第31話 愛していた
「……愛していた」
掠れ、震えるその一言は、月明かりの射す墓前へ重く落ちた。
一瞬だけ、彼と過ごした日々が胸の奥で波立つ。遠征中、前衛に立って私を庇った背中。婚約を交わした日に見せた、不器用な笑顔。
あの頃の気持ちまで、なかったことにするつもりはない。
けれど、それは私の問いへの答えではなかった。
「それは、投票箱についての答えではありません」
私が返すと、エドガーの唇が止まった。
愛を語り、自分の苦しみを先に差し出せば、私が最後には理解するとでも思っているのだろうか。あの帰還門の前と同じように。
背後の闇から、ラウルの低い声が届いた。
「巡回が近づいている。ここで話せる時間は短い」
遠い回廊の向こうで、軍靴と甲冑の音が重なり始めていた。
「続きを話すなら、私たちに同行して」
私はエドガーの腰の剣と、胸元の通信石を見た。
「武器、通信石、王国騎士の命令符はラウルへ預けてください。拒むなら、ここで終わりです」
エドガーは一度だけラウルへ目を向けた。だが、言い返すことなく剣帯を外し、通信石と命令符を添えて差し出した。
ラウルは受け取った品を手早く調べ、表面に追跡術式がないことを確かめる。
私たちは聖廟の作業路を抜け、地方神殿が確保している第二避難所へ移った。
旧祈念所の地下にある、かつて救護物資を置いていた石造りの倉庫だ。地上へ通じる階段のほか、乾いた排水路と物資用の保守口がある。絶対に安全な場所ではないが、墓前よりは落ち着いて話せる。
ネラと評議会の記録係ミハルが待つ石室へ入ると、ラウルが扉の外を確認し、エドガーから預かった品を手の届かない位置へ置いた。
ミハルは机に羊皮紙を広げ、淡々と告げた。
「これからの供述は、証拠の照合と今後の公開審理に用いられます。あなたに不利な内容も記録します。訂正はできますが、最初の供述を消さず、訂正履歴を残します。理解した上で話しますか」
「……話す」
エドガーが答えると、ネラは油紙の包みから一枚の帳簿控えを出した。
「遠征前、王太子府のクレマンが、リディア様の登録署名と個人印章の見本を持ち出した時の受領控えです。王太子府の共通印だけでなく、クレマン本人の職務印と認証魔力も残っています」
王太子府の印と、返却記録のない受領欄が、ランプの下へ晒される。
「エドガー様。開票前後に、クレマンが投票箱へ触れるところを見ませんでしたか」
エドガーの喉が動いた。
「見た。十四人全員が札を入れたあと、箱を石台へ移す時だ。クレマンが側面の留め具を開け、手を中へ入れた」
ミハルの羽ペンが紙を走る。
「何をしているのかと聞いた。クレマンは、内側に札が引っかかったので、殿下の指示で直したと答えた」
「箱の中は確認したの?」
「……しなかった」
エドガーは逃げずに私を見た。
「時間がないという言葉に従った。王太子付きの従者だからと、疑わないことを選んだ。その後すぐに開票が始まり、殿下が箱を焼いた」
「札を抜くか、取り替えるところを見た?」
「見ていない。クレマンの手元も、箱の中身も確認していない。どの札に何をしたのかは、私には証言できない」
確定したのは、クレマンに箱へ触れる機会があったことだけだ。署名と印章の見本が何に使われたのか、そもそも票が交換されたのかは、まだ証拠を照合しなければならない。
「遠隔維持装置については?」
「落石で損傷したという宮廷魔導技師の報告を信じていた。位相環が外されていたことも、君が従者の荷から見たことも、今初めて知った」
「ミハル。装置については、エドガーの認識を『知らなかった』とだけ記録して。計画の有無は、この証言では確定しないわ」
知らなかったことまで、知っていた罪として数えるつもりはない。
けれど、知らなかったことは、自分で選んだ行為を消してはくれない。
「では、あなた自身がしたことを、あなたの口で話して」
エドガーの顔から血の気が引いた。
「私に投票したの?」
長い沈黙の末、彼は両手を強く握った。
「……私が、君の名を書いた」
十三票という数字の中に隠れていた彼自身の選択が、ようやく一人分の声を持った。
「君が残ることに同意していないと叫んだのを聞いた。死にたくないと泣いていたのも知っている。それでも私は、門へ向かおうとした君の両腕を背後から押さえた」
掠れた声が、一つずつ事実を置いていく。
「マリエルが君の脱出石を奪うのを止めなかった。拘束を解いたあと、自分だけ門を通った。地上では、君が自分から残ったという共同証言に署名した。国葬で……君は最後まで笑っていたと、私の声で嘘をついた」
「なぜ?」
答えを知っている気はした。それでも、彼自身に言わせなければならなかった。
「なぜ、愛していたと言いながら、そこまでできたの」
エドガーは俯いた。
「自分が死ぬのが怖かった」
言い訳を剥がした奥から出てきたのは、簡単で、醜く、人間らしい答えだった。
「境界術を持つ君なら門を維持できる。君はいつも、隊の不足を引き受けてくれた。だから、十三人が生きて帰るために君を選んでも、最後には理解してくれると思った」
「私が拒絶しても?」
「……ああ」
「私が泣いても?」
「ああ」
エドガーの声が崩れた。
「地上へ帰ったあとも、君を英雄として残せば、君の犠牲を無意味にせずに済むと思った。国中に称えられる聖女にすれば、それが償いになると。いつか君なら、私が苦しんで選んだことを理解して、許してくれると……そう思い込んだ」
愛していたという言葉まで、嘘だったとは思わない。
だからこそ、はっきりわかった。
彼の愛の中には、私の拒絶が入る場所がなかった。生きたいという意思より、彼が私に求める役割の方が重かったのだ。
「エドガー。理解できることと、同意することは違うわ」
彼が顔を上げる。
「私が誰かのために不足を埋めたことは、次も私を選んでいいという許可ではない。私があなたを愛したことも、あなたを赦す義務にはならない。あなたが地上でどれほど苦しんでも、私が奈落で死にかけた事実は一秒も減らない」
かつて愛した相手へ向ける、最後の説明だった。
「あなたが愛したのは、あなたのために死ねる私よ」
石室から、羽ペンの音さえ消えた。
エドガーの身体が小さく揺れた。縋るように私を見たが、私はその視線を受け止めるだけで、手を差し出さなかった。
「婚約者としての私たちは、ここで終わりです」
私は彼との間に、言葉で境界を引いた。
「これからのあなたは、私を置き去りにした加害者であり、投票箱の不審な動きを見た証人よ。この証言書へ署名してください。そして同じ内容を、誰もいない墓前ではなく、公の場で話すこと」
「……わかった」
エドガーは震える指で羽ペンを取り、供述の末尾に署名した。
それで罪が軽くなるわけではない。私が赦したことにもならない。
署名は、彼がこれから生きて負う証言責任の、最低限の始まりにすぎなかった。
インクが乾くより早く、ラウルが扉の方を振り向いた。
救護倉庫側の階段から、冷たい金属音が聞こえる。
直後、乾いた排水路からも。さらに、背後の物資用保守口からも、複数の軍靴が石床を踏む音が近づいてきた。
「囲まれた」
ラウルが短く告げる。
エドガーが顔色を変えた。
「私だ。広場でリディアに接触してから、監視をつけられていたのかもしれない。墓地へ入った時から、遠くで見られていた……」
武器や通信具に追跡術式がなくとも、尾行そのものを消すことはできない。
倉庫側の鉄扉の向こうから、拡声術で増幅された声が響いた。
「エドガー・ヴァレン卿、リディア・フェルゼン及びその一味に告ぐ! 全ての資料を置き、直ちに投降せよ!」
別の出口でも、閂へ器具を掛ける音がした。
「抵抗するなら、証拠ごと焼き払う!」
三つの退路は、同時に塞がれていた。




