第29話 元侍女ネラ
私はネラが示した西側の回廊へ視線を移した。
公開治療で倒れた患者たちが、救護人の手で次々と運び込まれている。王国兵も、治療途中の患者を押し退けてまで一斉に踏み込むことはできずにいた。
ネラは私を見返さず、空の担架を押して回廊へ入った。
私はラウルとミハルへ小さく頷き、その後を追った。途中で患者を乗せた担架を受け取り、救護人の列へ紛れる。泥だらけの外套は目立ったが、私たちを捕らえろという怒号と、患者を通せという声がぶつかり、追手の視線は定まらない。
西回廊の奥で、ネラが医療用具の搬入口を開いた。
「止まれ!」
背後で兵士が叫ぶ。
私は搬入口の扉と、隣にある無人の器具庫の扉の接続だけを短く入れ替えた。兵士たちが開け放った先には、空の棚が並ぶ行き止まりが現れる。
その一度で術を切り、私たちは階段を駆け下りた。ラウルが追手を傷つけないよう空の運搬台を横倒しにし、通路を塞ぐ。
古い染色作業場を抜け、さらに地下へ下る。ネラが錆びた鍵で開けたのは、使われなくなった染料貯蔵室だった。
扉が閉まり、湿った土と古い薬草の匂いが私たちを包む。
「絶対に安全な場所ではありません。けれど、少しの間なら」
ネラが小声で告げた。
王都の中にある仮の隠れ場所にすぎない。それでも、ようやく私たちは互いの顔を正面から見ることができた。
「……リディア様」
ネラの声が震えた。
彼女の頬は以前より痩せ、救護服の袖口は擦り切れていた。けれど、私を見る眼差しだけは、屋敷にいた頃と変わらない。
「ネラ。無事だったのね」
彼女の目から大粒の涙がこぼれた。ネラは駆け寄ろうとして一歩で止まり、泥と傷に覆われた私の身体を見た。
私は自分から手を伸ばした。
触れた指先は温かかった。
「あの葬儀で語られたことだけは、最初から信じませんでした」
ネラは涙を拭い、少しだけ怒ったような声で言った。
「リディア様は、怖い時には怖いと仰います。理不尽な仕事には腹を立てますし、無理なものは無理だと言いながら、それでも別の方法を探し始める方です。ご自分だけが笑って残れば全部解決するなどと、簡単に諦めるはずがありません」
「でも私は、頼まれれば自分が不足を埋めようとしていたわ」
「ええ。それは悪い癖でした」
迷いのない返事に、胸の奥から小さな笑いが漏れた。同時に、視界が滲んだ。
国家が作った完璧な聖女ではない。怖がり、怒り、生きたいと願う私を、そのまま覚えてくれていた人がいる。
その事実は、どんな美しい追悼の言葉よりも温かかった。
「ありがとう、ネラ」
ラウルは入口近くで追手の音を警戒していた。
「国葬の後、何があったの?」
私が尋ねると、ネラは木箱を椅子代わりに勧め、自分も向かいへ座った。
ネラは、解雇された後に王都外縁の地方神殿へ保護を求めたという。そこで施療院を手伝う救護人として登録され、王家の監視を避けて患者や薬を運ぶ連絡網へ加わった。この染料貯蔵室も、疫病時の退避路として神殿側が残していた一時避難所だった。
「私はエドガー様へ質問状を送りました。あなたが本当に自分から残ると仰ったのか。なぜ帰還用の石が、マリエル様へ託された遺品になったのか。なぜ十三人の証言が、一言一句同じように整えられているのか」
「返事は?」
ネラは首を横に振った。
「ありませんでした。その後、遺品整理の終了を理由に屋敷を解雇されました。外へ出るたび、同じ男たちに見張られるようにもなりました」
両親も兄弟もいない私の死後、別邸の法的な管理だけは伯爵家本家へ戻された。本家から来た管理人は王家の国葬記録を疑わず、家政を閉じる手続きとしてネラへ退去を命じたという。ネラには、本家の決定を覆せる身分も、屋敷へ残る権利もなかった。
誰が解雇と監視を命じたのか、ネラは知らない。彼女は知らないことを、知っているようには語らなかった。
「ですから、処分される前に、私が実際に管理していた資料だけをここへ移しました」
ネラは奥の壁際へ行き、崩れた棚の裏から油紙の包みを取り出した。
遠征準備記録、屋敷で使っていた私の筆跡見本。そして、登録署名と個人印章の家内控え。
「これを見てください」
最後に広げられた帳簿の一頁には、遠征出発の六日前の日付と、王太子府の受領印があった。その脇には、王太子府の従者へ個別に割り当てられる細い職務印が押されている。
「王太子付きの従者クレマンが、正式な依頼書を持って来ました。帰還後の功績登録と、緊急報告手続きの照合に必要だと言って、登録署名と印章見本の原本を持ち出したのです」
クレマン。
崩れ落ちる帰還門が閉じる寸前、彼の荷袋から覗いていた三日月形の位相環が脳裏に蘇った。
「返却の記録は?」
「ありません。原本も戻っていません」
私は控えへ指を添えた。
遠征の半年前、偽の受領証で物資を持ち出された事件があり、私は屋敷の帳簿へ簡単な境界照合を組み込んだ。押された職務印の形だけでなく、押印者がその場で流した認証魔力も、控え側へ薄く写し取る仕組みだ。
紙面には、クレマンの職務印にある固有の欠けと、受領者として流した認証魔力が一対で残っていた。王太子府の共通印だけではない。クレマン本人がこの帳簿の前で受領手続きを行ったことを示している。
自分の署名の筆圧、個人印章の微細な欠け、登録時に私自身が流した過去の認証魔力も照合した。屋敷の控えが、持ち出された正式見本と同時に作られたことにも不自然さはない。
ミハルが紙質、日付、王太子府の受領印、クレマンの職務印と認証魔力、ネラの保管経緯を一つずつ書き留めた。
「これで確定できるのは、遠征前の時点で、王太子府が私の正式な署名と印章の見本を受け取っていたことまでね」
何に使ったのかは、まだわからない。
投票札の裏面にある個人認証紋は、登録署名、印章、本人の認証魔力へ結びついている。本物の見本があれば、私に発行された札に似せた認証を作る材料にはなる。
だが、記憶庫に残された十四人分の魔力接触痕には、人為的に切れた箇所がある。投票前から本物の筆跡と裏面認証を再現する材料が王太子府にあったという事実は、無視できない。
「記憶庫の記録と照合して、クレマンが見本を持ち出した後の経路を追う必要があるわ。推測で偽造を確定させれば、向こうに反論の隙を与える」
私は資料を包み直し、ネラを見た。
「これを守っていたと知られれば、今まで以上に危険になる。あなたの今後を、私が勝手に決めるつもりはないわ」
地上に残り、地方神殿や独立記録院の保護を受けて連絡役となる道。王都から離れる道。そして、安全な帰還経路を確保できた時に地下へ行く道。
三つの選択肢と、それぞれの危険を伝えた。
ネラはすぐには答えなかった。
「地下の方々は、地上人の私を受け入れられるのでしょうか」
「無条件には信用されない。評議会の審査と、受け入れる集落の同意が必要になるわ。地下も安全ではないし、行ってから考えを変える自由もある」
ミハルも、私一人の命令では移住を決められないと補足した。
ネラは油紙の包みへ目を落とし、しばらく考えた。やがて顔を上げる。
「次に安全な道が開いた時、私は地下へ行きたいです」
その声に、侍女として命令を待つ響きはなかった。
「あなたのお世話をするためだけではありません。消された人たちの記録を守り、私が地上で見たことを、自分の名前で証言するためです」
「わかったわ」
私は頷いた。
「でも、必ず連れて行けるとは約束しない。安全な道と受け入れの手続きを整えたら、もう一度あなたの意思を確認する。それまで、生きていて」
「はい」
その時、頭上で複数の軍靴が床を踏んだ。
染色作業場を調べている。ここにいられる時間は長くない。
ミハルが資料を二つに分け、ネラが次の退路を確かめる。その最中、彼女がふと手を止めた。
「リディア様。エドガー様について、お伝えしたいことがあります」
「エドガーが、どうしたの?」
「昨夜、施療院から聖廟へ抜ける作業路で見ました。エドガー様は、あなたの空の墓の前で、地上へ届いた記録を古い追悼名簿と照合していました」
ネラは、見た事実だけを選ぶように言葉を区切った。
「そして、消された人たちの名前を、一人ずつ声に出して読んでいました」
死者の名を呼ぶ前に、生きている私へ話すべきことがある。




