第23話 王家と魔物の取引
記憶庫裏の保守搬送口から、さらに上層へ延びる廃鉱石中継所。
ガレスは、薄暗い空間に積まれた真新しい木箱を見下ろしていた。
地下では使わない防湿木材。箱の合わせ目から染み出す、鼻を刺す油の臭い。側面には削りかけの王国軍兵站番号が残っている。
同じ印を持つ空箱が、搬送所の隅へ積まれていた。これまで運び込まれた短槍、弾頭、火薬の分だ。王家は一度にすべてを渡さず、ガレスが情報を返すたび、次の荷を少しずつ下ろしてきた。
信頼ではない。互いが裏切るまで、相手の欲を餌に繋いでいるだけだった。
その足元で、大型の守護獣が低く唸った。
獣冠から流れる命令に逆らい、上層へ向けられた顔を横へ逸らそうとする。直後、四肢が大きく痙攣し、黒い毛の根元にある環状の焼け痕が赤く光った。
近くにいた部下が獣へ水を差し出しかけ、ガレスの顔を見て手を止める。命令を弱めれば、守護獣はこの場から逃げるかもしれない。再び集める間に、地上はまた水と命を吸う。
ガレスは、その痛みに気づいていた。
それでも獣冠を止めなかった。
星脈炉に故郷の水源を枯らされ、家族を失った。地上が吸収を続ける限り、次に干上がる集落が出る。戦力を揃えるための代価だと、ガレスは守護獣の呻きを胸の奥へ押し込めた。
空になった貯水槽。底の泥を布で絞った最後の一滴。水のないまま埋葬した家族。
あの日から、待つことは奪われ続けることと同じだった。
奥の搬送路から、三人分の足音が近づいてくる。
灰色の外套を深く被った男と、二人の護衛だった。
王家の密使は、初めて訪れた者のように道を探さなかった。箱の数を確かめ、いつもの位置で足を止める。
「待たせたな」
不自然に区切られた地下語だった。
「挨拶はいい。本題に入れ」
ガレスが促すと、密使は懐から羊皮紙の束を取り出した。
「王家の条件は三つだ。リディア・フェルゼンを排除するか、地上へ引き渡す。記憶庫を和平派から奪い、指定した年代の記憶石を渡す。そして、地上への攻撃は我々が指定する時刻まで待つ」
「見返りは」
「ここへ運んだ兵器。記憶庫の保守搬送路と、防壁の弱点図。上層の通路、街道、水路、城門を記した侵攻図だ」
密使は羊皮紙を、ガレスへ手渡さず足元へ落とした。
「条件が果たされれば、お前たちの支配地域へ限定自治を認める。正式な文書と印章は、その後だ。魔物どもにとって、悪い話ではあるまい」
ガレスは羊皮紙を拾い上げた。
「魔物と呼ぶ相手に、自治を恵んでやるというわけか」
「呼び名など、結果に関係はない」
「そうだな。お前たちが地下の秩序を語る資格を持たないことにも、変わりはない」
密使の口元がわずかに歪む。
「あの女は地上にも地下にも属さず、双方の秩序を壊す。共通の敵を先に除く。それだけの話だ」
ガレスは答えず、羊皮紙を開いた。
王家の信用など、最初から求めていない。必要なのは、地上で作られた武器と、地下側だけでは知り得ない情報だった。
侵攻図には王国軍の施設だけでなく、最寄りの地方都市、街道、配水設備、避難路まで記されている。
避難路を避けて軍用施設だけを叩く進路も引ける。ガレスの指は一度、地方都市を迂回する余白の上で止まった。
そこに住む者の多くが、地下から何を吸い上げているか知らないことも、ガレスは理解していた。
だが、知らぬまま灯した明かりも、知らぬまま飲んだ水も、地下から奪われたものだ。
知らなかったという一言で、死んだ家族は帰らない。
王家だけを討ち、地上の民間人は避けるという線を、ガレスは自ら消した。
避難路の記号へ爪を立て、小さな傷を残す。そこもまた、地上へ出るために使える道だった。
地図をさらに読み進め、彼は目を細めた。
王家が推奨する三本の侵攻路は、地上へ出た先でいずれも狭い谷か盆地へ入る。出口を塞ぎ、両側の高所から王国軍が射れば、地下へ戻ることも前へ進むこともできない。
侵入路は細部まで記されているのに、撤退路は一つもない。
補給目録も同じだった。破城杭と最初の攻撃に足りる弾薬はある。だが、長期戦を支える予備も、負傷者を地下へ戻すための物資もない。
王家はガレス派をリディアと和平派へぶつける。その後、生き残った者を地上侵攻へ誘い出し、すべての罪を背負わせて谷間で始末するつもりだ。
自治を与える相手へ渡す地図ではない。
帰還させるつもりのない兵へ渡す地図だ。
「何か不満があるか」
密使が探るように尋ねた。
ガレスは嘲りを呑み込み、羊皮紙を丸めた。
「いや。十分だ」
「では、取引成立ということでよいな」
「ああ」
「賢明だ。王家は約束を守る者には寛大だ」
ガレスは笑いそうになるのを堪えた。
約束を守る者ではなく、役目を果たす間だけ生かす者、と言い換えるべきだった。
王家がこちらを駒としか見ていないことはわかった。
ならば、盤上へ出る前に武器だけを奪う。
指定時刻も、自治の条件も、守るつもりはなかった。破城兵器で記憶庫と和平派を崩し、そのまま地上へ進む。用意された谷へ入らず、別の水路口から地方都市へ出る。
撤退路がないなら、地上へ領域を広げればいい。
「女と記憶石の処理を急げ。攻撃時刻はこちらから知らせる」
密使はそう言い残し、護衛と共に上層の搬送路へ消えた。
足音が完全に遠ざかってから、部下の一人が尋ねた。
「あの地図を信じるのか」
「信じるのは、地形と武器だけだ」
ガレスは木箱を指した。
「開けろ」
部下たちが鉄梃を合わせ目へ差し込み、重い蓋をこじ開ける。
油紙の下から現れたのは、王国軍規格の大型射出器と、黒銀色の破城杭だった。古代防壁の結界を一点だけ穿つ兵器。設置にも照準にも人手を要し、正確な弱点図がなければ石壁を傷つけるだけの代物だ。
破城杭の尾部には、先に受け取った弾頭と同じ製造系列が刻まれている。地下で拾った、出所不明の武器だと言い逃れられる品ではない。王家はその事実さえ、ガレス派を討つ口実に使うつもりなのだろう。
だが、今はその図がある。
「指定時刻まで待つのか」
「王家の犬になるために武器を受け取ったのではない」
「地上へ出た後は? 地図の道では囲まれる」
「王家が印をつけた出口は使わん。地方都市の配水路を奪い、そこから地上へ広がる」
ガレスは破城杭の冷たい先端へ触れた。
「記憶石は、取れるなら取れ。だが優先するのは、あの地上人と、あれを守る連中だ」
少し離れた場所で、守護獣が再び呻いた。
ガレスは振り返らない。
「裏道へ運べ。俺たちの戦争は、俺たちの時刻に始める」
部下たちが射出器を分解し、記憶庫裏へ続く保守搬送路へ運び込んでいく。
やがて組み上げられた破城杭の先端が、弱点図に記された記憶庫防壁の一点へ、まっすぐに向けられた。




