第9話 差し出された手
バシュルが広げた古い水路図は、右半分が破れ、残った線もところどころ掠れていた。
「水脈核の本体へ入る前に、外周の三本を調べる」
男は水路図の三か所を、弁鍵の先で叩いた。
「原因が複数あるなら、本体だけ動かしても圧力に耐えられん。だが崩落後は、図と実際の道も一致していない」
「現場で確かめるしかないわね」
私たちは都市の奥へ向かった。
バシュルと二人の作業員、監視役の門番が三人。ラウルとフィアも一緒だ。
居住区へ入ると、水不足は圧力計の数字ではなく、人の暮らしとして見えてきた。
共同井戸の底には乾いた砂がたまり、縄の先の桶が空しく転がっている。治療所の一画は、水を使えないため閉鎖されていた。戸口では、女が器の底を布で拭い、その湿り気を病人の唇へ押し当てている。
バシュルへ、自分の集落を先にしろと詰め寄る者もいた。
私へ向けられる反応も一つではない。
地上人を出せと怒鳴る者。フィアの足へ巻かれた新しい布を見て、言葉を止める者。門前で見せた術の話を聞いたのか、縋るようにこちらを見る者。
その視線は、ラウルにも集まった。
彼を見た途端、道を空ける老人がいた。若い作業員は古い敬称らしい音を漏らし、慌てて口を閉ざす。
反対に、男の一人がラウルの枷を指し、地下語で激しく言い放った。
「地上人を、また信じるのかと言っている」
ラウルは立ち止まらなかった。
「あなたを知っている人が多いのね」
「今は水が先だ」
声は冷たかったが、隠し事を楽しんでいる様子はない。本当に、話す順番を後へ置いただけだった。
やがて居住区が途切れ、巨大な導水路をまたぐ石橋へ出た。
橋の中央は崩れ落ちていた。
欠けた幅は大人の一歩半ほど。下では、残り少ないはずの水が細い岩間へ集まり、激しい音を立てて流れている。橋面も飛沫で濡れていた。
ラウルが残った鎖を手へ巻きつける。枷のある足を一度確かめてから助走し、向こう岸へ跳んだ。
着地した身体が大きく傾く。
ラウルは片膝をつきながらも、石の縁をつかんで踏みとどまった。
次は私だった。
右足首が、体重を移しただけで痛む。左足で踏み切れば届く距離だ。それでも、濡れた石の先にある暗い空間から目を離せない。
背中に硬い鎧が触れた感覚が蘇った。
両腕を押さえ込まれ、帰還門へ行く自由を奪われた時の力。息が浅くなり、足が石へ縫いつけられたように動かなくなる。
向こう岸で、ラウルが立ち上がった。
こちらへ手を差し出す。
だが、何も言わない。
早くしろとも、怖がるなとも言わなかった。腕をつかめる距離へ身を乗り出しながら、ただ待っている。
私は足場を見た。欠けた幅を測った。差し出された手の位置を確かめる。
ラウルは、まだ待っていた。
深く息を吸い、左足へ力を込める。
自分で石を蹴った。
身体が崩落部分の上へ出る。私は自分から手を伸ばし、ラウルの掌をつかんだ。
強い力が返ってくる。
引き上げられた右足が向こう岸へ触れ、痛みで膝が揺れた。けれど、倒れる前に自分の足で踏みとどまれた。
「……ありがとう」
ラウルは短く頷き、私が立てると分かるとすぐに手を離した。
掌には、彼が待っていた時間の温度だけが残った。
だが、橋の反対側にはフィアたちがいる。
私たち二人が渡れただけでは、調査は続けられない。
「そのまま待っていて」
私は崩れた橋の縁へしゃがみ込んだ。
両岸に残る石床と、少し下に露出した古い橋脚。その三か所は目で確認できる。崩落前には、一つの橋としてつながっていた境界の痕跡も残っている。
新しい橋は作れない。
ただ、両岸と橋脚の上面を短い間だけ隣り合わせにし、実在する足場同士の距離を縮めることならできる。
魔力を通すと、崩れた石の縁が水面のように揺れた。離れていた三つの足場が重なり、途切れた石列が細い一筋の通路に見える。
「一人ずつ。一定の速さで渡って。立ち止まると接続がずれるわ」
フィアが小石を拾い、カン、カン、と石床を叩き始めた。
作業員の一人がフィアの前へしゃがみ、地下語で尋ねる。フィアが頷いてから、彼はその小さな身体を背負った。
石音に合わせ、一人ずつ通路を渡る。
二人、三人。
額から汗が落ち、指先の感覚が薄れていく。
最後の監視役が向こう岸へ踏み込んだ瞬間、私は接続を解いた。重なっていた石列がほどけ、元の崩落箇所へ戻る。
全員が渡っていた。
バシュルは何も褒めなかったが、水路図を私からも見える位置へ持ち直した。
その変化だけで十分だった。
水脈核の外周には、三本の導水路が集まっていた。
第一水路では、図にあるはずの水音が途中で消えている。
作業員が壁を槌で叩くと、鈍い音が返った。崩れた岩が水路の内側へ詰まり、流れを完全に断っている。
「瓦礫を除くだけでは駄目よ。天井を支えてから、元の水路との境界をつなぎ直す必要がある」
第二水路では、バシュルが古い弁へ鍵を差し込んだ。
二人がかりで回しても、弁は軋むだけで動かない。錆と魔力の澱が、回転部を一つの塊にしていた。
「鍛冶場から長い梃子と、澱を削る道具を持ってこさせる」
管理者が作業員へ命じた。
最後の第三水路は、見た目には崩れていなかった。
フィアが床へ耳をつけ、やがて天井を指差す。水の音は前へ流れず、上から引かれるような震え方をしているらしい。
私は岩肌の水滴へ触れ、残留魔力を読んだ。
フィアの示した通りだった。
水路はつながっているのに、循環させる魔力だけが上方へ奪われている。門前で感じた流れより強く、今も少しずつ速くなっていた。
「原因は三つ」
私は水路図へ印をつけた。
「崩落、弁の固着、上方への魔力流出。順番を誤れば、直した水路へ圧力が集中してまた壊れる」
作業員の補強。弁を開く道具。水路の位置を知る管理者と、細い導水路へ入れる者。そして最後に、複数の流れをつなぎ直す境界術。
一人では直せない。
けれど、必要な役割は見え始めていた。
修復の順序を組もうとした、その時だった。
ズゥン――。
上方から、巨大な何かが脈打つような震動が降りてきた。
第三水路の残留魔力が、目に見えるほど強く引き伸ばされる。一筋の青い光となり、岩盤の上へ吸い込まれていった。
外周の圧力計が、鋭い音を立てて赤い目盛りを越える。
都市の方角で青白い灯りが次々と暗くなった。
続いて、治療所から鐘が鳴る。
水の停止を告げる、短く切迫した音だった。
「夜明けまでではない」
バシュルの顔から血の気が引いていた。
「この減り方では、もう――」
私は暗い天井を見上げた。
吸い上げる力は、さらに上から来ている。
「地上で、何かが始まった」




