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第52話 借り物の聖女

大奇跡装置の固定台で、リディアの脱出石が悲鳴のような音を立てていた。


 青白い光が治療室の床を走り、寝台の患者へ繋がっている。規則正しかったはずの光は激しく明滅し、一人の治療線が弱まるたび、別の患者へ過剰な魔力が流れ込んだ。


 マリエルは倒れた少女の胸へ両手を当てた。


 自分自身の治癒光を、細く、慎重に流す。


 乱れていた呼吸が少し落ち着いた。


 この力は本物だった。


 一人の傷と熱を感じ、相手に合わせて祈る小さな治癒。広場の数百人を一度に立たせることはできないが、目の前の一人へ届く、彼女自身の力だ。


「聖女様、中央列の患者が!」


 救護人の声で、マリエルは次の寝台へ走った。


 大奇跡の治療を受けた男の腕が、青く膨れ上がっている。装置から入った魔力が出口を失い、体内で淀んでいた。


「第三導管を閉じてください!」


 マリエルが叫ぶと、宮廷魔導官が制御盤の前へ立ちはだかった。


「なりません。いま一系統でも閉じれば、全体の均衡が崩れます」


「もう崩れています。この方は過剰流入で死にます!」


「星脈炉の一時的な乱れです。王国軍が奈落の侵入者を排除すれば回復する。聖女様は固定台へ戻り、祈りを続けてください」


 魔導官の手には、王太子府の命令板がある。


『大奇跡の停止、及び聖女の権威を損なう発言を禁ずる。装置異常は奈落軍の呪詛として公表すること』


 マリエルは文字を読み、指先が冷たくなるのを感じた。


 装置を止めれば、借り物の治癒で支えられている患者が悪化するかもしれない。市民は聖女の奇跡を信じてここへ来た。王都が戦火に包まれた今、最後の希望まで奪うことになる。


 そう考えれば、祈り続ける理由はいくらでも作れた。


 けれど、最初の公開治療で患者が倒れた時も、彼女は同じ言葉で手を戻した。


 大多数が救われている。


 途中で止めれば危険だ。


 人々を不安にしてはいけない。


 その奥に、聖女の座を失いたくない自分がいることを、今はもう否定できない。


「全体を一度に止めるのではありません」


 マリエルは救護人たちを集めた。


「患者を四群に分けます。自力で状態を保てる方は装置から外す。通常の治療師で支えられる方は、導管を一本ずつ閉じて引き継ぐ。重症者には蓄積石の残量を分け、最後まで急に切らないで」


 魔導官が彼女の腕を掴んだ。


「これは反逆です。あなたの奇跡も地位も、王家が保証していることをお忘れか」


 その手を見て、マリエルは帰還門前のリディアを思い出した。


 両腕を拘束され、腰から石を奪われた女性。


『それは私が帰るための石よ』


 自分は、あの拒絶を聞いた。


 それでも石へ手を伸ばした。


 国のため。王太子のため。聖女である自分の命のため。


 どれほど怖かったかを理解した今も、奪った事実は変わらない。


「放してください」


 マリエルは言った。


「私は、続けることに同意しません」


 魔導官の手が緩んだ隙に、彼女は制御盤の第三導管を閉じた。


 患者数人が呻き、救護人が駆け寄る。マリエルは一人ずつ状態を見て、自分の治癒を流した。全員を同時には救えない。どの患者へ誰をつけるか、医師の判断を仰ぎ、聖女の身分で割り込まなかった。


 第一群が装置から外れる。


 次に第二導管。


 大奇跡の光が弱まるにつれ、マリエル自身の身体へ疲労が積み重なった。これが本来の治癒だった。一人を治せば息が上がり、二人目では腕が震える。


 それでも、相手の苦痛を感じない巨大な光より、今の方が何をしているかわかる。


 最後に残ったのは、脱出石へ直結された重症者六人だった。


 蓄積石を一人ずつの寝台へ移し、通常の治療師が脈を取る。マリエルは固定台の出力を最小まで落とした。


 宮廷魔導官が通信具へ叫ぶ。


「聖女マリエルが奈落の呪いに侵された! 拘束隊を寄越せ!」


 その声は、装置の公開放送回路にも流れた。


 広場、市街の施療所、避難所。大奇跡の祈りを届けるため設置された受信板が、まだ王都中で生きている。


 マリエルは通信具を取った。


「王都の皆さん。私は、奈落の呪いに操られているのではありません」


 声が震える。


 聖女として最後に整った言葉を語ろうとする自分がいた。民を安心させる美しい告白にし、勇気ある改心として記憶されたい。


 それもまた、都合のよい物語だ。


「大奇跡は、私だけの力ではありません。リディア・フェルゼン様から奪った脱出石と、星脈炉から供給された魔力を、装置が流していました」


 治療室が静まり返った。


「私は、帰還門でリディア様へ投票しました。彼女が『死にたくない』『石を返して』と拒絶したのを聞きながら、両腕を押さえられていた彼女の腰から、脱出石を奪いました。託されたのではありません」


 一つ口にするたび、これまで守ってきた地位が崩れていく。


「地上へ戻った後も、私は嘘の共同証言へ署名し、奪った石を遺品として掲げました。装置の力が私自身のものではないと気づいた後も、聖女でいたくて黙りました」


 誰かに命じられたからだけではない。


「今、告白したことで、私がしたことが許されるとは思っていません。私は審理を受けます。ですが、これ以上患者を傷つける装置は止めます」


 マリエルは最後の固定具へ手をかけた。


 脱出石を外す。


 大奇跡の光が消え、治療室は普通の灯りだけになった。


 患者の一人が痙攣し、彼女はすぐ寝台へ戻った。自分の治癒を流し、医師が薬を打つ。別の患者には、ほかの治療師がついた。


 誰も一斉に立ち上がらない。歓声もない。


 一人ずつの呼吸を繋ぐ、苦しく小さな治療が続いた。


 拘束隊が到着する前に、王都守備兵が治療室の入口を塞いだ。


「市民へ砲撃しろという命令を拒んだ者です」


 隊長は言った。


「聖女を逃がすつもりはない。ただ、患者の処置が終わるまで王太子直属隊へ渡さない」


 マリエルは頷いた。


「それで十分です」


 彼女は脱出石を耐火布へ包み、地方神殿の救護人へ差し出した。


「リディア様へ返してください。私から直接、受け取ってほしいとは言えません。証拠として、立会人と一緒に」


 救護人は石の来歴と受領時刻を記し、王都の救助本部へ通信を送った。


『大奇跡装置、停止。マリエル本人が投票、石の強奪、虚偽、借用装置を公開証言。脱出石を証拠封印の上、返還する。本人は逃亡せず、患者治療後の拘束を受け入れる』


 通信の最後には、もう一人の名があった。


『エドガー・ヴァレンが、返還された脱出石の本人認証層を使い、王都全域へ自らの証言を送る許可を求めている』

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