第5話 私が最初ではない
静かな水音の中で、私は錆びた兜の表面を指先でこすった。
現れたのは、現在のアルヴェリア王国とはわずかに意匠の異なる、旧式の王立探索隊紋章だった。
少し離れた場所では、フィアが負傷した足へ布を巻いている。
私が兜から目を上げると、彼女は手にしていた乾燥した根を半分に折った。片方を自分でかじり、残りを石床へ置いて私の方へ押し出す。
まだ近づくつもりはないらしい。
それでも、分けてくれた。
「ありがとう」
言葉は通じなくても、胸へ手を当てて頭を下げた。
乾燥した根は硬く、苦みも強かった。少しずつ噛んで飲み込むと、空だった腹へかすかな熱が戻ってくる。
私は兜の隣に転がっていた革袋へ手を伸ばした。
革は硬く干からび、触れただけで端が崩れる。その隙間から、油を染み込ませた布包みがのぞいていた。
中に入っていたのは、薄い金属製の記録板だった。
地下の湿気や魔力の乱れでも文字を残せるよう、探索隊が重要事項を刻むために使うものだ。
表面は傷だらけで、ところどころ変色している。それでも、刻まれた文字は読めた。
右端の日付を確かめる。
六十年前。
遠征用記録板の日付は、王立工房で刻まれる。現地で書き換えることはできない。兜の形も、剣の鍔に入った製造印も、同じ時代のものだった。
誰かが後から古く見せかけた品ではない。
六十年前、王立探索隊は確かにここへ来ていた。
署名部分は深く腐食し、記録者の名までは分からない。
その下に残された数行を追い、私は息を止めた。
『帰還門が損傷した。通過できるのは十三人』
『彼らは、一人を残して帰還した。残されたのは私だ』
『私は志願していない。彼らは地上で、私が進んで残ったと報告するだろう』
金属板を持つ指が震えた。
最後の二行だけ、ほかの記録より深く刻まれている。何度も同じ溝をなぞり、消されないようにしたのだろう。
怒っていたのか。
恐ろしかったのか。
誰かに見つけてほしかったのか。
名前の読めないその人が、どんな顔で一人残されたのかは分からない。
ただ、この文字を刻んだ時点では生きていた。
そして、自分の意思を地上側の都合で書き換えられると知っていた。
私は志願していない。
帰還門の前で、私が叫んだ言葉と同じだった。
十三人が通過し、一人が残された。
地上へ帰った者たちは、残された人間が進んで犠牲になったと報告する。
人数も、帰還門の損傷も、その後に作られるであろう嘘まで同じだ。
今回だけの異常な判断ではなかったのかもしれない。
六十年前にも、ここで誰かが助けを求めた。
そして、その声は地上へ届かなかった。
少なくとも、私が学んだ王国史や王立探索隊の記録に、この事件は載っていない。奈落で一人を残して十三人が帰還した遠征など、聞いたこともなかった。
探索中に全滅した隊や、行方不明になった隊なら記録にある。帰還者が十三人もいれば、功績も事故報告も残るはずだ。
それが、何もない。
誰が消したのか。
帰還した探索隊が隠したのか。王家も知っていたのか。
ほかにも、同じように置き去りにされた者がいるのか。
一枚の記録だけでは、まだ何も断定できない。
それでも、私だけが不運だったとは思えなかった。
これは、何度も繰り返されてきた仕組みなのかもしれない。
私は金属板を布で包み直し、腰のベルトへ固く結びつけた。
誰に見せればいいのかも分からない。
だが、ここに残された声まで失うわけにはいかなかった。
顔を上げると、フィアがこちらを見ていた。
文字の意味は分からなくても、私の手が震えていることには気づいたらしい。彼女は迷った末に少しだけ距離を縮め、残していた乾燥根の欠片をもう一つ、私のそばへ置いた。
私は金属板を押さえたまま、もう一度頭を下げた。
フィアが短く声を上げた。
水際の岩へ手を当て、目を閉じている。
やがて顔色を変え、私に向かって両手を上げた。片方の手を開き、もう片方の指を一本立てて見せる。
六つ。
続いて、暗い横通路を指した。
硬い足音と、低い唸り声が近づいてくる。
さっきの六本脚の獣だ。
閉じた境界を越えられなくても、別の水路を回ってここまで来たらしい。
立ち上がろうとすると、右足首の痛みと立ちくらみに襲われた。乾燥した根を口にしても、魔力まで戻ったわけではない。
これ以上、逃げ続ける体力はなかった。
周囲を見回す。
獣が来る横通路。
泉の奥には、さらに下層へ続く古い縦坑がある。
手近な小石を拾い、縦坑へ落とした。
一つ、二つと数える。
しばらくして、下からかすかな反響が返った。
深い。
それでも、空間の位置はつかめた。
境界術は、存在しない出口を作る術ではない。
横通路も縦坑も、すでにここにある。私は二つの入口が接する場所を、ほんの一瞬だけ入れ替える。
問題は時機だった。
早すぎれば獣は異変に気づいて止まる。遅ければ、牙が私へ届く。
今度は自分を逃がすのではない。
横通路の出口と縦坑の入口をつなぎ、獣の進路を変える。
「フィア、下がって」
声と身振りで壁際を示す。
フィアはすぐに移動すると、手にした小石で壁を叩き始めた。
トン、トン。
獣の足音に合わせ、接近を知らせてくれる。
石を打つ間隔が短くなる。
暗がりから、白い身体が現れた。
獣は鼻先を動かしてこちらを捉えると、六本の脚を沈めた。
フィアの石音が速くなる。
獣が床を蹴った。
「そこ!」
残る魔力を集め、横通路の先と縦坑を一瞬だけ接続する。
空間が歪み、獣の前から石床が消えた。
飛びかかっていた身体は勢いを止められず、そのまま縦坑の暗闇へ落ちていく。
私はすぐに境界を閉じた。
下方から咆哮が響き、遠ざかっていった。
生きているのか、どこまで落ちたのかは分からない。
少なくとも、すぐに戻っては来られない。
「……はぁっ」
足から力が抜け、その場へ座り込んだ。
フィアが駆け寄りかけ、途中で足を止めた。
まだ私を信用しきってはいない。それでも逃げずに、手の届かない距離から心配そうにこちらを見ている。
私は大丈夫だと伝えるため、震える手を一度上げた。
魔力が底をつき、泉もフィアの姿も揺れて見える。
それでも、やった。
地上では補助にしか使えないと思われていた境界術で、私は自分から敵を退けた。
荒い呼吸を繰り返していると、閉じたはずの縦坑との接続が、ごく細く残っていることに気づいた。
私の集中が切れ、綻びを閉じきれなかったらしい。
わずかな揺らぎの向こうから、声が届いた。
「今の門を開いたのは誰だ?」
低く、警戒を含んだ男の声。
地上語だった。
しかも、私の術を正確に門と呼んだ。




