第30話 死者の名を呼ぶ男
頭上で王国兵が染色作業場へ踏み込んだ時、私たちは古い排水路を這うように進んでいた。
ネラが知る施療院の地下動線を使い、ラウルが分岐のたびに足音を確かめる。濁った水へ膝まで浸かりながら進み、兵士と出会わないまま包囲の外へ抜けた。
ネラが守ってきた資料は二つに分けた。一方を彼女が、もう一方をミハルが持つ。一度にすべてを奪われないためだ。
「第二避難所で待っています」
ネラたちは地方神殿の救護人が使う隠れ場所へ向かった。
彼女が持つ包みには王太子府の受領記録を、ミハルの包みには私の筆跡と印章の控えを入れた。片方だけを奪っても、証拠の意味が完成しない分け方だ。合流場所と、夜明けまで戻れなかった場合の連絡先を確認してから別れた。
今すぐネラを地下へ逃がす門はない。彼女を地上へ残して離れることに不安はあったが、その不安を理由に、資料も人も一か所へ集める方が危険だった。
私とラウルは日が落ちるまで、閉鎖された保守区画に身を潜めた。夜の鐘が鳴り、王都のざわめきが遠のいてから、王立聖廟の作業路へ出る。
ネラがエドガーを見たのは、昨夜の一度だけだ。今夜も来る保証などない。
それでも、私は自分の目で確かめたかった。
閉門後の聖廟区には、白い墓標が月明かりを受けて並んでいた。遠い回廊を巡る兵士の靴音が、一定の間隔で響いている。
私とラウルは、空の墓を見渡せる古い石柱の陰に身を潜めた。
どれほど待っただろう。
巡回兵が二度通り過ぎた。夜露が外套へ染み込み、指先から少しずつ体温を奪っていく。
待っている間、私は何度も自分へ問い直した。
エドガーが来なければ、それで何が変わるのか。来て、悔いている姿を見せれば、私は何を期待するのか。
謝罪が欲しいのではない。まして、愛情を確かめに来たのでもない。
必要なのは、あの日に何を見て、何を選んだのかという事実だった。
作業路の奥に、黒い外套を纏った人影が現れた。
歩幅も、周囲を確かめる時の首の動きも見覚えがある。エドガーだった。
彼は一人で私の墓へ近づき、外套の内側から携帯用の魔力灯と数枚の紙を取り出した。花を供えるのではなく、墓の縁を机代わりにして資料を広げる。
一枚は、地方神殿へ届いた二十七人の目録を書き写したもの。ほかには、古い王立探索隊の名簿と、歴代の追悼記録があった。
エドガーは羽ペンを握り、声を潜めて読み始めた。
「ローデン。十八歳。古代設備の整備補助」
目録と地上の記録を交互に見る。
「地上記録では、自ら残留を志願。本人の記録は……『私は志願していない』」
彼は不一致の箇所へ印を付けた。
「バルド・ケイン。四十六歳。橋梁技師。本人の言葉は、『装置は直せる。確認させてくれ』」
続いて、セシル・ノーラの名を読んだ。地上では自ら退路を守った補給記録員。残った本人の言葉は、『誰が誰に入れたか、公開してください』。私が投票札の確認を求めた時と、ほとんど同じだった。
エドガーは消された者を数字でまとめず、名前、年齢、職務の順に確かめていた。羽ペンを持つ手の震えも、悔恨も演技ではないのだろう。
だが、彼は王国騎士の制服を脱がず、地上で証言を訂正できる立場にいる。誰もいない夜に印を付けるだけなら、騎士の地位も悲劇の婚約者という名誉も失わない。
苦しんでいることと、責任を取ることは違う。
彼がここで何人の名を読んでも、消された本人の言葉は地上へ戻らない。私を笑顔の聖女へ作り替えた証言も、訂正されない。
ページをめくった時、別の紙が月明かりに晒された。
『帰還門開票時の配置』
『投票箱焼却までの経過』
二つの見出しが読めた。本文は細かく、石柱の陰からは判別できない。書きかけのまま空白になっている箇所もある。
少なくとも、エドガーは二十七人の名だけでなく、あの日の投票箱についても調べている。
何を見たのか。何に気づいたのか。
その紙だけでは、まだ断定できない。
私は石柱から背を離した。
「一人で行くか」
ラウルが低く尋ねた。
「ええ。でも、退路を守れる距離にはいて」
「わかった」
それ以上は問わず、ラウルは回廊と墓地の両方を見渡せる影へ下がった。
私は月明かりの中へ歩み出した。
靴音に気づいたエドガーが振り返る。
大きく見開かれた目が、私を捉えた。身体が前へ傾いたが、すぐに止まる。広場で私の手前に引かれた境界を覚えているのだろう。両手を身体の横へ下ろし、距離を越えようとはしなかった。
月明かりの下の彼は、遠征へ出る前よりひどく疲れて見えた。私が愛した面影は、確かにそこにある。
けれど、その面影に私の問いを譲るつもりはなかった。
私は、かつて婚約者だった男を真っ直ぐに見た。
「死者の名を呼ぶ前に、生きている私へ話すことがあるでしょう」
エドガーの唇が震えた。けれど、私は返事を待たずに続ける。
「クレマンは遠征前に、私の登録署名と印章見本を王太子府へ持ち出していた」
エドガーの指が、手元の紙を強く掴んだ。
「あなたは、あの時の投票箱について何を知っているの」
彼の視線が、開票時の配置を記した未完成のメモへ落ちた。
それだけで、具体的な事実まではわからない。
だが、何も知らない者の反応ではなかった。
エドガーは謝罪しなかった。クレマンの名にも、投票箱への問いにも答えなかった。
私と対面して、彼が最初に口にしたのは、ひどく掠れた一言だった。
「……愛していた」




