第41話 女王の腕
「ラウル!」
私は崩れた彼の身体を抱き起こした。
脇腹の傷から流れた血が、指の間を熱く濡らす。けれど、傷口は槍で貫かれたものとは違っていた。青白い光が肉の奥で脈打ち、そのたびに血が内側へ引かれるように滲んでくる。
「触るな……まだ、武器と繋がっている」
ラウルが歯を食いしばって言った。
広場の奥では、王国兵が位相杭へ再び魔力を送り込もうとしている。最初の一撃はラウルを傷つけただけではない。杭と傷の間へ、目に見えない照準線を残していた。
次が来れば、彼だけでなく周囲の避難民まで巻き込む。
「治療師、止血を。傷の中の光には触れないで」
私は叫び、同時に灰橋口全体を見回した。
避難はまだ終わっていない。第一槽には子どもと負傷者が二十人以上残り、第三槽では武器を捨てた王国兵が、守護獣と同じ順路へ入ることを恐れて足を止めている。ここで私がラウルだけにかかりきりになれば、詰まった列へ追撃が届く。
女王になった直後に、その役目を一人で抱え込んではならない。
「フィア、三つの接続先の打音をあなたが管理して。通れない時は二度、通れる時は三度。私の返事を待たなくていい」
フィアは青ざめながらも、石を握って頷いた。
「避難班長は第一槽と第二槽の順番を決めて。降伏兵の確認はミハルの副記録員へ。防衛班はラウルではなく、あなたたちの判断で西側を閉じて」
私は女王印を防衛代表へ預けた。次の一刻、避難路の開閉と部隊撤退については、私の返答を待たず三人の現場責任者の合議で決められるようにする。
「女王印を渡してよいのか」と問われたが、これは王位を譲る印ではない。権限、期限、使える目的を刻んだ一時鍵だ。
「私が戻らなくても、避難を止めないで。逆に、私が無理な命令を送っても、現場三人が危険と判断したら拒否して」
ラウルを救う間だけ全体を放棄するのでも、彼を見捨てて指揮席へ縛りつくのでもない。私がいない時間にも動ける形を作ることが、女王として今できる判断だった。
「女王はどうする」
「追撃兵器と治療所を切り離します」
私はラウルを担架へ載せようとした。彼の大きな身体を持ち上げた瞬間、腕が震える。
役に立つから失えないのだ、と考えようとした。
彼は旧調停王家の道を知り、地下語を訳し、戦場で私の判断へ反対できる。女王の腕として必要な人物だ。
けれど、そんな計算では、喉を塞ぐこの恐怖を説明できなかった。
担架の上で呼吸が一度浅くなるたび、あの牢の中で差し出された手や、私が自分で飛ぶのを待っていた背中が、次々と思い浮かぶ。
「リディア」
ラウルが薄く目を開いた。
「俺一人のために、列を止めるな」
「止めていないわ。役割を渡したの」
私は担架の片側を掴んだ。
「それに、あなたを置いていく案を採用するつもりもない」
もう片側を治療師が持ち、私たちは西の旧水路へ走った。
背後で位相杭が甲高く鳴る。
担架の下へ、青い線が伸びてきた。石壁も人の身体も無視し、傷の中の欠片だけを追っている。
「止まって!」
私は担架を床へ置き、線の構造へ感知を集中した。
追撃兵器から傷まで、一本の魔力が繋がっているのではない。兵器側が短い周期で位置を問い、傷の中の金属が応答し、その間だけ境界が閉じる。問いと応答が一組になった時、次の力が送り込まれる仕組みだ。
その周期に、見覚えがあった。
崩れ落ちる帰還門の向こうで、クレマンの荷袋から覗いていた三日月形の位相環。
遠隔維持装置は、地上から門の位置を問い、地下側の環が応じることで接続を安定させる。同じ規格が、人を追い続ける武器へ使われている。
「傷の中に、位相環の欠片がある」
「ここで抜けるか?」
治療師が問う。
「今抜けば血管まで裂けます。治療所で開創しないと無理。でも、そこへ運べば建物ごと照準にされる」
私は旧水路の先を見た。仮設治療所は二つ先の区画だ。すでに先行した負傷者がいる。ラウルの傷と治療所を同じ空間へ入れた瞬間、兵器は全員を標的にできる。
問いかけの光がまた来る。
私はそれを切り消さず、あえて傷の直前まで引きつけた。
接続先を偽るのではない。兵器の問いが届く範囲と、治療所が属する避難区画。その二つの境界を、入口の防火扉で分ける。
「私たちが扉を越えたら、すぐ閉めて。誰も敷居へ立たないで」
治療師と防衛要員が担架を持ち上げる。
私たちは青い線を引きずったまま治療所へ走り込み、最後に私が防火扉の内側へ入った。
線が敷居を越えようとした瞬間、私は扉の内外に残る古い防火境界を起こした。
「ここから先は、あなたの標的じゃない!」
兵器と傷の接続を力任せに断てば、傷の中へ反動が返る。私は問いかけの線だけを外側の空の消毒槽へ流し、治療区画との境を閉じた。
青白い光が消毒槽の中で弾けた。
次いで、灰橋口の方角から杭が砕ける鈍い音がした。対象を失ったまま出力を上げ、位相環が焼き切れたのだ。
「今よ。欠片を抜いて!」
治療師たちがラウルの鎧を切り開く。私は術野を照らす灯りを固定し、血管と金属片の境だけを示した。切るのも、縫うのも、治療師の手だ。境界術で傷そのものを都合よく治すことはできない。
鉗子が肉の奥へ入り、三日月形に欠けた黒銀の部品を引き出した。
ラウルの身体が大きく跳ねる。私は反射的に彼の手を握った。
今度は、彼を押さえつけるためではない。
「ここにいるわ」
意識があるかもわからない相手へ、私はそう言った。
長い処置の後、治療師がようやく顔を上げた。
「出血は止めた。今夜を越えられるかは、本人の体力次第だ」
助かったとは言わなかった。その正直さに頷き、私は握っていた手をそっと寝台へ戻した。
治療所の外では、預けた女王印の使用記録が届いていた。
避難完了百八十七人。降伏兵十一人を武装解除して第三槽へ。灰橋の記録箱三つを搬送。行方不明四人については、防衛班が追撃を避けながら捜索を継続している。
私がその場にいなくても、避難は止まらなかった。
フィアからは、石に刻んだ短い報告が来た。『ラウル、いきる?』
私は「まだわからない」と返そうとして手を止めた。子どもを安心させるためでも、確定していない生死を約束してはいけない。
『治療師が血を止めた。今夜は見守る。私も戻る』
事実だけでは冷たすぎる気がして、最後に一つ付け加えた。
『私も、生きてほしい』
眠る彼を見ても、恐怖は消えない。
私はようやく認めた。
ラウルは女王の腕だから失いたくないのではない。
この人だから、失いたくないのだ。
治療師が洗浄した部品を、証拠皿へ置いた。煤を落とすと、側面から王国の製造番号が現れる。
ミハルの副記録員が、押収した王家兵器の台帳と照合した。
「この番号帯は、兵器用として新造されたものではありません。遠征事故の六日前、帰還門用の遠隔維持装置が『再点検のため王太子府へ返納された』時の、部品登録に連なっています」
私は血のついた三日月を見つめた。
壊れたはずの装置は、事故の前に王太子府へ戻されていた。




