甘くとろける
2016年のバレンタインデーに合わせた短編です。
【注意:若干の性的表現を含みます】
「まあ、チョコレートですね」
小さな箱の蓋を取ると、イラは控え目に声を弾ませた。
私が仕事上の付き合いのある相手からもらってきたものだ。煎り焦がしたような香ばしさと牛乳の甘い匂いは開ける前から感じていた。
「知っていたのかい」
少々の驚きをもってイラに尋ねる。この菓子を間近に見るのは初めてだった。
堅く焼きしめた煉瓦のような四角さが整然と並んでいる。大きさと質感、そして表面に浅い彫りが入っているところは封蝋にも似ている。
「ええ。お買い物に行く時に見かけたことがございます」
イラは机の角を隔て、こちらに優しい横顔を見せて座っている。口ぶりからみるに彼女もこの菓子を食べたことはないようだ。
「なるほど。それでは早速いただこうか。どのような味がするのか楽しみだね」
私とイラとで一つずつチョコレートを口にする。
しばらく首を傾げていたイラが口に手を当てて目を円くする。どきりとしたが一瞬後にはその顔は花開くような笑みに変わっていた。
幸せそうな表情に安堵する。その一方で訝しむ気持ちも芽生えていた。
確かに甘味が強いところはいかにも当世風だ。香りと砕ける歯応えもおそらくこれまでになかったものだろう。
ただ、私には少しばかり物珍しい食物としか感じられなかった。
イラと共に生きるのも三百年を過ぎようかという頃だ。イラのことならばなんでも、おそらくは彼女自身よりも知っている。
だからこそ、この菓子にここまで彼女を喜ばせる力があるとは思いにくかった。
そこまで考えていたところで、ふと気が付いた。甘い香りが先程よりも強まっている。机に置かれた箱からではない。私がチョコレートを口に含んでいるからでもない。
慎重に探って、見つけた。この香りの出所はイラだ。
確かめようと思わず手を伸ばし、彼女の顎をこちらに向けさせていた。
驚きの表情。瞬時に薔薇色に染まる頬。表情の変化から彼女の考え――期待と言っても差し支えないだろう――が手に取るように理解できた。
私としてもその期待に背く理由などない。指先に温かな脈動を感じながら唇を重ねた。
柔らかく口を開かせた瞬間、目眩がした。
重層的に咲き誇る濃厚な香り。舌を包む滑らかな甘さ。搾りたての精油のように凝縮されている。抗いようもなく虜にされた。
溢れ出す佳味に不可思議を感じている暇もない。ただ夢中になる。頬の内側に残っていた欠片がイラの温みでとろりと融けた。
渾然とした甘さを飲んで、唇を離した。冷静にならなければ香りに、イラに、溺れてしまいそうだった。
イラは目を潤ませて私を見上げている。小さく開いた口は匂やかに濡れている。
「――わかったよ、イラ」
やっとのことで声に出た。
一度の瞬き。睫毛の揺れが私の続く言葉を促す。
「これは体温に溶かして味わうものだったのだね」
「あ――」
再び甘美の中に心を浸す。艶かしくぬめるチョコレートの底に、柔らかく優しく、イラの匂いがたなびいていた。
私にとって何よりも慕わしいこの香り。もっと密に、心ゆくまで味わいたい。
そこかしこに折り重なる他の匂いを見つけ出しては丁寧に舐め取る。
焦がす炎の苦味。果実を思わせる酸味。牛乳の生温さ。重く纏わり付く油脂。それらを一枚ずつ剥いでいく。
こくり、と喉が動く度に彼女の輪郭が明瞭になる。衣服に手をかけ、肌を露にさせるのと同じ昂りを覚えた。
残り香の最後の一片まで拭い去った。いよいよイラに耽溺する。
すっかりと腰が砕けてしまっている彼女を腕の中にし、感覚の全てで愛でる。
不意に固い椅子がぎしりと不平を述べた。
耳元で告げる。彼女の体温と香りがこの唇に移っている喜びを感じていた。
「寝室へ行くよ。構わないね」
吐息のような短い返答があった。硝子細工の慎重さで抱き上げる。
蜜月の時は未だ些かの陰りも見せてはいない。
体温のない指先や舌にイラの体は容易く融ける。私はそれを掬っては清らかな泉の水にするように口づける。
どのような菓子も比にならない至上の陶酔を二人で貪り尽くすまで、この夜が終わらなければよい。
叶わぬ望みの代わりにイラを束の間の寝台の闇に閉じ込める。淡く匂い立つその肌は絹の舌触り。
耳をくすぐる色声に深く、深く、飲み込まれる。
【終】




