第6話 最深部の囚人
消えかけた境界の向こうから、地上語を話す男の声が届いた。
私は反射的に身を乗り出した。
「あなたは誰?」
返事の代わりに、金属を打ちつける音が響いた。
カキン、カキン。
一定の間隔で二度。
音が途切れると同時に、空間の綻びも閉じた。
隣にいたフィアが、水の流れ落ちる暗い穴を見つめている。男の声に反応し、地下の言葉を小さく呟いた。
「あっちにいるのね」
私は岩壁へ背を預けた。
魔力はほとんど残っていない。指先の痺れもひどく、今すぐ別の境界を開くのは無理だった。
泉の水を何度か口へ含み、フィアからもらった乾燥根をかじる。腰の金属記録板も、落とさないようベルトへ結び直した。
しばらく休んでから、痛む右足をかばいながら立ち上がった。
フィアが水際に沈んだ古い格子を見つけ、その脇にある低い横穴を指した。
大人なら見落としそうな保守路だった。
彼女は暗闇の中でも迷わず進み、水流が削った足場や崩れにくい岩を選んでくれる。
私は小さな背中と、ときおり下層から響く鎖の音を頼りに、這うように保守路を下った。
湿った空気が重くなった頃、水路沿いの古い石造区画へ出た。
外側の通路は崩れ、ところどころ下の水路へ落ち込んでいる。
その奥にある厚い石壁だけは、古代結界に守られていた。
牢だった。
内側で、男が床に座っている。
黒髪と琥珀色の瞳。
頭には二本の角があり、片方は途中で折れていた。
フィアと同じ角人族だ。
両手首と片足には黒い拘束具。そこから伸びる鎖のうち、ひときわ太い一本が床の石環へ固定されている。
長く囚われているはずだが、男の体格は大きく、衰弱しきってはいない。座ってこちらを見ているだけでも、戦い慣れた者だと分かった。
牢の隅には、壁を伝う細い水溝と、外から乾燥根を差し入れる小さな受け口があった。助けるためではない。死なない最低限だけを与え、ここへ繋ぎ続けるための設備に見えた。
「……地上人か」
私の装備を見て、男が流暢な地上語で言った。
フィアが短く地下語で何かを訴える。
男は同じ言葉で返し、彼女の負傷した足を確かめるように視線を落とした。
二人のやり取りは短かった。
フィアは自分がどこから来たのかを伝えようとしているらしく、何度も上を指す。男は崩れた通路を見て、首を横へ振った。
「この子は上の導水路から落ちたらしい。戻る道は崩れている」
初めて、フィアの言葉の一部が私へ届いた。
彼女もまた、帰る場所から切り離されている。
地上語が通じないフィアと、地下語を知らない私。その両方と話せる人物だった。
だからといって、信用できるとは限らない。
私は牢から距離を取ったまま尋ねた。
「さっき、声をかけたのはあなた?」
「そうだ。今の門も、あんたが開いたのか」
「私は境界術師よ」
「境界……なるほど」
男が短く頷いた。
直後、足元から大きな振動が突き上げた。
先ほど魔獣を落とした縦坑の衝撃が、古い地盤へ伝わったらしい。
岩の裂ける音が連なり、私とフィアが立つ保守路が傾き始めた。
フィアが足を滑らせる。
私は腕をつかんだが、右足へ力が入らない。
石畳が次々と剥がれ、下を流れる暗い水路へ落ちていく。
牢の内側だけは、結界に守られて揺れていなかった。
男が床の鎖を壁へ打ちつけた。
「あんたの術で、牢の内側へ小さな門を開けるか。俺の鎖が届くところなら、二人とも引き込める」
そう言っても、男は勝手に手を伸ばさなかった。
崩れる足場の向こうから、まっすぐ私を見る。
「助けを望むか?」
こんなときに、なぜ確認するのか。
苛立った。
それでも、この男は私が答えるのを待っている。
助けると決めつけるのではなく、私の意思を尋ねているのだ。
「望むに決まっているでしょう。助けて!」
答えを聞いた男が、鎖をもう一度石壁へ打ちつけた。
音が、牢内の正確な位置を教えてくれる。
残る魔力を集め、崩れかけた足場と、音の届いた牢の床を短くつないだ。
人一人が通れる幅しかない。
「フィア、先に!」
彼女を境界へ押し込む。
男は鎖の届く限界まで腕を伸ばし、フィアを安全な床へ引き上げた。
次は私だ。
だが、境界が明滅し、輪郭が狭まっていく。
足場が大きく割れた。
私は牢へ腕を伸ばした。
指先が境界を抜けても、肩が狭まった空間へ引っかかる。
足元の石が剥がれ、身体が水路側へ傾いた。
男の手が手首を固くつかむ。
拘束鎖が張りつめる音がした。それでも男は腕を引き、閉じかけた境界から私を引き抜いた。
次の瞬間には、牢内の床へ引き込まれていた。
背後で境界が閉じる。
私たちが立っていた通路が崩れ、暗い水路へ呑まれていった。
私は石床へ座り込み、激しくむせた。
「……助かった。ありがとう」
「あんたが自分で門を開いたからだ」
男はそれだけ答え、床へ座り直した。
「俺はラウルだ」
「リディアよ」
ラウルは頷き、フィアの発音を地下語で確かめた後、「フィアだな」と地上語で教えた。
「リディア。地上人が、なぜ奈落の最深部にいる」
私は腰の記録板へ手を添えた。
十三票も、遠隔維持装置の部品も、今ここで話す気にはなれない。
「仲間に置き去りにされたの」
ラウルは慰めも同情も口にしなかった。
ただ、ぼろぼろになった装備と擦り切れた指先を見た。
「ここから外へ出る道と、人がいる場所は知っている」
今の私が最も欲しい情報だった。
だが、ラウルは床の石環へつながれたままだ。
これほど厳重に拘束されている以上、理由があるはずだ。
「なぜ、ここにつながれているの?」
「俺を危険だと判断した者がいるからだ」
「あなた自身は、危険ではないと言うの?」
「今ここで俺が否定して、あんたは信じるのか」
信じられるはずがなかった。
ラウルも、それ以上は自分を正当化しなかった。
「案内してくれるの?」
「全部外せとは言わない」
ラウルは手首と片足の枷を見せた。
「床へ固定している一本だけでいい。手枷と足枷が残っていても、歩くことはできる」
「フィアや私へ危害を加えないと約束できる?」
「人がいる場所まで案内する間はな」
「随分、範囲の狭い約束ね」
「初対面の相手へ、生涯の忠誠でも誓えと言うのか」
信用できないからこそ、できる範囲だけを互いに差し出す。
少なくとも、何も確かめずにすべての拘束を外すよりはましだった。
黒い鎖には魔力が流れている。
力で引きちぎろうとすれば、逆に締まる封印だった。
だが、鎖そのものを壊す必要はない。
「分かった。道を案内して。代わりに、床への固定だけを外す」
私はラウルの足元へしゃがみ込んだ。
鎖の先端と、床の固定環。
二つを結ぶ境界だけへ術を通す。
乾いた音を立て、太い鎖が床から外れた。
ラウルが立ち上がる。
両手首と片足の拘束は残っているが、歩くことはできる。
彼は鎖を短く鳴らし、牢の奥に続く通路を見た。
「行く前に警告しておく」
琥珀色の瞳が、まっすぐ私へ向けられる。
「俺を外へ出せば、追ってくる者がいる」




