第17話 悲劇の婚約者
朝靄の残る王立聖廟区には、第一鐘の前から白い花を持った市民が集まっていた。
私的参拝のため一時閉門すると告知されていても、門が閉じる直前まで祈りたい者は絶えない。墓前には花束のほか、子どもが作った木札や、名もない家族からの手紙が積まれていた。
エドガー・ヴァレンが石畳を進むと、人々は自然に道を空けた。
「エドガー卿、どうかお身体を大切に」
「リディア様の勇気を、私たちは忘れません」
老婦人から差し出された白い花を、エドガーは両手で受け取った。
「ありがとう。彼女の遺志は、俺が守ります」
声は震えなかった。
悲劇の婚約者にふさわしい言葉も、沈痛な表情も、今では考えずに作れる。
老婦人は涙を拭い、深く頭を下げた。その善意を向けられるほど、手袋の下の指が強張る。
その隣にいた少年が、手作りの小さな木彫りを差し出した。笑顔の女性が、十三人を背に庇う形に彫られている。
「リディア様は、最後も怖くなかったのですか」
エドガーは一瞬だけ答えを失った。
「……ああ。皆が帰れることを喜んで、笑っていた」
少年は安心したように木彫りを墓前へ置いた。
エドガーは、真実を話せないのではなかった。今また、自分の口で嘘を選んだ。
細い腕を掴んだ感触が、まだ残っていた。
門へ走ろうとする身体を背後から抱え込み、両腕をねじ伏せた。助けを求める声を聞きながら、光の中へ逃げる仲間たちのために押さえ続けた。
『私は志願していません! 死にたくない!』
祈りの声へ重なるように、あの日の叫びが蘇る。
リディアは笑っていなかった。
自ら残ると申し出てもいなかった。
それを知るエドガーへ、市民は「最期を見届けた唯一の婚約者」として慰めを与えていた。
第一鐘が鳴る。
聖廟の管理者が参拝者へ閉門を告げ、護衛が人々を門外へ案内した。最後の一人が去るまで、エドガーは墓前で礼を崩さなかった。
重い門が閉じる。
足音が遠ざかると、彼の顔から作られた悲哀が消えた。
白大理石の墓碑には、穏やかに微笑むリディアの横顔が刻まれている。似ているはずなのに、エドガーが知るどの表情にも見えなかった。
祭壇の中央では、青白い脱出石が追悼の魔法灯へ光を送っている。
リディアがマリエルへ託した遺品ではない。
両腕を押さえられて抵抗できない彼女から、マリエルが奪った石だ。あの場にいたエドガーは、すべて見ていた。
彼は受け取った白い花を墓前へ置いた。
「……すまない」
返事がないと分かっているから、口にできる言葉だった。
「俺も、君へ投票した。君の腕を押さえて、逃げるのを止めた。俺が君を残した」
そこで言葉を切る。
認めるだけでは、息ができない。
「だが、あの時は他に方法がなかった。門は崩れかけていた。十三人を生還させるには、誰かが維持しなければならなかったんだ」
壊れた装置を確認させてほしいというリディアの訴えが、記憶の端へ浮かんだ。
時間がなかった。
そう結論づけたのは王太子であり、現場指揮官だった自分だ。あの数分を確かめるより、リディア一人を残す方を選んだ。
「真実を話せば、君の死は責任争いの道具にされる。救われた十三人の命まで、無意味だったと言われる。そんなことを、君も望まないだろう」
墓碑のリディアは、何も答えずに微笑んでいる。
「君の名は、国中に残った。皆が君を愛し、君の勇気を語っている。俺にできる償いは、この名誉を守ることしかない」
『理解できることと、同意することは違います』
あの言葉も忘れてはいない。
それでもエドガーは、リディアならいつか理解すると考えた。誰より彼女を知り、愛していた自分を、永遠に憎み続けるはずがない。許しを口にしてくれる者はもういないのに、彼女の側へ許す理由を積み上げた。
「許してくれ、リディア」
謝罪の形を取りながら、答えまで決めた願いだった。
エドガーは外套の内側から一通の封書を取り出した。
前夜、彼の屋敷へ届けられたものだ。差出人は、かつてリディアに仕えていた侍女ネラ。
すでに切った封を開き、もう一度便箋を広げる。
『エドガー様。
王家が用意した証言文ではなく、あなたご自身の言葉で答えてください。
リディア様は、本当にご自分から残ると仰ったのですか。
私の知るリディア様は、生きることを恥じる方ではありません。ご自身の死を笑って受け入れたというお話を、私は信じることができません。
リディア様が帰還するための脱出石が、なぜマリエル様へ託された遺品になっているのでしょうか。
なぜ十三人の方々は、それぞれの言葉で経緯を語らず、王家の用意した一通の共同証言書へ揃って署名されたのでしょうか』
便箋が指の中で音を立てた。
答えることはできる。
リディアは志願していない。俺たちが残したのだ。
その一文を書いて返せばよい。
だが、返事が外へ渡れば、共同証言の虚偽と自分たちの責任が追及される。指揮官の地位を失う恐怖が浮かぶと、エドガーはすぐに「地位がなければリディアの名誉を守れない」という言葉で覆った。ネラを真実から遠ざけ、沈黙の苦しみを自分だけが負うことにすれば、保身さえ償いの形に見せられた。
エドガーは便箋を握り潰した。
掌の中で固くなった紙を見つめ、しばらくしてから皺を伸ばす。破りも燃やしもしなかった。
制服から、宮廷監察局へ文書を提出するための封筒を出す。ネラの手紙を収め、表へ短く記した。
『公式発表への疑義を流布するおそれあり。差出人の動向確認を要請する』
逮捕を求めるものではない。ただ確認してもらうだけだ。
そう考えながら、エドガーは自分の署名で封を閉じた。
ネラへ答える代わりに、王家へ彼女の名を差し出した。




