第28話 私はここにいる
ユアンの証言を聞いた後、私は治療所で右足首を固定し直し、二刻だけ眠った。目を覚ますと中央配水所へ戻り、境界感知を地上へ伸ばした。
マリエルに奪われた脱出石の反応が、これまでになく強い。稼働中の大規模治癒装置が星脈炉を介して地下の力を吸い上げ、石を中心に地上へ流しているからだ。
私はその太い流れに微かな魔力を乗せ、石の奥へ一度だけ声を送った。
『私はここにいる』
接続は安定している。
「この流れを逆に辿れば、地上へ物理的な門を開けるかもしれない」
私はバシュルと評議会の監視役、記録守オルドへ計画を説明した。
記憶庫外郭で確保した王家製の予備転移杭を起動器にする。水脈核を地下側の安定基盤とし、地上で動いている治癒装置を出口に使う。そして、脱出石に刻んだ目印を到着座標の錨にする。
「四つの境界を私が同時に接続します。門は一方向で、保つのは数十秒。通過後は転移杭を焼き切り、地下都市と水脈核の座標を切り離します」
「地上から逆に辿られる可能性は?」
監視役の問いに、私は転移杭へ組み込む切断術式を示した。
「逆探知が一度でも混じれば、最初の一人が通る前に中止します。通過が始まった後に異常が出た場合は、人数にかかわらず地下側で即座に切断してください」
「帰り道はなくなるぞ」
オルドの声は重かった。
「わかっています。それでも、王家が私を死者の幻影として処理できる今を逃せば、地上へ渡した記録まで偽物にされます」
ただし、女王代理の権限を持ったまま地下を離れることはできない。
私が門を越えた時点で、代理権の行使は停止する。地下の緊急判断は、オルド、水路管理者バシュル、防衛代表の三者へ戻す。翌日の第二鐘までに私から安全確認が届かなければ、代理任命そのものを失効させ、評議会を再招集する。その条件を記録板へ刻み、現場代表が署名した。
地下の位置を危険に晒してまで、私個人の復讐を果たすことは許されない。権限の引き継ぎ、安全条件、同行者、持ち出す証拠の範囲を確認した末、限定的な実行許可が下りた。
同行するのは、ラウルと評議会の記録係ミハルだけだ。原本の記憶石は持ち出さない。ミハルは、私の証言と地上側の反応を残す第三者となる。
フィアは不安そうに私の外套を掴んだが、私は地上が安全だとは約束しなかった。目的と危険をラウルに訳してもらうと、彼女はしばらく俯いた後、自分から手を放した。
私は予備転移杭の前に立った。
杭、水脈核、治癒装置、脱出石。
性質の違う四つの境界を、一つずつ見極める。装置の脈動が弱まった一瞬に魔力を差し込み、地下の座標を覆い隠したまま、到着点だけを縫い合わせた。
「……繋がれ!」
青白い亀裂が空中を走った。
人一人が通れる幅まで開いた瞬間、私はその中へ飛び込んだ。ラウルとミハルが続く。
最後の足が門を越えるのと同時に、背後で転移杭が弾ける乾いた音がした。地下へ続く感覚が消え、二度と同じ経路を辿れないことがわかる。
足の裏が、硬い石段を踏んだ。
冷たい風が頬を撫でる。
顔を上げると、岩盤ではない空があった。朝の光があまりに眩しくて、目の奥が痛んだ。地下の泥に汚れた髪が風に揺れ、乾いた空気が肺へ流れ込む。
あの門が閉じた時、もう二度と見ることはないと思った空だった。十三人が奪ったはずの風も、光も、私の皮膚は確かに感じている。胸が詰まり、最初の一息だけはうまく吸えなかった。それでも私は、自分の足で石段を踏みしめた。
私は、生きた身体で地上へ帰ってきた。
そこは王立施療院と聖廟区に挟まれた追悼広場だった。数千の群衆、治療を受けた患者たち、巨大な魔導装置。その中央には、私の脱出石が据えられている。
石段に残った泥の足跡を見て、広場の歓声が悲鳴へ変わった。
「奈落の魔女だ!」
「また幻影を送り込んできたぞ!」
宮廷魔導官たちが素早く検知結界を張る。幻影、既知の変身術、遠隔操作された人形を判別する光が、私の頭から足元まで幾重にも通り抜けた。
私は避けなかった。
像は消えず、結界には生身の人間としての反応が残った。これだけで私の身元や、あらゆる未知の術の可能性まで証明できるわけではない。それでも、少なくとも王家が用意していた「実体のない幻影」という説明は通らない。
私は胸元の銀徽章へ魔力を流した。王国へ登録された境界術師固有の魔力紋が空中に浮かぶ。続いて祭壇の脱出石を呼応させ、その深部へ私が刻んだ目印を引き出した。
二つの紋様が、寸分違わず重なった。
「私は、リディア・フェルゼンです。生きています」
自分の声が、幻影ではなく、この喉と胸を震わせて広場へ響く。
泣き出す者がいた。恐れて後ずさる者も、徽章と石の反応を必死に書き留める者もいた。
「本当にリディア様なのか」と呼ぶ声のすぐ隣で、「魔物に騙されるな」という声が上がる。治療を受けたばかりの患者は祭壇を見つめ、救護人の一人は私の泥だらけの足跡へ手を伸ばしかけて止めた。誰もが同じ答えへ飛びつくほど、地上の現実は単純ではなかった。
「地下から送った封印資料は、すでに複数の組織へ届いています。私を捕らえても、すべてを消すことはできません」
司祭が「魔女の偽装だ」と叫んだが、その声は群衆のどよめきに呑まれた。
私は祭壇の横で青ざめているマリエルを見た。奪われた石が、彼女の奇跡を支える装置の中心にある。その事実を目に焼きつけてから、広場全体へ向き直った。
「私は、笑って残ったのではありません」
あの日、誰にも聞き入れられなかった言葉を、今度は自分の意思で口にする。
「泣いて、助けを求めました。死にたくない、残ることに同意していないと叫びました」
喉が震えた。けれど、止めなかった。
「エドガーに両腕を押さえつけられ、マリエルに帰還用の石を奪われました。残る十三人は、それを知りながら、私が自ら犠牲を選んだという共同証言へ署名しました」
静まり返った広場のあちこちで、やがて怒号と反論がぶつかり始めた。
全員が私を信じたわけではない。王家の支配が、この場で崩れたわけでもない。
だが、「笑って死んだ聖女」の物語には、もう塞げない亀裂が入った。
「リディア……!」
来賓席の警護にいたエドガーが、人波を掻き分けて前へ出た。
彼は私の姿を確かめるように近づき、震える手を伸ばした。背後で、ラウルが身構える気配がした。
エドガーの指先が私の肩へ届く直前、私は二人の間に紙一枚ほどの境界を引いた。
見えない壁が、彼の手を弾く。
「私に触れるかどうかを決めるのは、今度は私です」
エドガーが息を呑んだ。
王国兵が広場の出口を塞ぎ始め、魔導官たちは新しい拘束術式を組んでいる。群衆の混乱も、もう長くは盾にならない。
その時、最前列の救護人の中にいた一人の女性と目が合った。
ネラ。
彼女は私の名を呼ばず、駆け寄りもしなかった。ただ王家の監視を避けるように、左袖を二度つまみ、視線だけを西側の回廊へ流した。
屋敷で人目を避けて話す時、私たちだけが使っていた合図。
『ここでは話さない。あとをついてきて』
死者の像ではなく、本当の私を覚えている人が、地上にまだいた。




