第1話 十三票
「十三票目――リディア・フェルゼン」
よく通る声が、崩壊の地鳴りを縫って薄暗い空間に響いた。
王太子レオナードが読み上げたのは、間違いなく私の名前だった。
石台の上には、白木の投票札が並べられている。どれにも、焦って書いたような歪な文字で『リディア』と記されていた。
一、二、三――。
何度数えても、十三枚。
足元が激しく揺れ、天井から砂と小石が降り注いだ。空間を走る亀裂が青白く瞬くたび、耳をつんざくような魔力の摩擦音が鳴り響く。
背後にあるのは、地上へつながる古代の帰還門だ。本来なら十四人全員が通れるはずだった門は、先ほどの落石と魔力暴走で深刻な損傷を受けていた。
円形の石枠には亀裂が走り、内側を満たしていた銀色の光も、今は途切れながら明滅している。光が消えるたび、その向こうに見える地上の転送室も闇へ沈んだ。
私が境界へ魔力を流している間だけ、二つの場所はかろうじてつながっている。手を止めれば門は閉じる。全員が通過する前に接続が切れれば、門の中にいる者がどうなるか分からない。
『門を維持できるのは、こちら側に残る一人だけだ。今の状態で通過できるのは十三人。誰か一人が残らなければならない』
そう告げられたのは、ほんの少し前だった。
話し合う時間はない。王太子はそう言って、十四人による投票を命じた。
渡された白木札は一人一枚。表へ残す者の名を書き、裏面には二重投票とすり替えを防ぐ個人認証紋が刻まれている。通常の開票では表だけを読み、異議が出た時だけ封印担当と立会人が裏面を照合する決まりだった。
封印担当は、王太子付きの従者クレマンだった。異議照合には箱をいったん閉じ、認証盤へ移し、封印担当と二人の立会人が札を一枚ずつ確認しなければならない。
そして今、十三票目が石台へ置かれた。
投票箱の中には、まだ一票残っている。だが、十三票が私を指した時点で、最後の一票が誰の名でも結果は変わらない。
私は、自分の名前を書いていない。
ならば、私以外の十三人全員が、私を奈落の底へ残すと決めたことになる。
一票目を聞いたときは、誰か一人くらいは私を選ぶだろうと覚悟していた。
二票目、三票目と同じ名が続いても、まだ偶然だと思おうとした。五票を越えたあたりからは、札が置かれる音がするたび、胸の奥を小さな槌で打たれているようだった。
十票目から先は、王太子の声が遠くなった。
それでも私は、エドガーの票だけは違うはずだと考えていた。どの札が彼のものか分からないのに、次こそ別の名が呼ばれると信じて、十三票目まで聞いてしまった。
息が詰まった。肺に冷たい泥を流し込まれたように、うまく呼吸ができない。
「待ってください」
声がかすれた。
私は必死に息を吸い込み、王太子へ一歩近づいた。
「最後の一票も見せて。十三枚の筆跡と、裏面の認証紋を照合させてください」
「結果はすでに決した。誰が誰に投票したか、これ以上確かめる意味はない」
「あります! 私は、自分の名前を書いていない!」
王太子の金色の瞳が細められた。
そこに迷いはなかった。彼はただ、予定された手順を進めるように答えた。
「生還した者同士が、地上へ戻ってから互いの票を疑う事態は避けなければならない。これは遠征隊として下した決定だ」
「だからこそ、見せてください。最後の一票だけでも――」
「照合には時間がかかります」
投票箱の脇にいたクレマンが、留め具へ手を置いた。
「今から認証盤を起こせば、少なくとも百を数える間は誰も門へ入れません」
「その間に門が落ちれば、残るのは一人では済まない」
王太子が仲間たちを見渡した。
私はエドガーを見た。現場指揮官である彼が異議照合を求めれば、少なくとも手順を止められる。
だが、エドガーは私と目を合わせなかった。
「……現場指揮官として、退避を優先する」
私の照合要求ではなく、王太子の裁定を支持した。
王太子が片手を上げた。
その指先に魔力が集まった次の瞬間、石台の十三枚と、最後の一票が入ったままの投票箱が炎に包まれた。
「やめて!」
反射的に手を伸ばしたが、炎の熱に阻まれ、指先が空を切る。
魔法の火は、あっという間に白木を灰へ変えた。最後の一票も、十三枚の筆跡と認証紋も、もう確かめられない。
熱の残滓だけが、伸ばした手のひらにまとわりついていた。
私は振り返り、十三人の仲間を見た。
長い遠征をともに越えてきた人たちだった。
重装戦士は床へ目を落とし、斥候は唇を噛んでいる。聖女マリエルは王太子の半歩後ろに立ち、青ざめた顔を私からそむけていた。ほかの者たちも、崩れかけた帰還門ばかりを見つめている。
私は境界術師だ。
前衛のように剣を振るい、魔獣を倒すことはできない。
けれど、崩れた通路をつなぎ直し、退路を作った。結界の綻びを見つけ、夜通しで塞いだ。足を負傷した斥候を運ぶため、二つの通路を短時間だけ接続したこともある。
床へ目を落としている重装戦士が、崩れた足場から落ちかけたときもそうだった。私は谷の向こうの岩棚へ境界をつなぎ、彼の身体を引き上げた。
マリエルが魔力切れを起こした夜には、彼女の結界が戻るまで三重の境界を維持した。朝になって目を覚ました彼女は、私の手を握って「あなたがいてくれてよかった」と言った。
その手は今、王太子の外套をつかんでいる。
私が足りないところを埋めれば、皆が助かる。
そう信じて、目立たない仕事も引き受けてきた。
仲間たちも、そのたびに言った。
リディアなら分かってくれる。
その言葉の行き着く先が、これなのか。
「本当に、私へ入れたの?」
声が震えた。
涙があふれ、十三人の顔が滲んでいく。
「もう一度考えて。私を置いていかないで。どうして誰も、何も言わないの?」
返ってきたのは、重い沈黙だけだった。
誰一人、「自分は違う」と言わない。
「エドガー」
私は、十三人の中に立つ婚約者を呼んだ。
暗褐色の髪に砂が積もっている。いつもなら私が払っていた。けれど彼は俯いたまま、こわばった手を剣の柄へ置いているだけだった。
「せめて、もう一度投票して。あなたから王太子殿下に頼んで。お願いだから、何か言って」
エドガーの喉が動いた。
それでも、返事はなかった。
その沈黙は、焼け残った灰よりもはっきりと、彼らの答えを私へ突きつけた。
「リディア」
沈黙を破ったのは王太子だった。
「君なら、皆を救う意味を理解できるはずだ。君の境界術なら、我々が通り抜けるまで門を維持できる」
「理解できることと、同意することは違います」
私は顔を上げ、王太子を睨んだ。
頬を伝う涙は拭わなかった。
ここで笑って皆を送り出すことなど、できるはずがない。
「私は志願していません」
ひび割れる空間の轟音に負けないよう、声を張り上げた。
「ここに残ることにも同意していない! 死にたくない!」
王太子の表情は動かなかった。
彼が仲間たちへ顎を引く。
「行け」
その一言で、仲間たちが帰還門へ向かって動き出した。
最初の一人が銀色の光へ足を踏み入れる。門の輪郭が激しく歪み、私の指先から魔力が吸い取られた。
それでも誰も止まらない。次の者は前の者の背を押し、その後ろの者は崩れかけた天井を見上げながら順番を詰めた。
誰も振り返らない。
私を残して、地上へ帰ろうとしている。
「待って! 行かないで!」
私は彼らを止めるため、帰還門へ駆け出そうとした。
腕をつかんででも止める。投票が終わったというだけで、自分の死まで決められてたまるものか。
だが、踏み出した瞬間、背後から両腕を強くつかまれた。
「……っ!」
身をよじっても、背中に触れた鎧は動かない。
振り返らなくても分かった。
この体温も、鎧に染みついた金属の匂いも知っている。
遠征の間、いつも私の隣を歩いていた現場指揮官。
私の婚約者。
投票の間、一度も目を合わせなかった。それでも最後には、彼だけは私を守ってくれるのではないかと、どこかで信じていた。
「エドガー……放して」
頭上から、苦しげな声が落ちてきた。
「すまない」
私を拘束する腕に、さらに力がこもる。
「君なら、分かってくれると思っていた」




