第27話 聖女の奇跡
王立施療院と聖廟区に挟まれた追悼広場は、朝から患者と見物人で埋め尽くされていた。
広場には白い治療天幕が幾列も並び、その中央に、王家直属倉庫から運び込まれた大型魔導装置がそびえている。
リディアを名乗る幻影が生存と不同意を訴えてから、王都では王家の発表を疑う声が消えなかった。王家はあれを「奈落の魔女が作った偽物」とし、国民の動揺を鎮めるため、準備中だった大規模治癒儀式を予定より早く公開することにしたのだ。
儀式を前に、マリエルは天幕の中で一人の少年の額へ手を当てていた。
浅く速かった呼吸に合わせ、掌から少しずつ治癒の光を流し込む。いきなり熱を消そうとはせず、乱れた魔力を撫でるように整える。
やがて少年の肩から力が抜けた。赤かった頬の熱もゆっくりと引いていく。
「聖女様……ありがとう」
少年の母親が涙を流し、マリエルの手を両手で包んだ。
その温もりに触れた時だけ、胸を塞いでいた冷たいものが少し薄くなった。
自分の祈りまで嘘なのではない。
一度に治せるのは一人。重い病や失われた命までは戻せない。それでも、こうして苦しむ者を救える力は確かに自分の中にある。
ならば装置を借りて、救える人数を増やすことの何が間違っているのか。
マリエルはそう言い聞かせて天幕を出た。
装置中央の祭壇には、青白い石が金属の固定台へ嵌め込まれていた。
「献身の聖女リディア様が、最期にマリエル様へ託した聖なる遺品であります」
司祭の声が広場へ響く。
託されたのではない。
硬い鎧に両腕を押さえられたリディア。腰の革紐を引き千切った自分の手。
『それは私が帰るための石よ!』
あの叫びが、歓声の間から聞こえた気がした。
しかも、リディアを名乗った幻影は言ったのだ。生きている。志願していない、と。
あれが本物だったなら、この石は死者の遺品ですらない。
「マリエル様」
宮廷魔導官に呼ばれ、マリエルは祭壇へ上がった。
「以前にも尋ねました。この装置は、本当に私の祈りを広げるだけなのですね」
「もちろんです。星脈炉から得た王国の余剰魔力で、聖女様の治癒を増幅します」
「なら、なぜこの石が必要なのですか」
「リディア様の祈りを、聖女様へ受け継ぐためです。石を外せば大奇跡は安定しません。どうか国民のために」
魔導官は、それ以上の説明をしなかった。
マリエルが固定台へ両手をかざす。
祈りの最初の一節を唱え終えるより先に、足元の導管へ青白い光が走った。
「まだ、私は……」
言い終える前に、石から溢れた光が装置全体へ広がった。
何本もの導管を通り、治療区画へ降り注ぐ。
苦痛に呻いていた老人が身体を起こした。包帯の下で疼いていた兵士の傷が静まり、熱に浮かされていた子どもが母親を呼ぶ。
驚きの声が歓喜へ変わった。
「奇跡だ!」
「マリエル様が、皆を救ってくださった!」
数え切れない手がマリエルへ向かって組み合わされる。
救われている。実際に、多くの患者が苦痛から解放されている。
それなのに、マリエルの身体には、一人を治療した時ほどの疲労さえなかった。
光は彼女の掌を通っていない。足元のさらに深い場所から押し上げられ、脱出石を通じて勝手に広がっていく。
試しに祈りの呼吸を一つずらしても、装置は別の規則に従って光の乱れを補正した。
これは自分の奇跡ではない。
その事実を、マリエルはもう否定できなかった。
だが、自分の祈りが始まりの合図になっている。自分にも本物の治癒能力がある。そして、結果として人々は救われている。
説明が少し違うだけだ。
そう思おうとした時、治療区画の一角で悲鳴が上がった。
光を浴びて立ち上がった女性が、突然膝を折った。両腕を激しく震わせ、呼びかけても視線が定まらない。治ったはずの肩の周囲で、青白い光が不規則に脈打っていた。
少し離れた寝台でも、二人の患者が吐き気と眩暈を訴えている。
「魔力を流しすぎています!」
マリエルは固定台から手を離し、倒れた女性へ駆け寄った。
額と胸元へ触れ、自分自身の治癒術で状態を探る。
体内へ入り込んだ魔力が多すぎる。行き場を失い、弱った部分の周囲で暴れていた。
マリエルは呼吸に合わせて少しずつ余分な力を散らした。女性の震えが弱まり、ようやく焦点が戻る。
「大丈夫です。ゆっくり息をして」
だが、彼女が一人を診ている間にも、別の区画から助けを求める声が上がった。
装置の光が一度、大きく明滅する。治療途中だった患者たちから不安の声が漏れた。
「出力を止めてください。このまま一律に流せば、耐えられない人が出ます!」
「初回起動時の魔力酔いです」
宮廷魔導官が祭壇から答えた。
「大多数には治癒効果が出ています。今止めれば、治療途中の者へどのような反動が出るかわかりません」
「でも、私の術なら一人ずつ確かめられます」
「広場にいる全員を、聖女様お一人で何日かけて治すおつもりですか」
司祭も声を潜めて続けた。
「あの幻影の後です。ここで奇跡を中断すれば、王国も、あなたを信じる民も再び混乱します。続けるか止めるか、お決めください」
止めることはできる。
誰かに腕を掴まれているわけでも、命を脅されているわけでもない。
マリエルは、今しがた自分の術で救った女性を見た。続いて、光に手を合わせる群衆を見た。祭壇から離れた自分を、不安そうに見つめる患者たちも。
ここで止めれば、聖女を信じて集まった者を裏切ることになる。
リディアの幻影が本物だと認めれば、石を奪ったことも、自分の奇跡が借り物であることも明るみに出る。
王太子の庇護も、聖女としての地位も、この安全な暮らしも失う。
「……魔力酔いを起こした方は、すぐ治療天幕へ運んでください」
マリエルは自分の足で祭壇へ戻った。
「儀式は、続けます」
再び脱出石へ両手を重ねる。
青白い光が強まり、歓声が戻った。
その時、倒れた患者を運ぶ救護人の中に、見覚えのある女性がいることに気づいた。
リディアの元侍女、ネラだった。屋敷を解雇された後、王都外縁の地方神殿へ身を寄せ、救護人として施療院の応援に入っていた。
彼女は王家の公式発表を疑い、監視対象になっているはずだ。粗末な救護服を纏ったネラは、患者を支えながらも、導管を走る光をじっと目で追っていた。
短く三度進み、一度戻る。脱出石の周囲だけ、糸を結ぶように光が折り重なる。
ネラの唇が、微かに動いた。
「……この繋ぎ方は、リディア様の術です」
マリエルは息を呑んだ。
ネラは長くリディアの傍にいた。屋敷の荷物を別空間へ迂回させ、壊れた設備を境界術で繋ぎ直す姿も、何度も見ていたのだろう。
石がリディアの術を使っている。
問い返すことも、ネラを呼び止めることもできなかった。
マリエルは聞こえなかったふりをして、祈りを続けた。
やがて儀式が終盤へ差しかかった時、掌の下で脱出石が強く震えた。
装置が刻む一定の周期ではない。
ドクン、ドクン、と、生きた心臓のように脈打っている。
青白い光の奥から、あの崩れた帰還門で聞いた声がした。
泣き、怒り、それでも生きることを諦めなかった女の声。
『私はここにいる』




