第2話 私は死にたくない
金属の籠手越しに、エドガーの指が私の腕へ食い込んでいた。
魔獣を押し返すときと変わらない力だった。
遠征中、ずっと私の盾でいてくれた人が、今は私を死地へ縫い留める鎖になっている。
目の前では、仲間たちが崩壊寸前の帰還門へ飛び込んでいた。
一人通過するたび、門の輪郭が大きく歪む。接続を維持している私の身体から魔力が引き抜かれ、指先の痺れが腕まで這い上がってきた。
視界が二重にぶれる。
空間を走る亀裂は枝分かれし、降り注ぐ砂の量も増えていた。
「待って! まだ方法はあります!」
泣いているだけでは、何も変わらない。
私は境界術師だ。この門を調査し、帰還手段を整えるために遠征へ加えられた。
だからこそ、知っている。
「遠隔維持装置を使ってください! あれを門へ接続すれば、制御を地上側へ移せます。そうすれば、誰も残らずに済む!」
遠隔維持装置は、帰還門の境界を離れた場所から固定するために持ち込まれた魔導具だ。
正常に動けば、私がこちら側へ残る必要はない。
遠征前、王立倉庫で位相環も制御盤も私が点検した。輸送箱へ耐衝撃の結界を重ね、開封印まで自分で刻んだ。その後、装置は王太子府の特別再点検へ一度返納され、戻された箱には府の封印紙が貼られていた。深層へ降りる前に私が許されたのは、外箱の状態と制御盤の起動確認だけだった。
王太子府の再点検を疑う理由は、あの時の私にはなかった。落石を受ければ絶対に壊れないとは言えない。それでも、境界回路の一部が残っていれば応急接続は試せる。
そのために私がいるのだ。
帰還門のそばで指揮を執っていた王太子は、振り返りもせずに答えた。
「遠隔維持装置は使えない。先ほどの落石で破損した」
「破損した?」
私はまだ、装置を見ていない。
「境界回路の損傷なら直せる可能性があります。実物を見せてください。私が点検します!」
「その時間はない。門が崩壊する前に、次の者は通れ」
「装置はどこにあるのですか。破損を確認したのは誰ですか!」
王太子は答えなかった。
私の要求を切り捨て、王太子は仲間の一人を門へ進ませた。
また、身体から魔力を奪われる。
装置を確認する数分より、私一人を残して撤退する方を選んだのだ。
私は拘束するエドガーの腕の中で身をよじり、どうにか彼を見上げた。
「エドガー、お願い。殿下に進言して。装置を確認する時間をください。私なら直せるかもしれない!」
婚約者であり、現場指揮官でもある彼なら、王太子へ意見できる。
ほんの少しでいい。時間を稼いでくれれば、まだ試せることはある。
「……門がもたない」
エドガーは私から目をそらした。
「全員を救うには、これしかないんだ」
「全員の中に、私は入っていないじゃない!」
エドガーの腕が一瞬だけ緩んだ。
だが、それだけだった。
彼は王太子へ装置の確認を求めなかった。私を逃がそうともしなかった。
私の命だけが、最初から時間の計算に入っていない。
「放して! まだ死にたくないの!」
そのとき、青ざめた顔のマリエルが私の前へ歩み寄ってきた。
右手には、彼女の脱出石が握られている。不安定な門を通る者の身体を保護し、設定された地上の座標へ導くための石だ。
だが、マリエルの石は中央からひび割れ、魔力の光を失っていた。
彼女の視線が、私の腰へ落ちる。
そこには、境界術師用に調整された私の脱出石が吊るされていた。
脱出石の外側にある通過回路は、握った者の身体を門の崩壊から守る。持ち主を選ばないため、奪われれば他人にも使われてしまう。内側には、調整した本人の魔力紋と帰還座標を残す認証層があり、整備や紛失時の照合に使われる。
「……リディア」
マリエルの声は震えていた。
けれど、その手はためらわず私の腰へ伸びてくる。
「王太子殿下の命は、国の未来に必要なの。もちろん、殿下を支える聖女である私も」
「何を言っているの?」
「だから、その石を私に」
お願いの形をしていても、私に拒否を許す言葉ではなかった。
私は腰をかばおうと身をよじった。
「やめて! それは私が帰るための石よ。私が死ぬことを、もう決まったことのように話さないで!」
「ごめんなさい。でも、これが国のためなの」
「十三人が生きるためなら、一人から何を奪ってもいいの?」
マリエルの眉が揺れた。
「今は、誰かが決めなければならないの」
「決められたのは私よ。あなたではない!」
拘束された私には、伸びてくる手を払いのけることさえできない。
マリエルが革紐をつかみ、力任せに引いた。
千切れる音がした。
脱出石が、私の腰から奪われる。
それでも、渡すものか。
石が離れる寸前、私は痺れた指先へ意識を集めた。
ごく細い境界の糸を伸ばし、石の魔力回路へ滑り込ませる。
今は位置を追うことも、地上へ接続することもできない。それでも、いつかこの暗闇から見つけ出すための目印だけは残せる。
術式が石の奥へ沈んだ。
マリエルは気づかないまま、奪った石を握って門へ駆け込んだ。
彼女に続き、仲間たちも次々に光の中へ消えていく。
足早に私の前を通り過ぎる者。
一度だけこちらを見て、すぐに顔をそむける者。
地図師テオは焼けた投票箱を一度振り返った。何かを言いかけた唇は、結局何も告げないまま閉じられ、その足は門へ向かった。
重装戦士が私の前で一瞬だけ足を止めた。あの崩れた足場から、私が岩棚へ引き上げた男だった。
「リディア、俺は――」
だが、天井が鳴ると、彼は続く言葉を呑み込んだ。そのまま門へ駆け込み、光の向こうへ消えた。
言い訳さえ、命を懸けて私へ届けるほどのものではなかった。
「装置を見せて! 石を返して!」
喉が裂けそうになるまで叫んだ。
一人でいい。足を止めてほしかった。
けれど、私の声は崩落の轟音へ呑まれ、誰の足も止められない。
やがて王太子も門を通り、残ったのは、私を押さえているエドガーだけになった。
エドガーが拘束を解く。
急に支えを失い、私は膝をついた。
「……リディア」
彼は私の腕をつかみ直し、帰還門の正面に刻まれた維持陣へ押し戻した。
ここから離れれば接続は切れ、門の中にいる者まで巻き込まれる。
私がそれを見捨てられないと、彼は知っている。
「一緒に残って」
私は彼の腕へ縋った。
「一人にしないで……」
エドガーの顔が苦しげに歪んだ。
それでも、彼の足は私の方へ向かなかった。
「すまない」
私の手を振りほどき、エドガーは帰還門へ飛び込んだ。
「エドガー!」
維持陣を蹴り、私も光の渦へ手を伸ばす。
だが、脱出石を持たない身体を、不安定な境界が弾き返した。
衝撃が全身を打ち、冷たい石床を転がる。
帰還門の光が急速に縮んでいった。
閉じかけた門の向こう。地上の転送室で、王太子付きの従者クレマンがよろめいた。
肩から下げた荷袋の口が開き、金属製の部品がのぞく。
三日月形の位相環。
見間違えるはずがない。
遠隔維持装置の中枢に組み込まれていた部品だった。
なぜ。
落石で壊れたのなら、どうして中枢部品だけが、王太子の従者の荷物に入っている。
誰が外したのか。
いつから、そこにあったのか。
門の向こうでクレマンが振り返る。
目が合うより先に、銀色の光が一本の線へ縮んだ。
轟音とともに、帰還門が閉じる。
境界の支えを失った天井が崩れ、岩と暗闇が私の上へ落ちてきた。




