第26話 魔物に救われた兵士
私たちが上層の集落へ着いた時、広場の処刑台には、すでに刃の欠けた大鉈が置かれていた。
照合札を託したユアン・レスクは、中立の作業服のまま後ろ手に縛られている。処刑台の脇には、引き裂かれた封印袋と、彼の王国軍制服、徽章、身分札が見せしめのように並べられていた。膝をつかされた首筋には、槍の穂先が突きつけられている。
同行していたもう一人の案内役は、広場の端で集落の防衛要員に囲まれていた。拘束はされているが、大きな怪我はない。私と目が合うと、必死に首を横へ振った。
「こいつは照合札を運んでいた! 逃げ込んできた王国兵じゃない!」
説明しようとはしたらしい。だが、広場を埋める住民の怒声にかき消されていた。
「王国兵が、何を運んでいようと同じだ!」
群衆の前に立つ、灰色の角を持つ男が叫んだ。腕に巻かれた赤い布は、ガレス派の印だ。
「地上の裁きが、俺たちに何を返した? 停戦の誓約も、王家の印章も、全部嘘だった! 証言させれば、命令に従っただけだと逃げる。今ここで首を落とし、地下はもう地上へ屈しないと示せ!」
賛同の声が広場を揺らした。
彼らは、理由もなく血を求めているのではない。王国軍に水と食料を奪われ、停戦を破られ、家族を殺された。その被害を地上の誰にも裁いてもらえなかった人々だ。
私はラウルとミハル、それに四人だけの防衛要員を連れて、処刑台の前まで進んだ。
「女王代理が敵兵を守りに来たぞ!」
灰色の角の男が私を指差す。
「先に言っておきます。私には、この集落の刑を勝手に取り消す権限も、この兵士を赦す権限もありません」
意外だったのか、怒声がわずかに弱まった。
「そのうえで、処刑の前に聞かせてください。皆さんは何を奪われ、誰を失ったのか。目の前の兵士へ、どの罪を問うのかを」
「話したところで、死んだ者は戻らない!」
「戻りません。だから、なかったことにさせないために記録します」
私はミハルへ合図した。彼は広場の全員から見える場所に石板と羊皮紙を置いた。
最初に前へ出たのは、片方の角が根元近くで折れた女性だった。
「三年前、王国兵が上の配水槽を壊した」
女性はユアンではなく、ミハルを見て話した。
「残った水は負傷兵へ渡せと言われた。私の娘は熱を出していた。でも、一口ももらえなかった。三日目の朝、もう目を開けなかった」
次に、腰の曲がった水路番が杖を鳴らした。
「停戦の白布と、地上側から渡された印章を入口に掲げた。なのに夜明け前に射られた。妻は白布を持ったまま死んだ。あの印章が何のためにあったのか、命令した者へ聞きたい」
「俺の息子は連れていかれた!」
三人目の男が、縛られた兵士へ詰め寄った。
「五年前だ。角の先が白い、十六の子だった。採掘場へ送ると言われた。どこへ連れていった。生きているのか、死んだのか!」
ユアンは青ざめ、唇を震わせた。
「知りません。俺は……この集落へ来たことはありません」
「嘘をつくな!」
男が殴りかかろうとし、集落の防衛要員が間へ入った。
「今の言葉は、事実ではなく本人の申告として記録します」
私が言うと、ミハルが読み上げた。
「王国兵本人は、この集落への来訪と襲撃参加を否定。確認資料なし」
続けて、私はユアンへ尋ねた。
「記憶庫へ入ったことは?」
「認めます」
「指定された記憶石を運び出し、残りを焼く命令を受けた?」
「……はい」
「起爆具を手にしていた?」
「持っていました。命令されたから――」
そこで兵士は口を閉ざした。命令だったという言葉が、責任を消さないことを自分でも理解したのだろう。
「それは、確認済みの行為として記録します」
私は住民たちへ向き直った。
「この兵士は無実ではありません。記憶を消すために地下へ来て、火をつけようとした。その責任は問います」
「なら、今すぐ殺せ!」
灰色の角の男が叫ぶ。
「ですが、この集落を襲ったのが彼かどうかは、まだわからない。制服へ負わせる罪と、この兵士自身が行った罪を混ぜれば、本当に命令した者が隠れます」
私は、息を吸った。
「今ここで殺せば、私たちは王家の口封じを代わりに完成させることになる」
広場へ、重い沈黙が落ちた。
「兵士を生かすのは、釈放するためではありません。被害を語った皆さんの前で、何をしたか、誰の命令だったか、どこへ人と物を運んだかを記録し、そのうえで刑を決めるためです」
私は地上の裁判へ秘密裏に引き渡すつもりはないと明言した。この集落、記録守、評議会の三者監視で拘束を続け、住民の被害証言は集落と記憶庫へ一部ずつ残す。ユアンの申告と、証拠で確認できた事実は分けて記録する。
「拷問もしないのか。嘘をつき続けたらどうする」
「痛みに耐えられず、皆さんが望む答えを口にしても、それでは連れ去られた人の居場所はわかりません。必要なのは自白の形ではなく、照合できる情報です」
王家にも、ガレス派にも、私一人にも、ユアンを解放したり殺したりする権利は持たせない。期限を定め、住民の見ている場で審理する。
ラウルが一歩前へ出た。
「俺の家の名で決めるつもりはない。望まれるなら、決めた手順が破られないかを監視する」
「殺す前に、聞きたい」
息子を連れ去られた男が、掠れた声で言った。
「どの部隊が捕虜を運び、どこへ送ったのか。こいつが知らなくても、補給路を辿れば何かわかるかもしれない」
片角の女性も、すぐには頷かなかった。だが、ミハルが書いた娘の証言を読み返し、やがて言った。
「これを、地上の都合で消されない場所へ残せるのか」
「集落にも原本を残します。私が持ち去ることはできません」
集落の代表たちは、その場で短い協議に入った。
即時処刑を求める声は最後まで消えなかった。灰色の角の男も、「地上人を生かせば必ず裏切る」と吐き捨てた。
それでも代表者の過半数が、処刑の保留と公開審理を選んだ。
ユアンの縄は解かれない。槍も下げられない。ただ、首筋から大鉈だけが遠ざけられた。
「逃亡も、無罪も求めません」
兵士が、地面を見つめたまま言った。
「地上では、魔物に捕まれば話も聞かれず殺されると教えられました。でも俺は、記憶庫で一度、ここでもう一度、生きる時間を与えられた」
彼は縛られた手を握りしめる。
「逃がすためじゃない。裁くために生かされた。それでも……俺が焼こうとした記録より、魔物と呼んでいた人たちの方が、事実を残そうとしている」
照合札は集落代表からミハルへ返され、別の運び手と経路を決めるまで封印された。
その場で、兵士の初回証言が始まった。
彼が知っていたのは、指定年代の記憶石を回収して残りを焼くという命令、王国軍の補給路、そして王家直属倉庫の場所だった。記憶石の中身も、ガレスと王家の取引も知らないと答えた。
「記憶庫の作戦へ出る前、同じ倉庫に大きな魔導装置が運び込まれました」
「何の装置?」
「聖女マリエル様が行う、大規模治癒儀式のためだと聞きました。仕組みは知りません。警備兵は、箱を開けることも許されていなかった」
兵士は一度言葉を切り、私を見た。
「ただ、聖廟から運ばれてきた物だけは見ました。青白く光る石です。追悼式で、『リディア様がマリエル様へ託した遺品』と説明されていたから覚えています」
私の腰から、マリエルがむしり取った脱出石。
「その石は、どこへ?」
「装置の中央です。金属の固定台に嵌め込まれました」
私の墓を飾るためでも、祈りの形見にするためでもない。
彼らは、私から生きる道を奪った石を、今度は別の嘘を輝かせるために使っている。
ユアンは、ミハルが筆を止めていないことを確かめるように見てから、静かに告げた。
「聖女の大奇跡は、あなたの石を中心に起こされます」




