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第32話 あなたが愛した私

「全資料を置き、直ちに投降せよ! 抵抗するなら、証拠ごと焼き払う!」


 拡声された声が石室を震わせる。


 救護倉庫側の階段、乾いた排水路、物資用の保守口。三方向すべてから、閂へ器具を噛ませる硬い音が聞こえていた。


「ヴァレン卿にそれ以上話させるな!」


「記録物の回収を優先! 不能なら焼却しろ!」


 扉越しの号令が、彼らの目的を自ら明かしていた。


 狙いは私を捕らえることだけではない。エドガーの供述と、ネラが守ってきた資料が結びつく前に消すことだ。


「ネラ、署名と印章の資料を二つに分けて。別々の耐火布へ」


「はい」


「ミハルは供述書と、記憶庫の認証写しを分けて持って。今の時刻と、外の号令も記録して」


 私が言い終える前に、ミハルの羽ペンは動き始めていた。


「ラウル。二つの脇道を棚と荷台で狭めて、敵を仕分け前室の中央へ寄せられる?」


「やる。だが、長くはもたない」


「それで十分よ」


 私は石床へ片膝をつき、境界感知を広げた。


 三本の進入路はいずれも、救護物資を仕分ける前室へ合流する。そこからこの石室へ入るには、人二人が並ぶのがやっとの狭い敷居を越えなければならない。


 この倉庫は、かつて薬酒や油を保管していた。火災を一室へ閉じ込めるため、仕分け前室の前後には落下式の鉄格子があり、天井裏には消火砂の槽が残っている。


「保守図がありました」


 ネラが壁の道具掛けを外し、裏に差し込まれていた油染みの札を広げた。二枚の格子を落とす梃子と、砂槽を開く第二梃子の位置が記されている。救護網の退避所として引き継いだ時、火災設備の所在だけは教わっていたという。


 だが、入口側の格子は鎖が外れ、奥側の格子は起動梃子との繋がりが切れていた。消火砂の弁も錆びついて動かない。


 壊れた部品を直す時間はない。それでも、もともと同じ防火設備として組まれていた格子、梃子、砂槽の境界なら、短時間だけ繋ぎ直せる。


 私が術式を組み始めた時、エドガーが倉庫側の扉へ向かった。


「私が出る」


「何を言っているの」


「連中が欲しいのは私の身柄だ。私が正面へ出れば、その間に君たちは排水路を――」


「今度は私が残る。せめて、君たちだけでも」


 その言葉を聞いた瞬間、帰還門の前で私を拘束した腕の感触が蘇った。


 私は立ち上がり、彼の胸当てへ自分の手を置いた。


 触れると決めたのは、私だ。


 そのまま力を込め、扉から引き離すように押し戻した。


「死んで、今度こそ私を守ったことにしないで」


 エドガーが息を呑む。


「あなたの死を、私への償いという新しい英雄譚にしないで。あなたは生きて、自分がしたことを公の場で証言するの。その後、手続きに従って裁きを受けなさい」


「だが、私は――」


「死ねば、証言しなくて済む。私に赦されなかったまま生きる必要も、法の前で自分の行為を一つずつ説明する必要もなくなる。それを償いとは呼ばないわ」


 激しい破砕音が響き、倉庫側の扉に亀裂が走った。


 私はエドガーから手を離した。


「元現場指揮官なら、外の号令を読めるでしょう。隊長と火炎術師、記録回収役が同じ敷居を越える瞬間を教えて。それが、今あなたにさせる仕事よ」


 エドガーは苦しげに目を伏せたが、扉へ戻ろうとはしなかった。


「……わかった」


 ラウルは前室へ続く脇道へ棚を倒していた。ネラも二つに分けた証拠を身につけると、空の革鞄へ古布を詰め、排水路側から見える位置へ置く。


 逃げ遅れて、証拠を置いていったように見せるための囮だ。


 次の衝撃で、倉庫側の扉が内側へ弾け飛んだ。


 盾を構えた兵士が二人、前室へなだれ込む。直後、保守口側でも閂が割れた。


「左右を先に確保! 中央の鞄を回収しろ!」


 ひとりの兵士が棚を乗り越え、ミハルへ迫る。ラウルが鎖の残る腕で槍を逸らしたが、刃先が前腕を浅く裂いた。


 血が飛ぶ。


 別方向から、小型の火炎筒が投げ込まれた。


「伏せて!」


 エドガーが木の蓋で火炎筒を叩き落とす。床へ散った火が彼の肩布へ燃え移り、ネラが水差しを浴びせて消した。


「第二班、突入用意!」


 エドガーが外の号令へ耳を澄ませた。


「先頭の二人は陽動だ。本隊は六人。隊長、火炎術師、命令記録官が中央にいる」


 私は二枚の鉄格子と起動梃子、天井の砂槽へ魔力を通す。


 まだ早い。先頭だけを閉じ込めても、火炎術師と指揮官が残れば証拠を焼かれる。


「三、二――」


 エドガーが敵の足音に合わせて数える。


「今だ!」


 隊長の号令と共に、六人が仕分け前室へ殺到した。


 隊長、火炎術師、命令記録官。六人目の踵が入口側の敷居を越えた瞬間、私は切れていた防火設備の繋がりを戻した。


「今よ、ネラ!」


 ネラが壁の起動梃子へ全身の重みをかける。


 轟音と共に、奥側の鉄格子が落ちた。兵士たちが振り返るより先に、入口側の格子も背後へ落下する。


 六人は、転送されたのではない。自ら踏み込んだ仕分け前室へ、二枚の防火格子によって物理的に閉じ込められた。


 火炎術師が小型の火炎筒へ手を伸ばす。


「上です!」


 ミハルの声に合わせ、私は砂槽と錆びた弁の境界をもう一度だけ繋いだ。ネラが二本目の梃子を引く。


 天井の蓋が開き、湿った消火砂が兵士たちと火炎筒へ降り注いだ。火口は塞がれ、前室に白い砂煙が満ちる。


 ラウルが鉄格子の外から、槍の穂先を床へ向けたまま告げた。


「火を捨て、武器を格子の外へ出せ。空気孔は塞がない。従えば、このまま生かして拘束する」


 指揮官と焼却具の大半が、鉄格子の向こうで動けなくなった。砂煙の中で隊長が火炎筒を格子の外へ滑らせ、続いて六人が一人ずつ武器を差し出した。


 格子の外に残った兵士たちの動きも止まった。二人が武器を置き、他の者は負傷者を引いて壊した扉の向こうへ退いていく。追撃はしなかった。


 私は壁へ手をついた。視界が暗く脈打ち、立っているだけで膝が震える。


 ラウルの腕からは血が流れ、エドガーの肩には火傷が残った。避難所の扉と棚は壊れ、証拠の包みも一つ焦げている。


 それでも、証人と記録は残った。


 捕縛した六人のうち一人は、王太子府との連絡を担う命令記録官の補助だった。鉄格子越しに身体検査を行い、彼が携帯していた封印命令板をミハルの立ち会いの下で回収する。


 優先事項は、エドガーの供述の流出阻止、署名済み供述書と私の登録資料の回収。不能時の焼却。


「この暗号印は……王太子府の内部命令に使われるものだ」


 エドガーが、命令板の隅に刻まれた細い印を見て言った。


 王太子府の権限系統から、この作戦が発行された。それは強い物証になる。


 しかし、王太子レオナード本人の署名も、個人魔力紋もない。


「『王太子府系統から発行された命令』として保全して。王太子本人の直接命令とは、まだ記録しないで」


 ミハルが頷き、命令板の外形と受領経緯を書き留める。


 怒りはある。だが、怒りで欠けた事実を埋めれば、私たちが守ってきた記録まで嘘になる。


 私は呼吸を整え、服の内側から細い銀鎖を引き出した。


 鎖に通されていたのは、遠征中も失わずに持っていた婚約指輪だ。術式を組む指の邪魔にならないよう、首から下げていたもの。


 指輪を鎖から外し、エドガーが署名した供述書の隣へ置いた。


「これを返します」


「……リディア」


「婚約者としての関係は、もう終わりました。これで、形の上でも終わりです」


 愛していた過去を消すためではない。赦すためでも、いつか戻る余地を残すためでもない。


「あなたが愛した『あなたのために死ねる私』は、最初から存在しなかった。いたのは、怖くて、怒って、それでも生きたかった私だけよ」


 エドガーは指輪を見つめ、深く頭を垂れた。


 私は慰めなかった。


「死なずに証言してください。その後は、あなたも裁きを受ける。それが私の望むことです」


「……ああ」


 それ以上、彼は何も求めなかった。


 最低限の安全を確保すると、ミハルは机へ三つの資料を並べた。


 記憶庫の記録守が作成した、十四の魔力接触痕の認証写し。ネラが保全した、私の署名と個人印章の正式見本に関する受領控え――そこにはクレマンの職務印と認証魔力も残る。そして、開票前にクレマンが投票箱へ手を入れたというエドガーの供述書。


「リディア様。ここの時刻を見てください」


 ミハルが、接触痕の不自然な途切れと、エドガーが証言したクレマンの行動時刻を重ねた。


 本来、札が投票者の手を離れて箱へ入るまで、魔力接触は一つの連続した痕として残る。


 記憶庫で一人分の痕が不自然に途切れて見えた箇所を、今度はエドガーの時刻証言に合わせて拡大する。すると、本来の連続した接触痕が途中で切られ、その切断面へ、別の短い痕が継ぎ足されていることが分かった。


 継ぎ足された一票だけは、ほかと違った。


 投じられた時の起点がなく、クレマンが箱へ触れた時刻の近くから、突然、票としての痕跡が始まっている。


「これだけで偽造とは断定できません」


 ミハルは慎重に言った。


「ですが――十四票のうち一票は、誰かが投じた票ではない可能性があります」


 私は、起点のない一本の痕跡を見つめた。

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