いつかあるかもしれない終わりの一つ
【注意:猟奇・狂気的表現を含みます】
細い指が顔に触れた。目を開けるとイラがこちらを覗き込んでいる。
「イラ、もう起きていたのかい?」
返事の代わりに首に腕が回される。力を入れれば儚く壊れてしまいそうで、慎重に抱き締め返した。
「これでは起きられないよ。少し待っていておくれ」
笑って白い頬に唇を触れさせる。イラは聞いているのかいないのか、私に体を擦り寄せる。
「……仕方のない子だ」
一瞬だけその肩を押し遣り、起き上がった。
改めてその腰に手を回し、ゆっくりと口付けを交わす。とろりとした甘さが舌を浸した。
もしも酒に酔ったとしたならばこのような感覚を抱くのだろうか。身の内を熱く掻き回すかのような目眩。
彼女の顔を見つめる。口元に少し赤みが増したようだ。指先で拭ってやると濡れた感触がした。
この晩は外に出てみることにした。ちょうど彼女の好きなライラックの咲き出す頃だ。
頭上には明るく月が輝いていた。
イラを抱き上げる。木の根が張り出している所もあり、更に言えばこのような晩には何かが潜んでいないとも限らない。
「側を離れないでおいで。そうすれば怖くないだろう」
イラは私の耳元に顔を寄せて私の名を呼んだ。その響きは軽く、快い。
ライラックの木はまだ香ってはいなかった。
イラを静かに地面に下ろす。彼女はライラックに近づくでもなく私の腕に甘えて身を寄せた。
固い蕾を一つだけ摘み取り、その髪に飾る。
イラがはにかむのが分かった。花が綻ぶまでにはまだ数日かかるだろうか。
もしかすると満開を迎えるのは彼女の眠っている間かもしれない。その時にはたっぷりと摘んで帰り、彼女のベッドに飾ろう。
その滑らかな額や白い腕に花の芳香が麗しく移ることだろう。
再びイラを腕の中にして帰路につく。彼女はしっかりと私に抱きついて、時折笑いながら私を呼んだ。
「しっかり掴まっておいで」
彼女の柔らかな腿に指が埋まる。艶かしさを覚えて足を速めた。帰ったならば彼女を白い敷布に横たえ、夜が明けるまで言葉と肌で愛を囁こう。
私の頬に触れるイラの指がその欲を駆り立てた。
思わず足を止めてしまったのは、戸口の前に人影を認めたためだった。
腕の中のイラを少しでも彼の目から隠すように抱き直す。彼……アンドルーは張り詰めた表情でこちらを見上げた。
「ロザリー」
「……何の用だ」
「様子を見に来たんだ。……相変わらずみたいだね」
諦めたかのような声音だった。彼は背後にしている家にちらりと視線を遣って「ひどいにおいだ」と呟いた。
勝手な言い草に不愉快が滲む。
「生憎、君に気にかけてもらう必要はない」
「ロザリー、目立つことはしないでって言ったよね。僕にまで迷惑がかかる」
「目立つ真似などするものか」
アンドルーは私の返答に深く溜め息をつき、イラに目を向けた。イラがますます私に身を寄せる。
「……前より肉が落ちたね」
「そうだな、最近は一段と軽くなったようだ」
小鳥のような彼女が私のもとを離れて飛び去ってしまわぬよう、腕に力を込めた。
「……今晩で最後にするよ。これで僕の言葉を聞いてくれないなら、僕はもう二度と君に会わない」
アンドルーが私を見据える。吸血鬼の灰色の瞳は果てしなく深かった。
私は黙ってその続きを待った。
彼の常である高慢な態度は跡形もなく、躊躇った後に発せられた声は震えていた。
「ロザリー。……ねえ、まだわからないの。君の籠の鳥は死んだんだよ。……君が抱いてるのは、ただの亡霊だ」
アンドルーの指が私の腕の中をさす。突拍子もない言葉に思わず笑っていた。
「ロザリー!」
彼が声を荒げる。成程、彼は何も知らなかったな。
「イラは私と共に永遠を生きることを選んでくれたのだよ。私の血を飲み、若い姿のままで」
そうだろう、と問いかけてイラの頬に接吻する。彼女は確かに頷いた。
アンドルーは脅えたように首を振った。
「若い……? よく見てよ、ロザリー。その子、もうほとんど骨じゃないか」
イラの細い指が私の肩に縋る。
「イラ、大丈夫だ。彼の言うことなど――」
言いかけてふと続く言葉を失った。最近痩せてきたとはいえ、その指は細すぎるのではないか。私に食い込む堅さに、肉と皮膚は感じられなかった。
自分の考えを否定するようにイラを抱き締め、その頭に頬を寄せる。肌に感じる金の髪は疎らで艶が無い。おかしい。彼女の髪は溢れんばかりに豊かな蜂蜜色をしていた筈だ。
イラ、と必死で呼びかけた。確かに目の前に存在していたイラの姿が薄れていく。崩れていく。
私の声に僅かに応えるものがあった。イラが私の名を呼んでくれている。安堵して目を向ける。
そこにいたのは白い歯を剥き出しにした頭骨だった。かち、かち、と、その歯が鳴った。
ああ、私を呼んでいるのだ。
気付けば土に膝をついていた。腕にはまだしっかりと彼女を抱いていた。白い骨の手が私の頭を抱き込む。乾いたそれを見たくはなく、目を閉じた。
手櫛のように指の間に髪を戯れさせるその仕草は、まさしくイラのものだった。彼女の温かな肌が、柔らかな体が、ありありと感じられる。
先程彼女の髪に飾ったライラックが幻のように幽かに香った。
イラ。そうか、君は。
私に会いたいがために、戻って来てくれたのだね。
もう迷うことなど無かった。目の前にいるのは、確かに愛しいイラだった。私に向かって微笑みかけてくれている。
彼女の求めに応じて深く口づける。僅かに残った肉が甘い腐臭を伴って流れ込んでくる。
君がそう望むのなら、君をすっかり骨だけにして、その髄までも啜り尽くそう。血液よりも深い場所で交わろう。
顔を上げるとアンドルーはまだそこにいた。
「……帰ってくれ。君がいるとイラが怖がる」
「わかった。……さよなら、ロザリー」
アンドルーは静かな足音を立てて立ち去った。
「イラ、家に入ろう」
立ちあがると目眩がした。イラを下ろして手で顔を覆う。彼女が背に抱きついてくるのを感じた。その細さで私を支えてくれようとするかのようだ。
「……ああ、もう大丈夫だ」
心配をかけまいと笑いかける。
扉を開け、寝室に向かう。イラは背中にぴったりと身を寄せて付いて来た。
頭の中を揺さぶられるかのような感覚は強まるばかりだった。倒れるようにベッドに横たわる。
「イラ」
そう呼んで手を伸べると、彼女はベッドに上がり私の腕に抱かれた。
「すまない、私は少し眠るよ。よければ君も、休んで……」
どろりとした粘液が体を巡る。イラの肉の熱さを内に感じる。
イラの歯の音がささやかに聞こえる。私が寝付けるように歌を歌ってくれている。
瞼を閉じてなおイラの姿は艶やかに眼前に現れる。
両の腕に君を抱いて、君の夢を見続けよう。
この世界でも眠りの中でも、もう片時も離しはしない。




