第4話 囮にすれば助かる
ざらついた砂が、口の中を埋めていた。
重い。
痛い。
息を吸うたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
真っ暗な空間で、自分の身体がどこまであるのかさえ分からない。
死んだのだろうか。
それとも、まだ生きているのか。
遠くから、かすかな声が聞こえた。
獣の鳴き声ではない。高く、途切れがちな子どもの泣き声だった。
重い瞼を開いても、何も見えない。
指先を動かすと、湿った土と小石に触れた。呼吸ができる。痛みもある。
私は、まだ生きていた。
どれほど時間が過ぎたのかは分からない。喉は干上がり、舌には血の味が残っている。
帰還門が閉じた音。
押さえつけていたエドガーの腕。
光の向こうへ消えた十三人の背中。
記憶が一度に戻り、呼吸が浅くなった。
ここには誰もいない。
助けは来ない。
その事実に呑まれる前に、私は動かせる範囲で手足を探った。
重い石柱は折れた門枠へ斜めに引っかかり、身体の直撃を免れていた。それでも全身には打撲と浅い切り傷があり、右足首を動かすと鋭い痛みが走る。
首元には、遠征中だけ鎖へ通していた婚約指輪が残っていた。胸へ食い込んだ輪を握りかけ、私はすぐに手を放した。今は、それが意味するものを考える余裕はない。
このままでは、崩れ残った石に潰されるか、渇きで死ぬ。
私は目を閉じ、頬に触れる空気へ神経を集中した。
境界術は、願った場所へ出口を作る万能の術ではない。すでに存在する二つの境界を、短い間だけつなぐか、切り分けることしかできない。
接続先には、目で見た形、知っている構造、音、あるいは自分で残した魔力目印が要る。面積、距離、維持時間が増えるほど負荷は急激に重くなり、今の私なら大きな接続は一つが限界だ。生き物の身体の内側を直接切り分けることも、何が傷つくか分からない以上できない。
瓦礫の向こうから、細い流れが届いている。
少し先に、今いる場所より広い空洞がある。
指先の痺れも、視界の揺れも残っていた。それでも、ほかに選べる道はない。
自分の身体を囲む空間と、空気が流れ込む亀裂を数秒だけつなぐ。
「……っ!」
暗闇が歪んだ。
私は腕で土をかき分け、開いた隙間を這った。外へ転がり出たところで接続が切れ、背後の穴が砂に埋まる。
眩暈と吐き気に襲われ、その場へ膝をついた。
胃には何も残っていない。苦い液を吐き、荒い息を整える。
顔を上げると、青く光る苔が空洞の壁をぼんやり照らしていた。
「……ぁ……」
また、泣き声がした。
痛む足を引きずり、壁に手をつきながら声の方へ進む。
崩れた石材の下に、小さな影があった。
十二歳くらいの少女が、片足を瓦礫に挟まれて泣いている。
ぼろぼろの服。
暗がりで光を返す金褐色の瞳。
髪の間からのぞく、二本の小さな角。
魔物。
地上で教えられてきた言葉が浮かんだ。
奈落に棲み、人間を襲うもの。
だが、目の前にいるのは、痛みに顔を歪め、涙を流す子どもだった。
少女は私の装備を見ると、怯えて身を縮めた。意味の分からない言葉で、必死に何かを訴えている。
「大丈夫。何もしないから」
通じていないと分かっていても、できるだけ穏やかに声をかけた。
両手を見せ、ゆっくり瓦礫へ近づく。
体重をかけて石材をずらすと、少女は足を引き抜いた。すぐに距離を取り、負傷した足をかばいながら私を見つめる。
私も、それ以上は近づかなかった。
そのとき、肌を刺すような悪寒が走った。
通路の奥から、低い唸り声と、硬いものが石床を叩く音が近づいてくる。
暗がりから現れたのは、白っぽい皮膚を持つ獣だった。
六本の脚。
視力はほとんどないらしく、鼻先を動かしながらこちらへ進んでくる。
少女の足から流れた血を追っている。
大型犬より一回り大きな身体が沈み、飛びかかる姿勢を取った。
立ち上がろうとした右足に痛みが走る。
少女も逃げようとしたが、私より遅い。
どうする。
冷たい計算が頭をよぎった。
私と少女の間にある狭い通路。その境界を閉じれば、私は横の亀裂へ逃げ込める。
血の匂いを追う獣は、少女へ向かう。
その間に、私は助かる。
彼女を囮にすればいい。
指先が動き、空間を閉じる術式を組み始めた。
私は十三人へ何度も助けを求めた。それでも彼らは、私の訴えに背を向けて地上へ逃げた。
こんな場所で、見ず知らずの子どものために死ぬ義理などない。
私は、生きて帰らなければならない。
「……っ」
外套の裾が引かれた。
少女の小さな手が、震えながら布をつかんでいる。
冷たく、頼りない手だった。
『君なら、分かってくれると思っていた』
エドガーの腕の感触が蘇った。
誰か一人を切り捨てれば、自分たちは助かる。
私は今、あの人たちと同じ計算をしようとしている。
組みかけた術式を消した。
一瞬でも迷った自分への嫌悪は、後でいい。
「逃げるよ」
言葉は通じなくても、少女の手を握り返した。
少女は驚いたように私を見上げ、すぐに反対側の壁を指した。
大人の身体では通れないほど細い、導水口らしき穴が開いている。奥から、かすかに水音が聞こえた。
少女は壁と穴を交互に指し、指で道筋を描く。
向こうに通路があるらしい。
だが、接続先の構造も目印もない状態では、境界をつなげない。
「先に行って」
私は身振りで示し、少女の身体を支えて導水口へ押し上げた。
少女は痛む足をかばいながら、細い穴を這っていく。
「向こうへ着いたら、壁を叩いて」
石を叩く真似をすると、少女は小さく頷いた。
六本の脚が床を蹴る。
獣が突進してきた。
まだか。
導水口の奥は暗いままだ。
獣の牙が青い苔の光を弾く。
コン、コン、コン。
壁の向こうから、一定の間隔で音が届いた。
少女の声と、かすかな魔力の反応もある。
そこだ。
私は現在の通路と、少女がいる空間の境界を結んだ。
景色が一瞬だけ重なる。
前へ身を投げた直後、背後で牙が空を噛んだ。
石床へ転がりながら境界を切る。
空間が閉じ、獣の唸り声が遠ざかった。
「はぁ……はぁ……」
冷たい床に手をつき、息を整える。
すぐ横から、水の流れる音が聞こえた。
天然の空洞を利用した、小さな泉だった。澄んだ水が岩肌から湧き、くぼみに溜まっている。
少女は泉から離れた場所で、まだ私を警戒していた。
喉の渇きに耐えきれず手を伸ばしかけ、止める。
安全な水とは限らない。
私の迷いに気づいたのか、少女が泉へ近づいた。両手で少量の水をすくって飲み、しばらく待ってから私へ頷く。
安全だと示してくれたらしい。
私も頷き返し、冷たい水を口へ運んだ。
干上がった喉を水が通る。
何度かに分けて飲み、ようやく呼吸を落ち着けた。
胸へ手を当てる。
「リディア」
少女は不思議そうに私を見た後、同じように自分を指した。
「……フィア」
互いに分かったのは、名前だけだった。
それで十分だった。
泉の奥の岩陰に、不自然な形が見えた。
足を引きずりながら近づくと、錆びて刃の欠けた剣、腐食した革袋、苔むした兜が転がっている。
地上の装備だった。
兜を持ち上げ、表面の汚れを袖で拭う。
アルヴェリア王立探索隊の紋章が現れた。
ただし、私が知る現在のものとは意匠が違う。資料でしか見たことのない古い型だ。
なぜ王国の探索隊装備が、帰還門から離れた奈落の奥に残されているのか。
水音だけが響く中、私は錆びた紋章を見つめた。




