていった。
教室はますます激しくなる雨音で満たされて、静かなはずの室内はやけに騒がしく思えた。
ちょっと季節がズレちゃいましたが、梅雨時期に書いてました。
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