第7話 命を担保にしない契約
ラウルの言葉が終わるより早く、足元で低い音が鳴った。
ゴォン――。
床から外した鎖の根元。黒い固定環に赤い線が浮かび、魔力の波が水路の奥へ広がっていく。しばらくすると、同じ音がもう一度響いた。
「追跡印だ」
ラウルが顔をしかめる。
「鎖が外れたことを、俺をここへつないだ連中に知らせている。ここまで降りてくるには時間がかかるが、留まれば包囲される」
「誰が来るの?」
「今は話せない」
私は返事の代わりに、ラウルから一歩離れた。
追手から逃れるため、私とフィアを盾にするかもしれない。人がいる場所へ案内すると言って、罠へ連れ込むかもしれない。境界術を使えと脅す可能性もある。
「口約束だけで、あなたについてはいけないわ」
「当然だ」
ラウルは気分を害した様子もなく答えた。
「俺も、あんたが途中で鎖を床へつなぎ直さないという保証を持っていない。道だけ聞き出して、地上人か追手へ売るかもしれない」
互いに相手を信用していない。
それでも、ここから出るには互いが要る。
ラウルは牢の隅から尖った石片を拾い、床の埃に二重の円を描き始めた。見慣れない地下文字が、内と外の円を縫うように並んでいく。
「地下で、敵対する者同士が一時的に手を組む時の契約陣だ。血か魔力を流し、約束を破れば心臓へ罰が返る」
「命を差し出せということ?」
「これが標準の形だと見せただけだ」
ラウルは最後の線を引かず、石片を床へ置いた。
「命を担保にした契約は使わない。従わせるために命を握れば、協力ではなく服従になる」
飾った言い方ではなかった。便利でも使わない道具を確認するような、乾いた口調だった。
私は未完成の契約陣へ手をかざした。
境界感知を通すと、重なった二つの流れが見える。一つは、約束と期限を刻む淡い回路。もう一つは、違反を心臓へ返す黒い回路だ。
「合意だけ残せるかもしれない」
私は二つの回路が接する細い境目へ魔力を滑り込ませた。
黒い線を壊せば、反動が陣全体へ走る。切るのは線ではない。合意と罰を一つの術として扱わせている、目に見えないつながりだ。
指先に針を刺されたような痛みが走った。
黒い回路が薄れる。同時に、淡い回路まで明滅した。
「……違う。そこまで切ったら、約束自体が消える」
息を止め、ほどけかけた合意回路だけをつなぎ直す。今の私に何度も試せる魔力はない。額から落ちた汗が、床の埃に小さな染みを作った。
やがて黒い線だけが陣から剥がれ、炭の粉のように崩れた。淡い二重円は、弱い光を保っている。
「生命を奪う機能は外れたわ。約束に反する行動を選べば、印が熱を持って警告する。でも、身体を傷つけたり、行動を止めたりはしない。どちらかが解除を告げても消えるようにする」
「解除してから裏切ることもできるな」
「ええ。最後は、互いが何を選ぶかよ」
ラウルは床の陣を見下ろし、わずかに口元を緩めた。
「それでいい」
命を奪う罰がない以上、この契約は裏切りを封じる鎖にはならない。
けれど、だからこそ解除という選択が残る。何も言わずに我慢し、相手も分かってくれているはずだと思い込む関係ではない。続けるか、やめるか。その都度、互いの意思を確かめるための印だった。
私たちは条件を短く決めた。
期限は、人の住む地下都市の門前へ着くまで。
ラウルは、私とフィアをそこまで案内する。故意に囮にせず、知っている危険を隠さず、境界術を強要しない。
私は、外した鎖を再び床へ固定せず、ラウルを追手や地上の者へ故意に引き渡さない。術を使うかどうかは、私が決める。
「フィアは契約へ入れない」
私は、成り行きを見守っていた少女を見た。
「担保にも、あなたや私の所有物にもしない。ただ、一緒に守る相手とする」
ラウルは頷き、フィアと目の高さを合わせた。地下語で契約の内容を伝え、二つの道を指で示す。私たちと行くか、一人で別の道を選ぶか。そう尋ねているらしい。
フィアは緊張した顔で私たちを見比べた。やがて自分の胸へ手を置き、私の外套をつまむ。そして、はっきりと頷いた。
同行を選んだのは、フィア自身だ。
契約陣へ魔力を流したのは、私とラウルだけだった。淡い光が二つに分かれ、私たちの手首に細い輪となって残る。フィアには何の印もつかない。
ゴォン――。
追跡印が三度目の音を響かせた。
今度は遠い上層から、低い角笛が応じた。複数の足音と鎖の擦れる音が、水路を伝ってくる。
「行くぞ」
ラウルが牢の奥の保守口へ入った。
両手首と片足の枷は残ったままだ。引きずる鎖が岩へ触れないよう手で束ね、複雑に枝分かれした暗路を迷わず進む。私とフィアは、その背を追った。
ほどなく、道は二つに分かれた。
右は向こう岸まで近いが、間に深い縦穴が口を開けている。左は岩の裂け目を這って抜ける、狭く長い保守路だった。
ラウルは縦穴を越えられるだろう。私も、向こう岸を目印に境界をつなげば渡れるかもしれない。
だが、足を傷めたフィアには無理だ。
背後から、また角笛が聞こえた。先ほどより近い。
ラウルは勝手に決めず、フィアへ二つの道を示した。フィアは縦穴を覗いて青ざめ、左の裂け目を指す。
「遠回りする」
ラウルはそれだけ言い、左へ進んだ。
狭い道の途中で、天井から剥がれた岩板が進路を塞いでいた。ラウルは私を振り返ったが、術を使えとは言わない。
追手との距離を考えれば、戻る時間はなかった。
「私が決めるわ」
岩板の左右に残る壁の境界をつなぎ、崩れた部分だけを一時的に支える。三人が通り抜けると同時に術を解くと、背後で岩が落ち、狭路を塞いだ。
手首の印は、最後まで熱を持たなかった。
長い保守路を抜けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
目の前に、巨大な地下都市が広がっていた。
高い岩壁をくり抜いた幾層もの住居。空洞を渡る石橋。青白い灯りが、闇の中に街路を描いている。
人がいる。
助けを求められる場所へ、ようやく着いた。
そう思ったのに、街を貫くはずの大水路には、一滴の水もなかった。底には白く乾いた泥がひび割れ、遠くの広場では、住民たちが空の器を抱えて配給所へ列を作っている。
列の端では、小さな子どもが器を逆さにしていた。何度振っても落ちるのは白い粉だけだ。隣の女がその手を止め、空の器を抱き締めさせる。争う声さえ上げられないほど、誰もが疲れていた。
「あれが、地下の都市……」
門楼の見張りが、こちらを見つけた。
最初にラウルの顔を見て息を呑み、次にフィアの傷へ目を止める。そして私の地上装備と、角のない頭を見た途端、険しい声で何かを叫んだ。
門番たちが一斉に巻き上げ機へ飛びつく。
「待って!」
私の声が届く前に、重い鉄格子が落ちた。
凄まじい音が空洞を震わせ、ようやく見つけた人里への道を閉ざした。




