母性というもの(下)
婚礼の日に、ロザリー様はブライアンにおっしゃいました。
「できるだけ長生きするのだよ。どうか、彼女を寂しがらせないでおくれ」
きらびやかな衣装に身を包んだブライアンは、青空の瞳でロザリー様をまっすぐに見つめました。
「はい」
ロザリー様の灰色の目は穏やかに笑いました。
この日から、私はロザリー様ではなくブライアンの傍らに立つこととなりました。
まったく見ず知らずの中に飛び込んでの暮らしははじめこそ不安でしたが、ブライアンがいつも私を導き、支えてくれました。
次第に「若奥様」として扱われるのにも慣れていきました。ロザリー様と毎日のように長い手紙をやり取りすることも許してもらえました。
やがてブライアンとの間に子供が産まれました。一人目は女の子、二人目は男の子でした。名前はそれぞれグレイスとアーネストといいます。
グレイスは姉として、アーネストの面倒をよくみてくれました。アーネストは少し甘えん坊で内気で、ブライアンは心配していたようでしたが、私にはそこがとてもかわいく思えました。
ロザリー様は子供たちを見ては「ああ、昔の君にそっくりだね」と目を細められました。そうして別れ際には「イラ、君が幸せそうで何よりだ」とおっしゃってくださいました。
私は心からの笑顔で「はい、お母様」とお返事いたしました。
なにひとつ憂うところのない日々を破る知らせは、真冬の朝に飛び込んできました。
ある雪の日にロザリー様は馬車でどこかを訪れるおつもりだったようです。その途中の山道は凍っていて、馬が足を滑らせ、ロザリー様は馬車もろとも断崖から投げ出されたとのことでした。
とても……、とても助かるような事故ではなかったそうです。
道は悪く気候も厳しいせいでロザリー様を捜すこともできず、私たちは空虚な棺を土に埋めました。
突然の悲劇を信じられず、私はただ呆然としていました。全てのものが私を置き去りにして進んでいるようでした。
私は黒い服を着て部屋に閉じこもり、窓も開けずにふさぎ込んでいました。
ブライアンや子供たちは心配してあれこれと声をかけてくれました。けれどもそれは吹き抜ける風の音のように耳を通り過ぎるばかりでした。
私の時間は雪の日のまま凍り付いていました。
小さなノックとそれに続く扉の開く音も、「おかあさま?」と呼ぶアーネストの幼い声も、水底から聞いているようでした。
「おかあさま」
花の香りがしました。ライラックでした。間違えるはずもありません。思わず瞬きました。
「おかあさま、どうぞ」
アーネストが私の膝に手をかけて、いっぱいに花を付けた枝を差し出しています。
香るライラックを受け取りました。小さくて温かな手が触れました。
「アーネスト……」
私は彼を抱きしめて涙を流しました。
「おかあさま、だいじょうぶ? いたいいたい?」
アーネストが私の頬を触ります。私は「ありがとう」と「ごめんなさい」をひたすら繰り返して泣きました。
私の姿に不安になったのか、アーネストも泣き出してしまいました。私は涙を拭って「ごめんなさい、アーネスト。大丈夫よ」と可愛いわが子を抱き上げました。
しばらく腕の中で揺らしてあやすと、アーネストも泣き止んだようでした。
彼を抱いたまま、椅子から立ち上がって部屋を出ます。
「お母さま!」
グレイスが腰に抱きついてきました。
しゃがんでアーネストを下ろし、両腕で二人を抱きしめます。
「お母さま、大丈夫なの? もうお母さまといっしょにいていいの?」
「ええ、グレイス。ごめんなさい、あなたにも寂しい思いをさせてしまって……」
私に触れる子供の体温は、とても温かなものでした。また涙が頬を伝いましたが、子供たちに気付かれる前にそれをそっと拭いました。
その晩、子供たちが二人とも寝付いてから、私はブライアンの胸に頭を預けて涙が涸れるまで泣きました。
すっかりとひどい顔になってしまいましたが、ブライアンは「そんな顔もかわいいよ。……君がまた僕を、僕たちを見てくれてよかった」と額に口づけをくれました。
夫や子供たちに支えられて、私はだんだんと前を向けるように、春の光を浴びられるようになりました。
さらに月日が経ち、子供たちが二人とも寂しがらずに眠れるようになった頃、私とブライアンは王城での音楽会に赴きました。
ブライアンはあまり音楽には興味がなく、私がほとんどわがままを言って連れて行ってもらったようなものでした。
王城にはとても多くの人が集まっていました。ナッシュガルト家に嫁いでから知り合った貴族の姿も何人か見えました。
それぞれにご挨拶を申し上げ、私は音楽の前のお喋りを楽しみました。
「おお、エインズワースの……、いや、今はナッシュガルト夫人か」
私に親しげに声をかけてきたのは国王陛下でした。
「お招きいただき光栄です、陛下」
深く膝を曲げてお辞儀をしました。ブライアンも丁重に挨拶を返します。
「久しく見ぬうちに見違えるようだ。そなたはエインズワースの唯一の身内であるからな、余も気にかけていたところだ」
「まあ、そのような……」
陛下が私を覚えて、さらには気にしてくださっていたことに驚いてしまいました。
「あの件では誠に……。いや、今は息災そうで何よりだ」
「ええ。今でも悲しく、寂しくはございますけれど……、夫や子供たちのおかげで立ち直ってまいりました」
「そうか、そうか……」
陛下は頷いて「それでは、今宵は楽しんでいくとよい」と去って行かれました。
「……君の母君はすごい人だったんだな」
ブライアンがそっと私に耳打ちしました。
音楽はとても素晴らしいものでした。天からもたらされたかのような透明な歌声に、花を揺らす風のような楽器の音色。雨が土に染み込むように様々な曲が私を満たしました。
音楽会がすべて終わった後も、椅子に座って余韻に浸っていました。
私の名を呼ぶ声に気付いて顔を向けると、ブライアンが私に笑いかけていました。
「帰ろう、イラ。あまり遅くなると屋敷の者が心配するから」
「ええ」
彼の手を取って立ち上がります。
私たちはざわめきの中を歩きました。案内をする使用人、広間を出てからも交わされる雑談。王城を出られるまでにはまだしばらくかかりそうでした。
不意に懐かしい香りを感じました。はっと振り向くと、人の流れに逆らうように王城の奥へと向かう黒髪の女性の後ろ姿がありました。私の足は止まっていました。
「あ……」
その方は振り向き、灰色の瞳を悪戯っぽく細める笑顔で、口元に人差し指を当てました。私が同じ仕草をお返しするよりも早く、そのお姿は再び人並みの中に紛れてしまいました。
「イラ?」
ブライアンに促されて私は足を進めます。
音楽会の後の短い邂逅をゆっくりと思い出し、私は馬車の中で言いました。
「あなた……」
「なんだい?」
青空の色の瞳が笑います。
「今日、音楽会へ連れてきてくださって……、ありがとうございます」
「君の喜ぶ顔が見られてよかったよ。本当に音楽が好きなんだね」
愛しい人にわずかな秘密を残したまま、私は何も言わずに笑いました。
(終)




