第3話 笑って死んだ英雄
「国と民を愛し、自らを捧げた献身の聖女、リディア・フェルゼンよ」
大聖堂前の広場に、司祭の厳かな声が響いた。
遠征隊の帰還から三日。
王都の空は抜けるように青く、広場を埋めた人々は喪服姿で頭を垂れている。
祭壇の中央に安置された純白の棺は、空だった。
奈落から遺体は持ち帰られていない。蓋の上に置かれているのは、王都の宿舎に残されていた灰色の外套と、予備の境界術師徽章だけだ。
遺族席にいるのは、フェルゼン伯爵家本家から遣わされた代理人だけだった。リディアは傍流の生まれで、両親はすでに亡く、兄弟もいない。本家とは儀礼上の行き来しかなく、王都の小さな別邸を侍女ネラと二人で守ってきた。
最前列に立つエドガーは、両手を固く握りしめた。
手袋の下の指には、まだリディアの腕を押さえた感触が残っている。
布越しに伝わった体温。
逃れようと身をよじる力。
死にたくないと叫んだ、かすれた声。
どれも、三日では消えなかった。
だが、地上で語られているのは、エドガーの記憶と正反対の物語だった。
「突如として崩壊を始めた古代の帰還門を前に、彼女は己の危険を顧みず、十三人の命を救う道を選びました」
王家が発表した遠征の顛末は、美しく悲しい英雄譚に整えられていた。
帰還門は不慮の事故で壊れた。
リディアは全員を救うため、自ら残ると申し出た。
彼女は最後まで笑顔を崩さなかった。
エドガーを含む十三人の生還者は、すでにその共同証言へ署名している。
十四人で行った投票も、十三票目で打ち切られた開票も、リディアの拒絶も記録にはない。
押さえつけられた両腕。
奪われた脱出石。
遠隔維持装置を確かめようともしなかったこと。
それらはすべて、この青空の下で棺の中へ葬られようとしている。
今さら真実を話して、何になる。
エドガーは、胸の内で何度も繰り返した。
泣き叫び、仲間に見捨てられて死んだと公表すれば、彼女の死は責任追及や政争に利用される。国民は失望し、彼女がつないだ十三人の命まで非難の的になるだろう。
国には、人々が困難を乗り越えるための英雄が必要だ。
リディアはいつも我慢強く、自分が不足を埋めれば皆が助かると考えていた。
もし、この状況を知ったなら。
自分の死が国をまとめる礎になるなら、彼女は理解してくれるはずだ。
そう考えなければ、エドガーは空の棺の前に立っていられなかった。
祈りの声が広がる中、聖女マリエルが祭壇へ進み出た。
その胸元には、白銀の鎖で吊るされた石がある。
エドガーの目が、わずかに見開かれた。
帰還門の前で、マリエルがリディアの腰からむしり取った脱出石だった。
「リディア様が最期に、聖女マリエル様へ託された聖なる遺品。その石には、彼女の愛と祈りが宿っています」
司祭の言葉が、強奪を献身へ塗り替える。
託されたのではない。
奪ったのだ。
マリエルが石を胸の前で掲げ、祈りを捧げる。
すると石の内側から淡い光があふれ、細い糸のように祭壇の十三灯へ伸びた。
一つ、二つと炎がともる。
石に残った術式によるものか、ほかの力なのか、エドガーには分からない。
人波の中で、長く立っていた老女が倒れた。マリエルは反射的に祭壇を下り、その胸へ手を当てる。掌から淡い金色の光が流れ、乱れていた呼吸が少しずつ整った。大勢を一度に救う奇跡ではない。相手の状態を確かめながら施す、小さく確かな彼女自身の治癒だった。
老女が目を開けると、マリエルは安堵したように息をついた。だが、再び祭壇へ戻って奪った石を掲げた時、その指は先ほどより強く震えていた。
神秘的な光景を前に、人々から感嘆の息が漏れた。
「リディア様の遺志だ」
「今も、私たちをお守りくださっている」
人々は真実を知らない。
純粋な涙を流し、リディアのために祈っている。
マリエルが振り返り、エドガーと目を合わせた。
彼女の顔は青ざめていた。胸元の石を握る指には、不自然なほど力がこもっている。
それでも、マリエルは司祭の説明を訂正しなかった。
エドガーには、彼女も沈黙を選んだように見えた。
「エドガー・ヴァレン卿」
名を呼ばれ、エドガーの肩が揺れた。
振り返ると、喪服姿の王太子レオナードが立っていた。
差し出されたのは、一枚の羊皮紙だった。
王家が用意した、現場指揮官としての証言文。
王太子は何も命じなかった。
読むかどうかは、エドガーに委ねられている。
震える手で受け取り、祭壇の前へ進んだ。
広場を埋めた人々の視線が、一斉にエドガーへ向けられる。
愛する婚約者を失いながら、彼女の最期を見届けた騎士。
期待と哀れみに満ちた視線が、胸を締めつけた。
エドガーは羊皮紙から目を上げた。
今なら、まだ話せる。
彼女は同意していなかった。
自分たちが投票で選び、力ずくで置き去りにした。
そう叫べば、王家が用意した英雄譚は崩れる。
だが、声は出なかった。
リディアの死を、醜い争いの材料にしてはならない。
自分たちが背負うべきなのは、彼女の死を最も美しい形で語り継ぐことだ。
それが唯一の償いなのだと、エドガーは自分へ言い聞かせた。
小さく息を吸い、口を開く。
「彼女は、最後まで笑っていました」
広場から、すすり泣きが漏れた。
嘘だ。
彼女は泣いていた。
恐怖に顔を歪めていた。
それでもエドガーは、言葉を重ねた。
「崩れゆく門の前に立ち、我々の退路を支えながら、彼女はこう言いました。『皆をお願い』と。その笑顔は、どんな恐怖にも屈しない、強くて優しいものでした」
人々が泣き、リディアの名を呼ぶ。
婚約者を失いながら国民を勇気づけようとする騎士として、今度はエドガーへ祈りと称賛が向けられた。
列の前方にいた幼い少年が、母親に背を押されて祭壇へ近づいた。
手には、少し萎れた白い花が一本だけ握られている。
「騎士様」
少年は花を差し出した。
「リディア様を、最後まで守ってくれてありがとう」
守ってなどいない。
門へ向かう彼女の腕をつかみ、逃げられないよう押さえた。
違うと言えばよかった。
しかし、少年の隣で母親が涙を拭っている。周囲の人々も、英雄の婚約者が花を受け取る瞬間を待っていた。
エドガーは膝を折り、少年から白い花を受け取った。
「……ありがとう」
否定ではなく、礼を返した。
その瞬間、広場から彼を励ます拍手が起きた。
エドガーは、それも拒まなかった。
国葬が終わりへ近づくにつれ、空の棺は白い花に埋もれていった。
人々が持ち寄った肖像画や、木彫りの小さな像も置かれている。
どれも、柔らかな微笑みを浮かべたリディアの顔だった。
現実の彼女は、こんな顔で死を受け入れたわけではない。
生きることへ執着し、見捨てられる理不尽に怒り、泣いていた。
王家が差し出した虚偽を、真実を知らない人々が善意で信じていく。
そうして地上では、泣き叫んだリディアの姿が消え、微笑む聖女の像へ置き換えられていった。
エドガーは、その光景を止めなかった。
*
同じ頃、光の届かない地の底。
崩れた帰還門の土台は、岩と砂に埋もれていた。
折れた石柱が偶然支え合ってできた、狭い空洞。
泥にまみれた灰褐色の髪が、瓦礫の隙間からのぞいている。
長い静寂の中で、土砂に埋もれた細い指が、一度だけ動いた。




